大倉草紙

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【京都】 海軍記念館と自衛隊桟橋

2009年08月31日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)

【海軍記念館】

海軍記念館は、昭和39年(1964)、舞鶴地方総監部大講堂(旧海軍機関学校大講堂)の一部に設立された。
門で入館の許可をもらって入るようになっている。
200点余りの資料が展示されているが、その中でも心に残ったのは、六号潜行艇の佐久間艇長の遺書だ。
事故の経過、部下を死なせてしまうことへの謝辞などが冷静に綴られている。
六号艇はその乗組員も素晴らしい。
パニックに陥っても仕方がないような状況であろうに、乗組員の遺体はそれぞれの持ち場にて発見されたそうだ。


【自衛隊桟橋】

海軍記念館の向かいにある自衛隊桟橋で、護衛艦を見学する。


訪れた日に見学できたのは、護衛艦「すずなみ」。


なにもかもが珍しくて、写真に撮ってしまう。




水上発射管

【京都】 赤れんが博物館

2009年08月30日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)


赤れんが博物館の建物は、旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として使用されていたもの。
明治36年(1903)年の建設で、日本国内の本格的な鉄骨構造のれんが建築物としては最古級のものなのだそうだ。

館内では、れんがの歴史や作り方などが紹介されている。
れんがの積み方や大きさに関する解説が興味深かった。

れんがの建造物で真っ先に思い浮かべたのは東京駅で、日本にれんがが入ってきたのは明治以降のことだとばかり思っていたが、意外にもその歴史は古く、中国大陸から、仏教伝来に伴って仏教建築の材料として伝わったのだそうだ。
と、書いているうちにいろいろな連想が……たしか、埼玉県の深谷市もれんがの発祥地だったような……いや、でも「発祥」ってことはないだろう……。
調べれば、日本初の機械方式のれんが工場が設立されたのが深谷なのだそうだ。
創設者は渋沢栄一。
ちなみに、深谷駅は東京駅そっくりだ。
深谷といえば、深谷ネギとガリガリ君。
かつて、深谷のかたにいただいた深谷ネギは、包丁で切った瞬間からほかのネギとは明らかに違った。
みずみずしくて、ねっとりしていて、美味しい。
れんがの話からネギの話になってしまった。
暑いから、ガリガリ君でも食べよう。

【大阪】 未来をひらく 福澤諭吉展 (大阪市立美術館)

2009年08月29日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館

福澤諭吉の遺品、書簡、自筆原稿、門下生たちが収集した美術品などが並ぶ。
展示品の数は多く、終わりのほうは、閉館時間を気にしながら急いで見ることになってしまった。


福澤諭吉は写真好きだったらしく、沢山の肖像写真が残っている。
一万円札にも使われているこちらの写真は、明治24年(1891)頃に撮影されたもの。
福澤諭吉56歳の頃である。


早慶戦開始の挑戦状 明治36年(1903)
最初の早慶戦は、明治36年(1903)11月21日、綱町グラウンドで行われた。
結果は11対9で慶應の勝利。


20世紀を迎えた朝に揮毫した絶筆「独立自尊迎新世紀」 明治34年(1901)


おなじみ『学問のすゝめ』の原稿もある。


この乳母車は、慶応3年(1867)に渡米した際に、子どもたちのために持ち帰ったお土産。
日本で初めての乳母車といわれるそうだ。
福澤諭吉には子煩悩だったようで、そのことが伺える資料も多く展示されている。
けれど、「名前は符牒に過ぎない」と考え、名付けにはこだわりを持ってはいなかったらしい。


希少価値の高い展示品もある。
こちらのグーテンベルク印行『42行聖書』上巻(1455年頃)は、世界で48部、アジアでは唯一慶応義塾に所蔵されているのだそうだ。


野々村仁清「色絵金銀菱文茶碗」(重要文化財)江戸時代17世紀
最後の展示室には、「たしかめる共感」と題して、福澤諭吉の門下生の美術コレクションが並んでいる。
どれもこれも素晴らしい作品ばかり。
「色絵金銀菱文茶碗」の斬新なデザインに心惹かれる。


秋草文壺(国宝)平安時代(12世紀)
慶應義塾大学日吉キャンパスの東方600メートルの台地の裾から発掘されたもの。
ススキの穂が風に揺れるさまが美しい。

さて、展覧会のチラシには「大阪生まれ、適塾育ち。」うたわれているので、大阪市内の福澤諭吉ゆかりの地をいくつか。

福澤諭吉生誕地の碑
大阪市福島区堂島玉江橋北詰、朝日放送の社屋のそばに建っている。


適塾(大阪市中央区北浜3-3-8)


大阪慶應義塾跡記念碑(大阪市中央区北浜2丁目)


校章であるペンの記章の意匠

【京都】 舞鶴引揚記念館

2009年08月28日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)


