大倉草紙

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【兵庫】 外人居留地68番館の門柱

2010年03月11日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
2008年9月27日(木)


(兵庫県神戸市中央区京町68-2)


「この地域一帯は慶応三年(一八六八年)十二月七日の兵庫開港によって設けられた外国人居留地の跡である。
 京町68番地は明治二年(一八六九年)に競売されオランダ人ハルトマン・ヘルツが百坪当り二百一円二銭五厘で落札した地所である。明治四年ごろには早くもれんが造りの倉庫が建てられていた。
 この門柱は明治十五年ごろこの地に住んだエッチ・ショニングの住居前に建てられたものと推定される。
 開港当時の外国商館の面影をしのばせる貴重な文化遺産としてここに保存するものである。
 昭和四十六年八月 神戸市長 宮崎辰雄」(碑文より)

【兵庫】 英賀

2009年11月14日 21時08分39秒 | 旅 - 兵庫県
9月21日(月)
当日の行程:(車) → 【竹田城】【出石】【英賀】 

歴史小説を読んでいて、土地勘があるのとないのとでは、面白みの度合いが全く違ってくると思う。
手もとに、『司馬作品と戦国フィールドミュージアム』という地図がある。
司馬遼太郎記念館で購入したもので、関西では、これをたよりにあちこちを旅した。
今思えば、夢のような週末だった。

最後に残った場所が、英賀だった。
出かける前の下調べは、たいてい私がする。
いつものようにカーナビに入れる住所や電話番号のリストを持って出たのだが、車の中で、夫との会話がかみ合わない。
しきりに「城」という私と、「海」という夫。

私は、英賀といえば「英賀城」だと思っていたが、夫は「英賀の浦」に行きたいと思っていたらしい。
なるほど、『司馬作品と戦国フィールドミュージアム』にはこう書いてある。
「英賀の浦『播磨灘物語』天正4年(1576)年 毛利軍がこの浦に上陸、黒田官兵衛の姫路城を圧迫」


市立英賀保小学校の隣の清水公園の地図を参考に、暗くなるまで数ヶ所を回る。


芝の口之跡


英賀城本丸之跡
「英賀城(あがじょう)
 岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
 鎌倉時代には、とりでが造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。しかし嘉吉の乱(一四四一年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
 天正八年(一五八〇年)秀吉に滅ぼされるまで約一四〇年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていた。城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。また英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)として大いににぎわった。
 昭和十三年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っている。また英賀御坊跡は昭和十三年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。」(案内板より)


英賀城本丸跡近くの川
毛利水軍5000人が上陸したのは、どこかこのあたりに違いないと思い、写真を撮ってみた。
帰宅後調べたところ、英賀の浦は、この川の西にある田井ヶ浜のことのようだ。


英賀城跡公園にある野中口之跡の碑


英賀城跡公園内に復元された石塁


英賀神社は、英賀城跡公園の隣


本殿


英賀神社の境内には、英賀城の土塁が残っている。


本殿のすぐそばに建てられている播磨灘物語の碑

連休中で、帰りの道はひどい渋滞。
用事がある夫は姫路駅から電車。
ひとりで運転をしながら、あれやこれやと思いを巡らす。
再びこのあたりを車で走ることはあるのだろうか。
きっとこの日を懐かしく思うことだろう。

【兵庫】 出石

2009年11月13日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
9月21日(月)
当日の行程:(車) → 【竹田城】【出石】【英賀】 


辰鼓楼
竹田城に行ったあと、お蕎麦を食べに出石へ向かった。
出石は静かな町だが、この辰鼓楼のあたりは賑わっている。
辰鼓楼が建てられた明治4年(1871)当初は、時を告げる太鼓が鳴らされていたのだという。


彩蕎子(さいきょうし)というお店でお蕎麦をいただく。


器は出石焼。
お蕎麦よりつゆの味が気に入った。
皿そば5枚が一人前。
追加注文をするお客さんがほとんど。
私たちは、お昼におにぎりを食べていたので、一人前でちょうどよかった。


