丸森町から! 一條己(おさむ)のほっとする丸森

15頭の乳牛と田に30羽の合鴨。畑に特産ヤーコンを作っています。訪れるだけで「ほっとする町」丸森町の様子をつづります。

わがやの3,11  Ⅱ後で知って驚いたこと

2016-03-11 19:57:27 | 日記

わがやの3,11  Ⅱ後で知って驚いたこと

停電で、ラジオだけが、情報。津波がとか、海が燃えていると聞いても実感がわきませんでした

帰ってこない子供たちですが

私は、停電で牛の搾乳ができないのが心配でそればかり考えていました。

その日の夕方の搾乳はあきらめました

次のあさにまとめて搾乳するしかないと

手絞りかなーと思いながら早くねました。

でも普通、停電というのは、

大雪でも倒木でも次の日には解消されていたのです。

早く寝たのと、妙な興奮でしょうか、目が覚めるのも早く起きて来たら

長女が、興奮した表情で玄関から入ってきました

彼女は、会社が休みで友達と友達と塩釜に遊びに行っていたそうで、

帰り道で地震に会いました。

運よく、多賀城で強制的に小学校に避難させられたそうで

窓からは、流される家や車がそこま見えたそうです。

彼女が、塩釜に行っていたことを知っていたら、妻は、夜も寝ないで塩釜まで行ったでしょうが

知らなかったのが良かったかはわかりませんが

子供たちの「大丈夫、無事です」の最後のメールが妻に安心感を与えていたのは幸いでした。

でも、たぶん、そのメールの後に津波がきたのですから、

避難させてもらえなかったらと思うと、涙が込み上げます。

多賀城小学校に避難してからは、住民の活動はスピード感があったそうです。

子供たちのランドセルは、一つの部屋に収納され

看護師や高齢者には机を並べてベットを作り

段ボールやマットを敷いて寒さをしのいだそうです。

体育館ではなく、教室を使ったのが良かったようで、寒くて不安な夜もしのげました。

この娘の体験が、南相馬の方々を筆甫中学校に受け入れるときに役立ちました。

娘が次の日の朝に帰ってこれたのは偶然で

大河原に出かけていた方が家族の安否を探して避難所を捜し歩いていました。

偶然に言葉を交わし丸森から来たと言ったら、

今、だったら、走れる。朝になったらわからない。今、が良いと聞いて

友達と、大変な気持ちと決意で帰ってきました。

私が、電気も点かないから手絞りしかないなと決意をして玄関に向かった時に

「ふー」と言って長女が玄関から入ってきました。

私は、よー と言って安心感だけで何も聞かずに、牛小屋に向かいました。

電気が来ないとわかったら、幸いにも、いつもお世話になっている

石川板金さんの発電機を借りることができて

2週間お世話になりました。

丸森は水道も、下水も事業者さんの頑張りで停止はありませんでした。

近隣の市町村の方が知り合いを訪ねて水を調達しました。

娘も2日後に大河原の職場復帰をしたとき、自分用に持って行ったペットボトルの飲み水は

施設の高齢者に最初に提供されました。

施設は暖房が効かないので、炭や薪も準備しましたが、リスクを伴うので役には立ちませんでしたが

いろんな、みんなのためという思いがわいてきました。

そんなとき、東京電力福島原発の事故がおこっていたのです。

放射能に被災した「南相馬市の住民が丸森町に避難してきました

耳を疑うような国の指示がありました。

町の説明では、全員、放射能の被爆スクリーニングしないと受け入れてはだめだというのです

規則というのは、役人というのは、本当に困ったときには役に立たないというのが解った瞬間です。

私は、家にあった飴玉と知人のヤクルト販売員のお嫁さんがくれたヨーグルトをもって

避難者が待機している丸森まちづくリセンターに行きました。

コミュニケーションが大切だと思ったのは、この時です。

車いすの高齢者「疲れが取れますよ。飴を食べませんか」と聞いたら、

「トイレに行きたい」と言うので、女性職員を呼んで助けていただきました。

その後、避難者について町執行部が議員に相談があるというので会議がありました。

閉校になった筆甫中学校体育館にに受け入れたいと提案されました。

「なぜ教室を使わないんだとききました」

担当課長は、「廃校以後掃除をしていないから」というのです。

私は、長女の多賀城での体験、何もいわなくても

避難者が協力して、看護師や、介護士が高齢者や子供たちを守り、

教室を片付け、有効に利用したことを告げて

教室を見ていただいて、避難者に判断してもらったら良いと発言しました。

南相馬の皆さんは、教室を行政区ごとに分けて掃除をして利用しました。

後で、食料などを差し入れに行ったのですが、筆甫の皆さんのいろんなものの提供などを使った

調理は女性軍が生き生きと働いていました。 続く・・

 

 

 この日から電気が来ました。ブログの再開

http://blog.goo.ne.jp/osamu1954/d/20110318

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わがやの3,11

2016-03-11 08:57:17 | 日記

我が家の3,11

あの日は、みんな出かけていて

私は商工会の2階で所得申告が終了し印鑑を押したときでした。

ゴーっと揺れだして、机につかまりながら体勢を低くしました

途端に、エアコンのカバーが「ガターン」と落ちて

ながあい揺れが続きました

父と母が心配で家に帰る途中、

町民グランドのナイター照明が

メトロノームのように大きく揺れて、なかなか止まりません

子供たちは、会社にいた妻のところに

「無事だ」のメールをしたきり、連絡が取れなくなりました

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする