丸森町から! 一條己(おさむ)のほっとする丸森

15頭の乳牛と田に30羽の合鴨。畑に特産ヤーコンを作っています。訪れるだけで「ほっとする町」丸森町の様子をつづります。

生産調整に思う 一條洋子 生活改善クラブ「つどい」15号昭和55年3月

2024-06-14 11:39:55 | 日記

    生産調整に思う 一條洋子  49歳

 美しい自然の中で、人との触れ合いを大切に自然の恵みに感謝しながら農業に生きようと頑張る私たちが

なぜかこの頃、生産調整・計画生産等という言葉を聞かなければならないのか。

私達専業農家が頭を痛める今日このごろです。

 コメの生産調整で減反が叫ばれ、酪農家は飼料の値上がりの中で草地の造成。

減反田が草地となり、なんとか自家生産の粗飼料が確保でき、牛乳の生産が伸び、

機械の設備や、牛の頭数も増えて専業で出来るようになったと思ったら、

コメ、ミカンに続き牛乳の計画生産。厳しい乳質検査のうちはまだよかったが、

今度は前年度の実績にての割り当てとか。

主食であるものが過剰になるとは思ってもみませんでした。

養蚕も今のところはよいが、又何ヘクタール以上の造成に補助金出す等と云って増反して、

これも過剰になりはしないかと心配です。

 こんな中で私たちは、家族で話し合いまたは同志での会合をもって、

勤め人とはちがう喜びを持ち、楽しく働ける毎日であるようにみんなで協力、話し合い、

計画によって自分の時間をつくり、楽しく働ける毎日であることを願って、

良き日の来るまで頑張ります。

 

 

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母、洋子の大川口生活改善クラブ「つどい」わが家の酪農経営をみつめて

2024-06-03 15:58:28 | 日記

 最近、雨の日が多いので母はそわそわしています。晴れた日は牧草収穫で忙しいので、一緒に出掛けることができませんでした。親せきや友達のところに出かけたいのです。仕事の休みの日は一緒に出掛けるようにしています。場所は生まれ故郷の梁川町か兄弟や孫のいる仙台です。そんな母の若いころの活動が「つどい」の投稿でわかります。

 大川口若妻会として昭和33年に8名で発足し、のちに大川口生活改善クラブになりました。

農業改良普及所の指導により活動していました。]

冊子は毎年発行されていましたが、その中の投稿に母洋子のものがあります。

 昭和52年3月号では、四三歳のころ

「わが家の酪農経営をみつめて」を投稿しました。

以下その内容は我が家の農業の始まりです。私は二十歳でした。

その後、祖父と父・母・私の4人で乳牛・肥育・子牛合わせて80頭まで増頭しました。

 

 

 

 

 

 

 

今は私一人で15頭の牛飼いです。50年も経ってしまいました。

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母 洋子さん

2024-02-11 06:36:35 | 日記

洋子さんは、92歳。ひつじ年生まれである

今年は辰年で、我が家の初代の名は、辰次郎。干支が名前に入っている

私の名前は、己。旧暦の巳年生まれだから

母の生まれたのは、隣町の梁川町山舟生

きょうだいの

一番上は 酉年生まれの とりさん

三番目は 猪年の いのさん

三番目は 兎年の うきちさん

四番目は 酉年の とりぞうさん

五番目は 甲年の かつこさん

一番下が 羊年の 洋子さん

私たちは 最近まで 母だけが 

干支の入った名前じゃないと 思っていましたが

暮れに 実家に行ったら 家を継いでいる姪こが

最近気づいて兄弟で話したけど

おばちゃんの名前にも干支が入っているんだねと入っていました

母も九二歳

人生百年としてもあと八年だ

「大切にしないと」と思ったのは親不孝でしょうか

もしかすると 百十歳まで頑張るかもしれませんからね

そうなったら 大ジャンプです

足は弱ってきたけど 

まだまだ元気で畑仕事もする 母です

 

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いいね!丸森「福祉の充実した町づくり」と「若者がつくる」新たな町の景色は

2023-10-03 09:39:37 | 日記

 

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若者がつくる新たな町の景色は

R5,9月の定例会 AIで藤井聡太さんのように行政サービスの名人に

町でも対話型生成AIシステムを導入!

AIを使いこなして、行政事務の効率化や新しい町づくりの取り組みが始まります。若い職員に期待がかかります。

地域公共交通推進支援

AIを使ったデマンドタクシー配車システムで、利用者の皆さんの要望に応えたより効率的な地域公共交通が実現します。

仮設団地跡地整地工事費

仮設住宅入居者全員が自宅再建や町営住宅・みなし仮設などに移られましたので、跡地を整備します。

水道未給水地区飲用水等確保対策事業補助金

今年は雨が降らないので渇水で飲用水や農地の水不足になりました。良質な飲用水確保のための補助事業です。費用の半分で30万円限度です。

今期15回目の一般質問は、一人・二人暮らしが1,177世帯に増えました。

あったかなまちづくり[高齢者の身体と心のバリアフリーの取り組を]

