大倉草紙

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【奈良】 金剛山

2009年03月21日 22時12分54秒 | 旅 - 奈良県
本日の行程:(近鉄・富田林駅…金剛バス千早線・富田林駅前~金剛登山口) → 【金剛山】【葛城山】

金剛山は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村に跨る山。
標高1,125メートル。
山頂は奈良県御所市にあたる。

富田林駅前から出る金剛登山口行きのバスの中は、山登りの格好をした人ばかりだった。
約40分で金剛登山口に着く。
バスを降りると、想像以上に肌寒い。


登山口はこんな感じ。
山頂までの道は整備されている。
整備されているから人が来るのか、人が来るから整備されたのか、ともかく人が多い。
走っている人も見かける。
なんでみんな走っているんだろう?
はあはあ言いながら登っている私には不思議でならなかったが、その謎は山頂にあったチラシで解けた。
葛城山、金剛山等を縦走する「ダイヤモンドトレール」の二上山の麓から葛城山、金剛山を経て南海天見駅まで約35キロを走る山岳マラソン大会が毎年開かれているというのだ。
35キロを歩くだけでも大変だというのに……。


登り始めてすぐ、千早城址への分岐点がある。
千早城址についてはこちら


金剛山頂まであと1400メートルの地点には、ウルトラマンとバルタン星人が。
「奉納
 金剛山本道中間点
 人生も山も苦しみも
 喜びも
 あと半分会
 会 長 ウルトラマン
 副会長 バルタン星人」
とある。


山頂近くには、つららができていた。
1本折って口に入れてみる。
登山口では寒く感じられたが、山を登っているうちに暑くなってきていたので、気持ちがいい。


山頂の少し手前には、「金剛練成会員1000回以上登拝者名」の一覧が掲げられている。
1000回だってーと驚いていたが、よく見れば、なかには10,000回も登った方の名前も!
登山回数捺印所があって、人々が並んでいる。
すごいなあ。


金剛稲荷神社
この神社の隣にある売店で、休憩する。


登ってくる途中で雪は見なかったが、山頂には最近まで雪があったのだろう。


金剛山國見城址には、これが立っているだけで他には何もない。


金剛山頂
登山口から山頂まで1時間15分くらいかかったか。


山頂からの景色

山頂には、転法輪寺と葛木神社がある。
【転法輪寺】

本堂


豊太閤ひさご池
天正13年(1585)、豊臣秀吉が増田長盛、片桐旦元を従えて転法輪寺にお参りした際に掘った池。
秀吉の馬印である千成ひょうたんを形どっている。
中の島は亀を表現していて、弁財天が祀られている。


牛王(ごおう)
牛王像は、転法輪寺の本尊の化身。
人のために働き、人のために一切を捧げる尊い姿をあらわしているのだという。


行者堂
役行者は、金剛山転法輪寺の開祖。
奈良県御所市に生まれ、金剛山で30年間修行したという。


十三重の塔


転法輪寺の御朱印


【葛木神社】

転法輪寺の前から、葛木神社への参道が始まる。


夫婦杉


宝剣塔
後醍醐天皇および大塔宮を追善供養するために建てられた足利時代の石塔。


福石
「崇神天皇の御代
 大国主の神ご出現
 大国石とも言われ
 福徳招来の守り神」とある。


葛木神社拝殿
葛木神社の祭神は、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)。
「一言願えば一事聞こし召し給う神様」といわれる。
副祭神は、楠正成他十一柱。


葛木神社摂社・雄略天皇御狩の跡
雄略天皇が猪狩のために登山した際、葛木一言主神と会見し、猪を蹴り殺したといわれる場所。


葛木神社の御朱印


葛木神社の一の鳥居は、進行方向、水越峠へ向かう途中にある。


一の鳥居のあたりからは、葛城山が見える。
あんなに遠くまで歩いて行けるのだろうかと不安になる。


下り坂とはいえ、階段が歩き辛い高さや幅で、思った以上に時間がかかる。
登ってくる人の表情も苦しそうだ。
葛城山方面から金剛山に登るより、金剛山口から登ったほうが楽なのではないかと思う。
水の流れを見ると、なぜだかホッとする。


