大倉草紙

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【千葉】 成田山 新勝寺

2009年03月06日 20時00分00秒 | 旅 - 千葉県
11月9日(日)



総門

天慶2年(939)、平将門の乱が起こると、朱雀天皇の密勅を受けた寛朝大僧正は弘法大師が敬刻した不動明王像とともに成田の地で平和祈願の御護摩を修めた。
その満願の日にあたる天慶3年(940)2月14日に乱は平定され、この地に新勝寺の寺号を賜り、成田山は開山された。
平将門とその家来の子孫は、決して成田山新勝寺へお参りに行かない、と聞いたことがある。
今でも、ほんとうにそうなのだろうか。

総門は、開基1070年記念事業として、平成19年(2007)11月に建立された。
本尊「生まれ歳・守り本尊」八体佛。
欅造り。



仁王門(重要文化財)


仁王門の草鞋

総門を入り石段を登ると、仁王門がある。
天保2年(1831)再建。
左右には、密迹(みっしゃく)金剛、那羅延(ならえん)金剛、裏仏には広目天、多聞天が奉安されている。
門には、大きな草鞋が奉納されていた。



仁王池

仁王門をくぐると、参道は橋になっていて、左右に仁王池がある。
仁王池は放生池なのだそうだ。
亀形の石の周りに亀がたくさん泳いでいる。



こわれ不動堂

本尊は倶梨伽羅(くりから)不動明王。
何度修復してもすぐに壊れてしまうので、「こわれ不動堂」と呼ばれるようになったのだそうだ。



大本堂

昭和43年(1968)建立。
本尊・不動明王を安置する。
大本堂では、護摩祈祷が行われている。



鐘楼

元禄14年(1701)建立。
現在の梵鐘は、昭和43年(1968)に大本堂の完成を記念して鋳造されたもの。
重量は、1,068キログラム。



三重塔(重要文化財)

正徳2年(1712)に建立され、その後3度の大修理が行われている。
昭和58年(1983)には、享和3年(1803)の古文書にならって漆塗・彩色工事がなされた。
塔の初層内陣には、金剛界大日如来の「五つの智慧」をあらわす五智如来である大日如来・阿閦(あしゅく)如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来が安置されている。
板軒の極彩色が美しい。



一切経蔵

享保7年(1722)建立。
賓頭廬尊者(びんずるそんじゃ)と傅大士(ふだいし)が安置されている。



聖徳太子堂

平成4年(1992)建立。
「和を以て貴しとなす」の理念に基づいて、平和を祈念して建てられたのだという。




菊花展が開かれていた。
写真は、優等主席の作品。



釈迦堂(重要文化財)

安政5年(1858)に建立された元本堂。
本尊は釈迦如来。
堂の周囲には、五百羅漢や二十四孝の彫刻がはめ込まれている。



聖天堂

人法繁昌のために勧請された秘仏・大聖歓喜天を祀る。
毎月はじめの7日間、天尊浴油が修行されている。



額堂(重要文化財)


七代目市川団十郎像

文久元年(1861)建立。
額堂とは、奉納額や絵馬を掲げる建築物のこと。
額堂の中央には、七代目市川団十郎像が置かれている。
かつては、この成田屋こと七代目市川団十郎によって寄進された額堂があったが、昭和40年(1965)に焼失してしまったそうだ。



開山堂

成田山新勝寺の開山上人寛朝大僧正の御姿を安置する堂。



奥之院

奥行約11メートルの洞窟。
正面には、不動明王の本地仏である大日如来が安置されているそうだ。
毎年、7月7~9日の成田山祗園会の日に限り、開扉されるという。


 
延元元年(1336)の板石塔婆    明徳5年(1394)の板石塔婆

板石塔婆は、板状の石を用い、卒塔婆の一種として発生し、鎌倉時代から室町時代にかけて建立された供養塔。
奥之院入口の両側二基の板石塔婆は、千葉県指定有形文化財に指定されている。