町の所有するバスを高齢者が利用しやすいノンステップバスにしては。

百々石公園は頂上まで道路を舗装することで、車で登れるようになる。車椅子でも移動できるバリアフリーの公園にして楽しんでもらおう。

入浴施設を充実して、閉じこもりがちな高齢者の外出を促進しよう。

いきいき交流センター大内を温泉施設のある直売所にしてはどうか。

 

いいね!丸森

福祉の充実した町

被災された方の生活再建で幸せな町に 次世代に良い故郷を残すために

町営・災害公営住宅や自宅の再建が進み、皆さん新居へ。日々の経済生活や行政区域・組織の見直しなどで地域コミュニティーの再生支援の取り組みを。

 

子供たちの可能性と夢をかなえよう

幼保小中、可能性を育てる教育の推進。

伊具高校との連携。給付型奨学金創設

 

暮らしやすい町で子育てをしよう

保育料・給食費無料の継続。

近隣市町と結婚・産婦人科対策

 

産業があり、活力ある町をつくる青年達の活動があります。そんな元気な町の発信。

畜産と環境保全型農業振興。物価対策、飼料や農業資材高騰・生活困窮者対策。

農業・商業・工業後継者の確保や新たな起業者の支援で豊かなまちづくり。

いろんな所で地域創りの活動がされています。町を支える青年交流活動の支援。

移住定住・帰って来いよUターン作戦で活気のある町づくり。

SNSなどによる、観光・産業・生活・町政の積極的発信。

ブログ 一條おさむの「ほっとする丸森」http//blog.goo.ne.jp/osamu1954 

 

高齢者・障がい者が暮らしやすければ子ども達もすみやすい町になります

障がい者の雇用・自立生活の場を希望者の実態に合わせて確保。

健康寿命を長くすることは医療や介護費用の削減にもつながります。スポーツ施設の充実や団体活動への支援強化。公園・生活道路のバリアフリーの街。

大雪・大雨は高齢者には特に大変です。生活道路や避難路確保対策の取り組み。

 

住みたいと思う買い物や交通の便利な町

町の大型プロジェクト河川防災ステーションは安全安心の防災拠点とコンビニや遊び場など、近隣の高齢者や子育て世帯が集う便利で快適な場所に。

阿武隈急行利用促進。町民のスクールバス乗車など高齢に寄り添う新たな交通手段を。

 

忘れない!東京電力原発事故

再稼働は核のゴミ処理後に

放射能汚染除染廃棄物仮置場の1か所への集約は子供や町民の近づかない場所の選定を。

核燃料の取り出しの事故にそなえて、モニタリングポストの継続。

 

 

 

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はらから福祉会前理事長 武田 元(はじめ)氏「働くことを生活の柱に」

2023-09-05 16:24:02 | 日記

はらから福祉会 40周年記念公演

       はらから福祉会前理事長 武田 元(はじめ)氏「働くことを生活の柱に」

(杖を突いている姿ははじめてみました。昨年の後半に体調を崩したそうです。200年生きようと思っていたがと言ってました。)

 40年間常識への挑戦だった。少数派の掲げる理想を一つ一つ実現して世の中が変わった。はらからは何を主張したのか。

 昭和41年、仙北の高校教員をしていた。3年たって父がガンで余命半年と言われた。

長男の私は兄弟や家族の面倒を見なければならない。

仙北から地元に移動の願いを出した。船岡の養護学校に高等部ができて、そこに移動した。

父がガンにならなければ、移動しなかった。だが、父は80歳まで生きた。誤診だった。

 当時、びっくりしたことがある。仙台の就労施設の見学に行った。薄暗い部屋で7~8人の人が椅子に座っていた。仕事が切れて、休んでいるところだった。給料は月3000円~5000円くらいと聞いて驚いた。

 船岡養護学校では、就職できない人の家を訪問してびっくりした。60歳を過ぎた人が一度も学校に行っていなかった。「外に出ていろんな人の話を聞きたい。でもやってはいけない。私は厄介者なのです。」

 今は、義務教育の義務化。みんなが学校にということで。養護学校に入るようになった。

 朝起きたときに、最初にすることは、家族の機嫌を見る。良かったら、申し訳ないがお願いをする。悪ければ、部屋に閉じこもる。

 そのころ舟形コロニー以外に就学の場所がなかった。日本全国そうだった。

 なぜ働くのか、その一つは、働くこと、暮らしを支えること。当たり前のことが、障がい者には当たり前ではない。

 働く、そして給料をもらうのは常識だが、大多数の人は誰でも働いて暮らしている。

 それでは、我々のやらなければならないことは、何か。

 多数の人は、100の力で働けば100の給料。

 障がい者の事業所は15000以上あるが、平均工賃は月16000円である。理由は、障害の重い人の身近にいる人ほど、低くて当たり前と思っているから。会社の社長がこのことを聞くと「それは日給ですか」という。身近な人ほど、行くところがあれば良いという考えである。