出石明治館
かつて郡役所として使われていた建物。
明治20年(1887)に建てられたもの。
プロ野球選手だった大友工投手の展示室や、出石出身の人物をまとめた展示室などがある。
沢庵和尚や小林秀雄も出石出身なのか。
斎藤隆夫も出石生まれで、近くに記念館があり、夫は行きたがっていたが時間の都合で願いは叶わず。


ほうぼうに、桂小五郎潜居跡がある。
ここは、畳屋・重七の屋敷。
現在は、寿司梅というお店になっている。


寿司梅の前に建つ桂小五郎潜居跡の碑

【兵庫】 尼崎城

2009年10月01日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
7月5日(日)
当日の行程:(近鉄・二上駅) → 【二上山】 → (近鉄・二上神社口駅~大坂阿部野橋駅…JR・天王寺駅~西九条駅…阪神・西九条駅~尼崎駅) → 【尼崎城跡】 

尼崎城は、戸田氏鉄が元和4年(1618)から数年をかけて築いた城。
城域は、現在の北城内、南城内の約300メートル四方で、西は庄下川、東は大物運河が外堀にあたる。
現在の城内小・中学校校庭あたりに本丸があり、高さ18メートルの四層の天守閣が築かれていたという。
その姿が会場に浮かんでいるように見えたことから、「浮城」「琴浦城」と呼ばれていたそうだ。

【櫻井神社】

櫻井神社は、尼崎城跡に明治15年(1882)に建立された。


社殿


社殿の前には、尼崎城天守の棟瓦が置かれている。


おまもりの自販機。
初めて見た。


櫻井神社の境内にある契沖神社。
契沖は、尼崎生まれ。


櫻井神社の御朱印


【城内小学校】

尼崎城址の碑


小学校の校庭の一角に、天守閣の模型がある。


模擬天守閣は、写真をもとに木型を作り、コンクリートで固めたもの。
昭和15年(1940)の1学期間かけて、教職員と児童とが作ったのだそうだ。


【尼崎城址公園】



模擬石垣

【兵庫】 竹田城

2009年09月22日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
9月21日(月)
当日の行程:(車) → 【竹田城】【出石】【英賀】 


平殿から南二の丸・南千畳を望む

竹田城といったらこの風景。
早朝、雲海に浮かぶ天空の城を写真におさめに訪れる人も多いのだという。
関西生活最後の遠出は、迷うことなく竹田城に決まった。
しかし、道には迷った。
「山城の郷」に車を停めて登ろうとしたが、8月9、10日に発生した台風9号による土砂崩れで、ここからの道は全面通行止めとのこと。
貼ってあった地図をたよりに、南登山道へと向かった。
南登山道の駐車場は、山の中腹にある。
道は狭く、車がすれ違うのには難儀する。
連休中だからだろうか、駐車場は車でいっぱい。


駐車場のそばにある竹田城山門


駐車場の奥にある山名氏赤松氏両軍陣歿諸霊供養塔


こちらの登り口を使うと、10分ちょっとで本丸に着く。


花屋敷


花屋敷からの風景


花屋敷から本丸方面を望む


平殿


本丸への登り口


本丸


天守台


天守台にある三角点
竹田城が築かれていた古城山(虎臥山)の標高353.7メートル。


天守台からの風景


天守台から二の丸を望む


天守台から南二の丸・南千畳を望む


二の丸から南二の丸・南千畳を望む


南二の丸


南二の丸から本丸・天守台を望む


正門


搦手口

「史跡竹田城跡
 -遺構について-
 竹田城は嘉吉年間(一四四一~四三)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣氏に築かせた城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。
 最近の調査では、現存する総石垣の城郭になったのは、廃城時(慶長五年・一六〇〇)にごく近い年代と考えられている。
 竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿って北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭を配している。
 また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっている。
 規模は南北約四〇〇m、東西約一〇〇mである。
(昭和一八年九月八日 国史跡に指定)