金剛の水
ここまで来れば、水越峠はもうすぐ。

登りながら、なんで登ってきちゃったんだろう、いつまで上り坂が続くのだろう、あ~あ、もう下りたい、と何度も思った。
なのに、頂上まで登ると気持ちよくて、登ってよかったといつも思うから不思議だ。

今日は、かなりくたびれた。
御所の町を散策しようと思っていたが、そのまま電車に乗って帰る。
帰りの電車の中では、知らない間に熟睡していた。

金剛山よりキツかった葛城山についてはまた後日。


今日の歩数:24,071歩

【京都】 源光庵

2009年03月20日 20時00分00秒 | 旅 - 京都府
11月24日(月)
当日の行程:(JR・京都駅…京都市営バス・50番京都駅~千本中立売…6番千本中立売~鷹峯源光庵前) → 【光悦寺】【常照寺】【源光庵】 → (京都市営バス・6番鷹峯源光庵前~千本北大路…206番・千本北大路~大徳寺前) → 【興臨院】【大仙院】【芳春院】【総見院】【高桐院】【黄梅院】 → (京都市営バス・206番大徳寺前~京都駅…JR・京都駅~土山駅) → 【ジョセフ・ヒコ アメリカ市民権取得150周年記念特別展(播磨町郷土資料館)】


源光庵は、貞和2年(1346)に大徳寺二代徹翁国師の開創による。
その後、元禄7年(1694)に卍山道白禅師によって曹洞宗に改められた。


鐘楼


本堂


迷いの窓
「迷いの窓」は、角型に人間の生涯を象徴していて、生老八苦を表しているのだという。


悟りの窓
「悟りの窓」は、円型に禅と円通の心を表わしていて、円は大宇宙を表現しているのだという。
窓からの紅葉が美しかった。


血天井
本堂内には、血天井がある。
これは伏見城の遺構である。
慶長5年(1600)7月、家康の家臣・鳥居彦左衛門元忠は、伏見城で石田三成軍と交戦し、討死する。
残った380余人は城内で自刃したといい、この血天井はその痕跡であるという。
天井には、足跡がはっきりと認められる。
鳥居元忠は、家康が少年時代、駿河の今川義元のもとに人質としてとられていったときから家康に仕えており、その忠臣ぶりは「三河武士の鑑」ともいわれる。
玉砕されるための城の守将を務める鳥居元忠のことを考える。
鳥居元忠は、三方ケ原の合戦で負傷し、足に障害が残っていたという。
だからなのか、血天井の足跡を見ると、様ざまな連想が働く。


鳥居元忠の位牌


源光庵の御朱印

【京都】 常照寺

2009年03月19日 20時00分00秒 | 旅 - 京都府
11月24日(月)
当日の行程:(JR・京都駅…京都市営バス・50番京都駅~千本中立売…6番千本中立売~鷹峯源光庵前) → 【光悦寺】【常照寺】【源光庵】 → (京都市営バス・6番鷹峯源光庵前~千本北大路…206番・千本北大路~大徳寺前) → 【興臨院】【大仙院】【芳春院】【総見院】【高桐院】【黄梅院】 → (京都市営バス・206番大徳寺前~京都駅…JR・京都駅~土山駅) → 【ジョセフ・ヒコ アメリカ市民権取得150周年記念特別展(播磨町郷土資料館)】


吉野門

常照寺は、元和2年(1616)に本阿弥光悦から土地の寄進を受け、寛永4年(1627)に光悦の子・光嵯の発願で寂照院日乾上人を招じて開創された山城六檀林の一偉大観「鷹峰檀林」(学寮)の旧跡。

ここは、日乾上人に帰依した名妓・吉野太夫(二代目)ゆかりの寺としても知られている。
吉野太夫が寄進した山門は、「吉野門」とも呼ばれる。
毎年4月第3日曜日には、「吉野太夫花供養」が行われるという。