 めざすは工賃月額7万円以上。7万円は全員の目標 年金とあわせて暮らせる収入。 

どうすればよいか。50の力の人に100払えばよい。100の力の人に100払えばよい。そうする人が必要。

 どうすればよいか。50の人は他の人の力を借りる必要がある。どんな力を借りるか。一つは機械の力を借りる。ボタン一つで精密な仕事をする。50の力に機械の50を合わせて100とする。足りないところを補わないではダメ。1つはチームで仕事をする。分担する。得意な分野を合わせて100にする。関係者の役割は利益率の高い仕事を持ってくる。そうゆう工夫が仕事。単純作業の仕事は安い。あたりまえだ。プラス50を一人ひとりに合わせて100にする仕事を組み立てるのは大変というが、それは当たり前。なんでも大変、仕事は大変。障害の重い人は人生をかけて仕事をしている。

 障がい者はなぜ生まれてくるのか。一定の割合で生まれてくるのも意味がある。自分の一生をかけて大変なことを示している。船岡駅のバリアフリーはその成果。障がい者の生き生きしている町は誰でも暮らしやすいまち。孫などと何人もで出歩いていると、孫が弱い人の荷物を持ったりする。昔は荷物を全部大人に預けて遊んでいたのに。若い時は何でもないが年を取ってくるとできないことが出てくる。

 はらからがやるべきことは、ちまたにあふれている常識人に挑戦すること。非常識ということを実現すること。

 アイデアはある。100人で100通りあるが、アイデアはアイデアだけではダメ。

 はらから会が大きくなった理由!

はらから会員は1300人いた。今は800人位いる。研修・啓発・財政的な支援をずっとしできる。

「福祉は金もうけができない人には無理だ。できる人にはできる。」誰が言ったか?私だ。理想の夢を言った。どうなる。

運動をして、会員になってほしい。月1000円で年12000円。1250人で1500万円になる。

 無認可時代資金繰りが大変だった。蔵王の農家から、野菜を買ってきて販売した。多いときは1000万円以上になった。人間以外は何でも売った。国際障害者年。トレーナーとTシャツを販売して売れた何故できるか。覚悟である。大切なのはその金を何に使うか。

 目標と目的。何のために金は使うのか。はらから会と、はらから福祉会は表裏一体、いろんな人が集まってきてくれるのが大切。我々の活動の決め手は、いろんな人とつながること。身内で固まらない。できるだけいろんな人と巡り合った。つながった。

 令和3年、売り上げ約10億円。それは、はらからが世の中に提供した、食べて頂いたのが10億円あった。5億円は仕入れ代金・経費。人件費は新たに生み出した付加価値。

 なぜ働くかの2つ目は、社会的役割をはたすため。

 常識の人たちにそんなことはない。10億の品物を買ってくれる人たちがいる。これ以外にない。声を大にして言っても、本当の障がい者理解にはならない。なぜ働くのかそれは生活のためだ。いや、働かなくても生きていける人は、家族が面倒を見る、社会が面倒を見るとかあるが、考える前にまず、働くことである。

 はたまき作業所をつくるときに3000万円の借り入れが必要になった。私が借入れ人で、他のみんなが連帯保証人になった。その前に1つ目は、はらから作業所をつくった。この2つ、失敗したらどうする。働く場の確保。やる意味があるならやろう。20年の期限を8年で返済した。やることに意味があるなら、だったらやろう。迷ったらやろう。どうやってやろうと考えないで、まずやろう。やるにはどうするかを考えよう。

 はらからには親の会はない。当事者負担だけはやめよう。みんなのために働く。社会的役割を果たしていこう。役割が働くことだ。

 働くことは楽しいことだけではない。苦しくても働く、頑張るのが家族のためになる。そのあとに喜びがある。働くことが楽しみになる。

 障がい者は、障害があるから50%しか働けないのは当たり前という常識から脱却する。40年間その考えでやってきた。

 これからやるべきこと

ひとつは、非常にこだわりの強い自閉症の人への支援が必要。精神・身体への支援は、働くことについても沢山なされている。

2つ目は、高齢の障がい者はどうなるだろうか。親はいつまでも子供の面倒を見ることはできない。

 この2つの問題は非常に複雑で大変さはわかる。しかし、誰かがやらなければならない。この40年で解かったことがある。

 私は今こんなことで悩んでいると訴えることが必要である。その責任は当事者以外の人にある。

 社会的課題に挑戦するというふうに考える時が、今来ていると思う。

80年生きていると、いろんな人との出会いがあった。皆さんに配布したレジメの最後に、「困ったら、はらからへ」と書いたが、そういう存在でありたい想いで書いた。長生きすればいろんな世界が見られる。今生きている人間が大切である。

 最後に、今つながっている人達、事業でつながっている人達はよくぞ我々と繋がっていてくれたと思う。福祉の世界で、厳しい状況の中で、そのつながりで、新しい考えを生み出した。働くことは活力がでる。人と結びつける。必要な金を生み出せるか考えるより、まず、どうしてやるかが大切。

 

9月3日、槻木生涯学習センターに於いて。Ⅰ時間以上の公演でした。要約ですがまとめてみました。

                                        一條己

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