 ―石垣について-
 竹田城の見どころは石垣にある。この石垣は穴太(あのう)積みと呼ばれる石積み技法を特徴としている。穴太積みとは、近江(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法である。安土城をはじめとする城郭の多くが、その技法により築かれている。
 竹田城の石垣は、加工をほどこさない石をそのまま積んでおり、一見して粗雑にみえるが水はけがよく、崩れを防いでいる。
 竹田城は、石垣が築かれてから約四〇〇年経つが、一部の復元箇所を除いて当時のままの姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。」(案内板より)


当日の歩数:9,316歩

【兵庫】 赤穂 ③ 赤穂城など

2009年09月11日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【赤穂城跡】
「赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
 本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門をもつ。天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓大のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢枡形として配されていた。
  平成10年3月  赤穂市教育委員会」(案内板より)

本丸門


本丸門の上から
左手に天守台が見える。


大池泉


刎橋(はねばし)門跡


天守台


天守台から本丸門方面を望む


厩口(うまやぐち)門跡


東北隅櫓台


二の丸門跡
「ここは二の丸門のあった場所である。
 浅野長直に仕えていた軍学者山鹿素行が承応二年に赤穂へ来て、虎口の縄張りの一部を変更したことで知られている。
 赤穂城の二の丸の面積は一万七、二五九坪あり、二の丸門は櫓門で、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪の大きさであった。
 また、文久二年(一八六二年)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老主税が、藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。いわゆる『文久事件』である。この事件は、明治四年(一八七一年)二月の、日本最後の仇討ち『高野(こうや)の仇討ち』(和歌山県高野山)の導火線ともなった。
 ここに置かれている半畳くらいの二つの大きな石は、小石を持って叩くと『かんかん』という音をたてることから、誰言うとなく『かんかん石』と呼ばれている。
   赤穂義士会」(案内板より)


山鹿素行の像


【赤穂市立歴史博物館】

赤穂市立歴史博物館は、赤穂城米蔵跡に建てられている。


裏に回ると、土蔵風な建物になっている。
赤穂の塩、赤穂城や赤穂義士について展示されている。
城下町に上水道が整備されていたことには驚き、またそのしくみは興味深かった。

【兵庫】 赤穂 ② 大石神社など

2009年09月10日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【大石神社】

大石神社の祭神は、大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命。
浅野長直・長友・長矩の三代の城主と森家の武将を合祀している。


四十七義士石像表門隊
鳥居までの参道の両側には、四十七義士石像が並ぶ。


義芳門
神戸の湊川神社の門を移築したもの。


大石内蔵助良雄像


義士発祥之地の碑


舟石
かつて、浅野家の大坂藩屋敷に置かれていた舟石。


拝殿


大石神社の御朱印


【大石良雄宅跡の長屋門】

内側から見た大石邸長屋門
大石邸長屋門の内側(大石邸庭園)には、大石神社から入ることができる。


通りから見た大石邸長屋門
大石内蔵助の一家三代が57年に渡って使用していた大石屋敷の正面門長屋。
門口約26.8メートル、奥行約4.8メートル。
元禄14年(1702)年には、主君の凶報を知らせる早打もこの門をくぐった。


早かご
「主君浅野内匠頭刃傷を知らせた早駕籠第一の使者は、義士の早水藤左衛門と中折の烈士といわれる萱野三平の二名で、塩谷門より城内に入り、この長屋門に到達した。早駕籠は江戸から赤穂まで百七十里(六八〇㎞)、通常一五、六日を要する距離をわずか四昼夜半で到着したといわれる。
この駕籠を復元したものであり、駕籠は一挺につき四人以上のかき手を必要とし、更に一人が前棒を引っ張り、もう一人が後棒を押して六人曳きとなって宿場ごとに乗り継ぐ駅伝式のものであった。」(案内板より)


大石邸庭園
山鹿素行もこの大石邸に度々遊びに来ていたという。


主君浅野長矩松の廊下刃傷を報らす早打状を読む大石内蔵助と長男松之丞(のち元服して主税)の人形


大石稲荷社


良雄ゆかりの牡丹
大石内蔵助は、花の中でも牡丹を特に好んでいたという。


子宝陰陽石
お互いに向かい合う陽石(男性)と陰石(女性)の間にあるのが子石。


武士道歌碑


大石りく石像


良雄遺愛の枝垂れ桜

そういえば、どこかに仙石山の写真があったはず、と探したらあった、あった。

日比谷線(東京メトロ)の神谷町駅の2番出口を出て、すぐ右手の急な坂をのぼったところにこの碑は建っている。
傍に風情のある桜の木が生えていたが、数年前に切られてしまった。
残念だ。
このあたりに、森ビルが新しいビルを建てることになっている。
間もなく着工されるはずだ。
これもまた残念だ。
虎ノ門5丁目は、都心でありながら、どこか鄙びた感じが残っていて、それが魅力であったのに。