帯塚
昭和44年(1969)建立。
全国初の帯塚なのだそうだ。
帯状をなす塚石は、四国吉野川産の自然石(吉野石)で、6トンもあるという。


本堂


遺芳庵茶席
遺芳庵茶席の窓は、吉野太夫が好んだ大丸窓(吉野窓)。


こちらは、高台寺にある遺芳庵。
やはり吉野窓がある。


吉野太夫の墓
戒名は「唱玄院妙蓮日性信女」。


吉野太夫と灰屋紹益の供養塔
吉野太夫の夫・灰屋紹益は本阿弥光悦の親戚。
京都の豪商で、和歌や茶の湯などに秀でていたという。


常照寺の御朱印

【京都】 光悦寺

2009年03月18日 20時00分00秒 | 旅 - 京都府
11月24日(月)
当日の行程:(JR・京都駅…京都市営バス・50番京都駅~千本中立売…6番千本中立売~鷹峯源光庵前) → 【光悦寺】【常照寺】【源光庵】 → (京都市営バス・6番鷹峯源光庵前~千本北大路…206番・千本北大路~大徳寺前) → 【興臨院】【大仙院】【芳春院】【総見院】【高桐院】【黄梅院】 → (京都市営バス・206番大徳寺前~京都駅…JR・京都駅~土山駅) → 【ジョセフ・ヒコ アメリカ市民権取得150周年記念特別展(播磨町郷土資料館)】


紅葉の季節、光悦寺を訪れる。
拝観が始まる8時前から、山門が開くのを待つ人の姿を見かける。
皆、手にはカメラを。
私も同じだ。

この辺りは、鷹峯光悦町という。
元和元年(1615)、徳川家康から与えられたこの地に、本阿弥光悦は一族や工芸職人たちと移り住み、芸術村を築いた。
光悦の没後、その住まいを寺に改め、光悦寺となった。


本堂


鐘楼


三巴亭


了寂軒


光悦終焉の「大虚庵」は、大正4年(1915)に再建されたもの。


大虚庵は、光悦垣または臥牛垣と呼ばれる垣根に囲まれている。



境内からは、鷹峰三山を見渡すことができる。
案内板によれば、左から鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰。


本阿弥庵


本阿弥光悦の墓


左から、他一族の墓、本阿弥光甫の墓、本阿弥光瑳の墓。


光悦寺の御朱印

【滋賀】 長浜盆梅展 (慶雲館) 

2009年03月17日 20時00分00秒 | 祭り・催し
3月8日(日)
当日の行程:(車) → 【賤ヶ岳】【黒田家舊縁之地】【渡岸寺観音堂(向源寺)】 → 【高月町立観音の里歴史民俗資料館】【小谷城戦国歴史資料館】 → 【浅井歴史民俗資料館】【竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)】【長浜盆梅展(慶雲館)】【長浜鉄道スクエア】 → 【黒壁スクエア】


長浜を訪れた際に、長浜盆梅展を見てきた。
チラシには、「サトル 年齢7歳 身長110cm」「さざれ岩 年齢350歳 樹高275cm」とある。

会場の慶雲館の近くは、人で賑わっていた。
私自身は盆梅に興味はなく、「盆梅」というコトバにも馴染みがなかったので、それを目的にやってくる人がこんなに多いということに驚いた。
思い返せば、父母は毎年のように「世界らん展」を観に行っているが、私も行ってみたいと思ったことは一度もない。
花を愛でる気持ちがないわけではないのだが、あれこれいじくりまわされた植物を見るのを好まないのかも知れない。
花だけではなく、たとえば、トイプードルなどは可愛いとは思っても、苦手な部類に入る。

「盆梅展に行ってみよう」と夫が言い出したとき、冗談だろうと思った。
夫にこのような趣味があると、私は知らない。
聞けば、新聞で「盆梅展」という文字を見て気になったのだという。
「ボンバイテン」、私は音が気になり、行ってみることにした。





梅ってこんなにいろんな種類があるのか、ということに驚く。
丹精込めて育てられた梅は美しい。
盆梅に熱中したら、こんなふうにちょっと1泊旅行に出かけようなんてことはできないな、と要らぬ心配をする。
思いがけない寄り道だったが、何でも実際に見てみることが大切だ(と思ってる)。
ところで、盆梅展は関西でしか開かれないのだろうか?