清瀧権現堂・妙見宮

享保17年(1732)建立。
清瀧権現堂と地主妙見を合祀した成田山の鎮守。



平和の大塔

昭和59年(1984)建立。
高さ約58メートルの多宝塔形の仏塔。


  
成田山新勝寺本堂の御朱印 成田山新勝寺釈迦堂の御朱印

【千葉】 香取神宮

2009年01月11日 20時00分00秒 | 旅 - 千葉県
1月6日(火)
当日の行程:(車)→ 【鹿島神宮】【香取神宮】

千葉県香取市の香取神宮は、下総国一の宮。
全国に約400ある香取神社の総本社。
「延喜式神名帳」によれば、平安時代、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社だけだったという。


大鳥居


総門


楼門(重要文化財)
元禄13年(1700)建造。
徳川綱吉の造営による。


拝殿
元禄13年(1700)、徳川綱吉の造営。
桧皮葺屋根、黒塗権現造り。
実に美しい。


本殿(重要文化財)
元禄13年(1700)、徳川綱吉の造営。


御神木
樹齢1000年余りと伝えられる。
目通り約7.4メートル。


旧拝殿

帰り道、参道で、「厄除けだんご」を買って食べる。
厄除けになればいいな。


香取神宮の御朱印

【千葉】 千葉城(亥鼻城)

2009年01月02日 20時00分00秒 | 旅 - 千葉県
11月8日(土)




千葉城は、大治元年(1126)、千葉介常重が大椎城からこの地に移転して築城された。
下総台地から亥の方角に突き出した舌状台地であるここの地名は、亥鼻である。
城は、亥鼻城とも呼ばれる。

千葉氏の全盛期は常重の子、千葉常胤(つねたね)の時。
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れ安房に逃れた際には、頼朝を助けて鎌倉幕府樹立に貢献して所領を与えられたという。
康正元年(1455)、前年に勃発した古河公方と鎌倉公方の対立で関東に動乱が起こり、千葉氏も内紛が勃発する。
千葉介十四代胤直は、馬加康胤(まかやすたね)と家臣らに急襲され、自刃した。
千葉氏の宗家が滅亡した後は、馬加康胤が千葉氏の名跡を継いだが、長禄元年(1457)に本拠を千葉城から本佐倉城(千葉県印旛郡)に移したため、千葉城は廃城となる。

写真にある天守閣は、小田原城を模したもの。
実際の千葉城には、天守閣はなかったらしい。
石垣もなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した中世城郭だったという。
天守閣の前には、千葉常胤の像が建っている。

天守閣の内部は市立郷土博物館になっている。
入館料は60円と安い。
千葉市の歴史、民俗、千葉氏に関する資料が展示されている。
4階はプラネタリウムになっているが、改修中だった。
5階は展望室。
1月と8月を除く毎月第2土曜日には、鎧や小袖などの試着体験ができるらしい。
訪れた日にも、鎧を試着する子どもと出会った。
兜まで身につけると、重さは20キロを超えるとのこと。
よろよろと、やっとのことで歩いている。



お茶の水


不動堂

千葉城の北側、大和橋の近くに「お茶の水」がある。
「お茶の水」の後方には、小さな不動堂が建っている。
千葉氏は代々この水を産湯水に使ったそうだ。
千葉常胤は、この水で源頼朝に茶を献じたという伝説が残っている。
が、実際はどうだったのだろう。
喫茶の習慣を日本に伝えたのは栄西禅師。
栄西禅師が開山した建仁寺には、茶碑も残っている
『喫茶養生記』が書かれた年代は確定できないようだが、建保2年(1214)に源実朝に献上した「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立時期とみることが多いようだ。
とすれば、「お茶の水」の伝説はあやしいものとなる。



七天王塚

千葉城の近くには、千葉市文化財の「七天王塚」が点在している。

「猪鼻城(いのはなじょう)または千葉城ともいわれる千葉氏の居城があった猪鼻山は、北は都川、西は断崖に面した天険の要害の地で、その大手口にあたる現在の千葉大学医学部構内外には、千葉氏が一族の繁栄を願って作ったといわれる「七天王塚」が残されています。
七つの塚には千葉氏の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)が祀られ、これらは千葉氏の崇拝する北斗七星の形に配置されているといわれています。また一説には、この七天王塚は千葉氏の七人の兄弟を葬った墓であるとか、平将門の「七騎武者」の墓とも伝えられています。
平成十一年三月 千葉市教育委員会」