【兵庫】 赤穂 ① 花岳寺など

2009年09月09日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【息継ぎ井戸】

「元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松之廊下で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけるという刃傷事件が起こりました。早水藤左衛門と萱野三平がその大事件を知らせるため、江戸から早駕籠に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城へ向かったと伝えられています。」(案内板より)


【花岳寺】

花岳寺は、正保2年(1645)、浅野長直によって浅野家菩提寺として創建された。
山門は、赤穂城の西惣門を移築したもの。


二代目なごりの松
なごりの松は、大石良雄が、母の冥福を祈って植えた松だという。


初代なごりの松の幹


鳴らずの鐘
赤穂二代藩主浅野長友公が父長直公のために鋳造したもの。
赤穂浪士討入の翌年、切腹の報を受けた町民は、彼らの死を悼み、花岳寺に集まってこの鐘を撞いた。
「爾来音韻を失すること五十年」と寛政9年(1797)再改鋳の梵鐘に銘記されているように、あまりに撞きすぎたために、鳴らなくなってしまったと伝わる。


本堂


本堂の天井絵
安政元年(1854)、法橋義信が描いたもので、もとは五月の節句の幟だった。


義士墓所
中央に浅野内匠頭長矩公の墓、向かって右手には大石内蔵助良雄の墓、左手には大石主税良金の墓、壁に沿ってほかの義士らの墓が並ぶ。


浅野内匠頭長矩公の墓

  
左:大石主税良金の墓
右:大石内蔵助良雄の墓


義士の墓

 
左:義忠塚
右:三代目義忠桜


浅野公廟所


大石家先祖の墓所


初代藩主浅野長直公墓


二代藩主浅野長友公墓


三代藩主浅野長重公墓


森家墓所


花岳寺の御朱印

【兵庫】 生野義挙の史跡 ②

2009年09月08日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月6日(水)
当日の行程:(車) → 【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】 → 【平野國臣捕縛地】 → 【養父神社】 → 【大川藤蔵捕縛地】 → 【山口西念寺】 → 【山口護国神社】【生野銀山】【井筒屋】 → 【生野書院】 → 【延應寺】【息継ぎ井戸】 → 【花岳寺】【大石神社】 → 【大石良雄宅跡の長屋門】【赤穂城跡】 → 【赤穂市立歴史博物館】 

【黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑】(朝来市和田山町高田)

目印となる看板


黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰之碑


【平野國臣捕縛地】(養父市八鹿町上網場)

「見よや人嵐の庭のもみじ葉はいずれ一葉も散らずやはある」とある。


【養父神社】(養父市養父市場)

随神門


社殿


朱に塗られた美しい橋が架かっている。


社務所
生野義挙の農兵組立て会議は、普賢寺(現・養父神社社務所)で開かれた。


社務所の中の杉戸には、その時に描かれたという絵が残っている。
鶴の姿がうっすらと見える。


養父神社の御朱印


【大川藤蔵捕縛地】(朝来市山内)

大川藤蔵殉難之地の碑


【山口西念寺】(朝来市山口)

文久3年(1863)10月3日、南八郎らは生野代官所の本陣を出て、西念寺に陣を構えたという。


【山口護国神社】(朝来市山口)