【福井】 金ヶ崎城跡

2009年03月16日 20時00分00秒 | 旅 - 福井県
3月7日(土)
当日の行程:(車) → 【金崎宮】【金ヶ崎城跡】【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】【氣比神宮】【真願寺(敦賀城跡)】 → 【八幡神社(敦賀郷土博物館)】 → 【来迎寺(敦賀城中門)】【武田耕雲齋等墓】 → 【松原神社(鯡倉)】【氣比の松原】【常宮神社(朝鮮鐘)】【一乗谷朝倉氏遺跡資料館】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡】【永平寺】 → (滋賀・尾上温泉泊) 


金崎宮の境内地の大部分が金ヶ崎城の旧跡である。
金崎宮の摂社・絹掛神社の脇の道を登る。
案内板もあり、道も整備されている。
一周約25分と書いてあったが、そんなにはかからなかったような気がする。


尊良親王御陵墓見込地
落城時の親王自刃の地ではないかといわれている。
江戸時代末期には、このあたりから経塚が発見され、石室から銅製の経筒、円鏡、椀が出土している。


金崎古戦場の碑


月見御殿跡
金ヶ崎城の本丸跡といわれる。
月見御殿という名の通り、ここで月見をしていたのだそうだ。
ここからは、敦賀湾が一望できる。
風が強い。
いつもそうなのか、それとも今日の風が特別に強いのか分からないが、こういう風を受けると、日本海に来たなあーとしみじみ感じる。


三の木戸跡
南北朝時代の三の木戸跡で、近くから清水が湧き出ていたそうだ。


焼米石出土地
金ヶ崎城の兵糧庫があった場所で、織田・朝倉の攻防戦で焼けた米が後に出土したそうだ。


二の木戸跡
南北朝時代の二の木戸跡で、この付近で激戦があったと伝わる。


一の木戸跡
南北朝時代の一の木戸跡。
戦国時代には、朝倉氏もこの木戸を利用したといわれる。

【福井】 金崎宮

2009年03月15日 20時00分00秒 | 旅 - 福井県
3月7日(土)
当日の行程:(車) → 【金崎宮】【金ヶ崎城跡】【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】【氣比神宮】【真願寺(敦賀城跡)】 → 【八幡神社(敦賀郷土博物館)】 → 【来迎寺(敦賀城中門)】【武田耕雲齋等墓】 → 【松原神社(鯡倉)】【氣比の松原】【常宮神社(朝鮮鐘)】【一乗谷朝倉氏遺跡資料館】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡】【永平寺】 → (滋賀・尾上温泉泊) 


金崎宮は、金ヶ崎城跡の麓にある。
足利軍に攻められた尊良親王、新田義貞の嫡子・新田義顕ら、三百余名が命を失った地である。
首尾よく脱出することができた恒良親王も、後に捕えられて毒薬をもられて亡くなっている。
金崎宮は、地元の人々の請願で、明治23年(1890)に尊良親王を祀る神社として創立した。
明治25年(1892年)には恒良親王が合祀されている。


中門・奥に見えるのが本殿


摂社・絹掛神社
「延元二年(一三三七)三月六日金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下三百二十一名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判名(ママ)する者僅かに十数名、大半の人は近畿、中国四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少くはない。籠城五ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向った壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」


摂社・朝倉神社
朝倉義景は金ヶ崎等に城を築き、織田信長の来襲に備えた。
元亀元年(1570)、信長は天筒・金ヶ崎両城を攻略し、朝倉景恒は降伏する。
朝倉神社では、この地に城を構えた文明3年(1471)から降伏するまでの朝倉氏六代と一子の御霊を祀っている。
境内では、「金ヶ崎の退き口」や「小豆袋」のエピソードが紹介されている。
金崎宮の難関突破守は、両方を紐で結んだ袋の形をしている。
中にはお守りのほかに、小豆が一粒入っているらしい。


金崎宮の御朱印

【奈良】 お水取り (東大寺二月堂修二会)

