大倉草紙

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【福井】 金崎宮

2009年03月15日 20時00分00秒 | 旅 - 福井県
3月7日(土)
当日の行程:(車) → 【金崎宮】【金ヶ崎城跡】【永賞寺(大谷吉継の供養塔)】【氣比神宮】【真願寺(敦賀城跡)】 → 【八幡神社(敦賀郷土博物館)】 → 【来迎寺(敦賀城中門)】【武田耕雲齋等墓】 → 【松原神社(鯡倉)】【氣比の松原】【常宮神社(朝鮮鐘)】【一乗谷朝倉氏遺跡資料館】 → 【一乗谷朝倉氏遺跡】【永平寺】 → (滋賀・尾上温泉泊) 


金崎宮は、金ヶ崎城跡の麓にある。
足利軍に攻められた尊良親王、新田義貞の嫡子・新田義顕ら、三百余名が命を失った地である。
首尾よく脱出することができた恒良親王も、後に捕えられて毒薬をもられて亡くなっている。
金崎宮は、地元の人々の請願で、明治23年(1890)に尊良親王を祀る神社として創立した。
明治25年(1892年)には恒良親王が合祀されている。


中門・奥に見えるのが本殿


摂社・絹掛神社
「延元二年(一三三七)三月六日金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下三百二十一名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判名(ママ)する者僅かに十数名、大半の人は近畿、中国四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少くはない。籠城五ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向った壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」


摂社・朝倉神社
朝倉義景は金ヶ崎等に城を築き、織田信長の来襲に備えた。
元亀元年(1570)、信長は天筒・金ヶ崎両城を攻略し、朝倉景恒は降伏する。
朝倉神社では、この地に城を構えた文明3年(1471)から降伏するまでの朝倉氏六代と一子の御霊を祀っている。
境内では、「金ヶ崎の退き口」や「小豆袋」のエピソードが紹介されている。
金崎宮の難関突破守は、両方を紐で結んだ袋の形をしている。
中にはお守りのほかに、小豆が一粒入っているらしい。


金崎宮の御朱印

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