山口護国神社


正義十七士之神霊


正義十三士自盡之址


墓所
「町指定文化財
 生野義挙志士殉難之地
   平成元年十二月十二日指定
 江戸時代の終わり、幕府を倒して新時代を開くべく、生野代官所を占拠した事件を生野義挙という。
 文久三年(一八六三)大和義挙が不成功に終わるとともに生野義挙も失敗に終った。その時の隊長が長州藩出身の南八郎(二十一才)である。
 戦いに敗れた南八郎以下十三人はこの地の山伏岩に『今月今日討死』と血書して八人は切腹し、他は附近で討死した。後に京都より送られて来た同志四人を加えて十七名の志士の碑が建てられている。
 中央に建っている『殉節忠士の墓』の文字は明治新政府の首相西園寺公望の揮毫である。『議論より実を行なへなまけ武士、国の大事をよそに見る馬鹿』の奉献額は南八郎が制札を削って書いた奉献歌の額(町指定文化財)であり、腹巻には『後れては梅も桜に劣るらん魁(さきが)けてこそ色も香もあれ』と書かれていた。
 町内にはこの他に義挙関係の事蹟として、原六郎の生家、神領制札(町指定文化財)、大川藤蔵の碑等多くのものが残っている。
  平成元年十二月  朝来町教育委員会」(案内板より)


【井筒屋】(朝来市生野町口銀谷)

井筒屋は、江戸時代の郷宿。
生野義挙後の取り調べのため、会津藩の広沢富次郎らが宿泊したという。
現在は、「生野まちづくり工房 井筒屋」となっている。
館内では、貴重な史料を目にすることができる。


神武必勝論
平野國臣が文久2年(1862)、獄中でこよりを文字にして著述した書。


沢主水正の檄文
文久3年(1863)10月に、生野代官所を占拠して挙兵した時の宣言文。


【生野書院】(朝来市生野町口銀谷)

生野書院は、材木商の邸宅を改修した史料館。
門は、明治初期に鉱山長だった朝倉盛明氏の官舎正門を移築したもの。
生野義挙や生野銀山に関する史料が展示されている。
『生野義挙日記』を購入。


生野代官所跡の松


【延應寺】(朝来市生野町口銀谷)

本堂


欅の大木
この欅の大木の梢に野火の難をのがれた観音が飛んできたという伝説がある。


欅の大木の前に建っている碑には、生野義挙前に志士たちがこの寺で過ごしたと記されている。


延應寺の御朱印

【兵庫】 生野義挙の史跡 ①

2009年09月07日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月5日(火)
当日の行程:(車) → 【大山(大神山神社奥宮・大山寺)】【生野代官所跡】 → 【生野義挙址】 → 【掛屋】 → 【山田顕義終焉之地】 → (朝来泊)

【生野代官所跡】(朝来市生野町口銀谷)

「天文一一年(一五四二)山名祐豊(すけとよ)は生野銀山経宮の拠点として生野城を築城しました。三層の天守閣、隅櫓、外堀をそなえた城で、侍屋敷、町屋、寺社も整い繁盛したと記録に遺されています。
 その後、銀山の経営は太田垣、織田、豊臣と変わり、関ヶ原の戦いを経て徳川氏に帰属し、この城の本陣を代官所としました。寛永六年(一六二九)には天守及び隅櫓を取り崩しましたが、二七〇年にわたって銀山経営の中心でした。
 明治維新により銀山は政府直轄となり、明治二年(一八六九)生野県設置とともに、代官所を県庁舎としました。
 明治四年(一八七一)生野県が豊岡県に統合されると同時に建物は除去され、城壁と外堀のみが残りましたが、大正末期には全部が取り壊されました。
  平成四年三月  生野町教育委員会」(案内板より)


【生野義挙址】>(朝来市生野町口銀谷)

「生野義挙址の碑」は、生野代官所跡の向かいに建っている。


【掛屋】(朝来市生野町口銀谷)

佐藤家住宅別邸。
江戸時代後期の建物。
生野銀山の掛屋は、銀を金銭に替える銀掛屋。
文久3年(1863)の京都守護職の生野義挙の取り調べでは、掛屋にも役人が宿泊したそうだ。


【山田顕義終焉之地】(朝来市生野町小野)

生野銀山のそばに建っている。
明治25年(1892)、生野義挙で自刃した従兄弟の河上弥市を弔いに山口護国神社を訪れ、その後に立ち寄った生野銀山で倒れ、死去したという。