2009年03月14日 23時51分31秒 | 祭り・催し

お水取りは、今年で1258回目を数えるそうだ。
毎年3月1日から2週間にわたって行われる。
今年のお水取りは、きょうが最終日。


お水取りは、正式には「修二会(しゅにえ)」という。
旧暦の2月に行われるからなのだそうだ。
二月堂の名の由来はここにある。


午後4時頃に二月堂の前に到着。
まだ人は少なく、二月堂の一番近い場所で見ることができた。
ただ、始まるまでの2時間半、待つのが辛かった。
本を持っていったのだが、読んでいられないほどに寒い。
あと1時間、あと20分、あと5分……と、開始時間の午後6時30分が待ち遠しかった。


午後6時半。
松明が廻廊を上がってくる。


次々と松明が現れる。
火の力ってスゴイなあ、今まで寒さに震えていたのに暖かい。
建物の下に落ちる火の粉は、すぐに竹箒で掃かれる。
松明の火は近かったが、風向きのせいか、こちらまで火の粉が飛んでくることはなかった。


10本出揃ったところで、松明はくるくると回される。
花火を見ているようだった。
お水取りが終わり、桜の春ももうすぐだ。

【大阪】 妙見山奥之院

2009年03月13日 20時00分00秒 | 旅 - 大阪府
11月22日(土)
当日の行程:(車) → 【箕面の滝】【勝尾寺】【久安寺】【多田神社】【能勢妙見山】【妙見山奥之院】【賑-交わる街道と池田-(池田市立歴史民俗資料館)】

妙見山奥之院へ向かう。
暗くなる前に辿り着きたい、と急ぐ。

奥之院は、まだまだ先。


道中、見つけた猫塚。


妙見山奥之院はこの石段の上。
山を下りたところにある眞如寺(能勢妙見山は眞如寺の飛び地境内)から奥之院まで、毎日、当番のお坊さんが通っていらっしゃるそうだ。
雪の日などは、さぞかし大変なことだろう。


本堂


開祖日乾上人之碑


妙見山奥之院の御朱印

【大阪】 能勢妙見山

2009年03月12日 20時00分00秒 | 旅 - 大阪府
11月22日(土)
当日の行程:(車) → 【箕面の滝】【勝尾寺】【久安寺】【多田神社】【能勢妙見山】【妙見山奥之院】【賑-交わる街道と池田-(池田市立歴史民俗資料館)】


鳥居もあるが、能勢妙見山は日蓮宗のお寺。
眞如寺(能勢妙見山の北、大阪府豊能郡能勢町地黄606番地)の飛び地境内で、正式には「無漏山眞如寺境外(けいがい)仏堂能勢妙見山」というそうだ。


妙見山は、兵庫県川西市、大阪府豊能郡豊能町、能勢町にまたがっている。
ブログのタイトルでは、能勢妙見山(無漏山眞如寺境外仏堂能勢妙見山)の住所に従い、【大阪】とした。


開基能勢頼次公像


神馬
神馬には、「矢筈(やはず)紋章」が付いている。
「矢筈紋章」は、能勢頼次が使用していたものだという。
吉例の「矢筈」が寄り合ってできたものなのだそうだ。


星嶺(せいれい)
妙見山の山頂付近には、信徒会館の「星嶺」が建っている。


星嶺の前の景色


山門
この山門は、大阪府と兵庫県の府県境に建っているのだそうだ。


山門の脇には、気温表が貼ってあった。
横の赤いラインが零度。


日蓮大聖人銅像


鐘楼


浄水堂
この浄水堂は、中村歌右衛門(成駒屋)の寄進によるもの。
そのため、この水を「歌右衛門の浄水」と呼ぶそうだ。
水は、妙見山の地下200メートルから汲み上げているとのこと。


御神水は持ち帰ることができる。
ただし、湧水量に限りがあるため、ひとり2リットルまで。


祖師堂では、宗祖・日蓮大聖人を祀っている。


開運殿(本殿)
慶長10年(1605)、能勢頼次によって草創。
天明7年(1787)に再建。
北辰妙見大菩薩を祀っている。


読経堂
寛政8年(1797)建立。


絵馬堂


能勢妙見山の御朱印