時々、近況を知らせて下さるそのかたは、前向きで、いつも明るく美しい。
そのかたの小柄な外観からは、閉鎖都市への入域許可を求めて一人で交渉する姿は想像できない。
けれど話を聞けば、その意志の強さと、極寒の地で亡くなった父親や最期まで夫を思い続けた母親への愛情が痛いくらいに伝わってくる。
ユジノサハリンスクで父親と別れたのは、そのかたがまだ幼い時。
父親の記憶はないが、その一生は父を見つける旅に捧げられている。
そのかたご本人にも感服するが、そのかたのご家族のご理解のほども並々ならぬものだと思う。
そのかたのことを思い出しながら、舞鶴引揚記念館を訪れた。

館内では、抑留中に使用した日用品や葉書などが展示されている。
ラーゲリでの生活を再現したコーナーもある。
引揚運動に関する大木英一氏の決意表明や嘆願書もあり、その偉業を初めて知った。

引揚記念館の周囲は、公園になっている。
展望広場には、次のような碑が建っている。

望郷慰霊之碑


平和の群像


あゝ母なる国碑


異国の丘・岸壁の母歌碑


復元された引揚桟橋は、記念館から少し離れた場所にある。
桟橋の右手にあるのが「語り部の鐘」。
一打は、強制抑留中死没された方々への招魂・慰霊。
二打は、強制抑留引揚の苦難顕現。
三打は、平和祈願、不戦の誓い。


引揚桟橋からの風景


引揚桟橋近くに建っている招魂の碑。

【兵庫】 篠山

2009年08月27日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
5月3日(日)
当日の行程:(車) → 【八上城跡】【篠山市立武家屋敷安間家史料館】 → 【篠山市立青山歴史村】 → 【篠山城大書院】 → 【篠山市立歴史美術館】【舞鶴引揚記念館】【赤れんが博物館】【海軍記念館】 → 【自衛隊桟橋】【田辺城跡】 → (倉吉泊)

篠山では、「4館共通入館券」を購入し、見てまわる。
【篠山市立武家屋敷安間家史料館】

武家屋敷安間(あんま)家史料館は、慶長14年(1609)に築かれた篠山城の御徒士町通りの一角にある。
篠山藩主青山氏の家臣・安間氏の武家屋敷を復元したもの。


中庭から見た安間家住宅


座敷


台所


かまど


水琴窟


【篠山市立青山歴史村】

旧澤井家長屋門
青山歴史村は、旧藩主青山家の篠山別邸だった。
青山家ゆかりの品、篠山藩校「振徳堂」の蔵書などが公開されている。


石造金櫃
藩政時代に使われていた石の金庫。
土蔵の下に埋められていたそうだ。


篠山城主青山家家紋入瓦
庭に銭をかついで生えてきた筍があり、それを切って馬標にしたところ出陣ごとに功績があったので、穴あき銭を家紋としたと伝えられる。


篠山城惜別の碑
最後の篠山城主・青山忠敏(ただゆき)は、明治2年(1869)の廃藩によって東京に去る際に、「今よりは学問に心をいたし、国の光をそえよ」との言葉を残した。
青山家家臣で、篠山町初代町長である安藤直紀は、それに感動し、後の世に伝えようとこの碑を建てたそうだ。


篠山出身の和算家・万尾時春の碑


この倉に様ざまな史料が陳列されている。
なかでも、『鼠草子絵巻』はかわいらしく、印象深い。


【篠山城大書院】

篠山城は、慶長14年(1609)徳川家康が築いた。
初代城として家康の子・松平康重が八上城から移り、その後は松平氏三家八代と青山氏六代が城主となる。


鉄門跡


大書院 上段の間


大書院
大書院は、明治維新後も残され学校の校舎や公会堂として使われていたが、昭和19年(1944)に焼失。
現在の大書院は、平成12年(2000)に再建されたもの。


青山神社
本丸跡には、青山神社が鎮座している。
祭神は、3代将軍・家光の養育係であった青山忠俊と篠山城主・青山忠裕。


天守台


天守台からの風景
丹波富士と呼ばれる高城山も見える。
朝一番に行った八上城跡は、この山の上にある。


【篠山市立歴史美術館】

篠山市立歴史美術館の建物は、篠山藩庁だった。
明治10年(1877)から昭和56年(1981)まで地方裁判所として使われ、その後、歴史美術館となった。
木造建築の裁判所としては、日本最古のものだという。


旧法廷展示室


東海道・中仙道・甲州街道図屏風
こういう図屏風を、地名をたどりながら見るのは楽しい。

美術館の近くで、丹波黒豆アイスを食べる。
あっさりとしていて、とてもおいしい。

【兵庫】 圓教寺

2009年08月26日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
4月29日(水)
当日の行程:(JR姫路駅…神姫バス・姫路駅前~法華山一乗寺) → 【一乗寺】 → (神姫バス・法華山一乗寺~姫路駅前…神姫バス・姫路駅前~書写駅) → 【圓教寺】


書寫山
圓教寺は、書寫山にある。
康保3年(966)、性空上人の創建といわれる。
山の上まではロープウェイもあるが、せっかく訪れたのだからと登山道を行く。


こんな風に岩だらけ。
道を歩くというよりも、岩を登るという感じだ。


振り返れば、景色は抜群。


慈悲の鐘


仁王門


石造笠塔婆
鎌倉時代に造られたもの。


護法石(弁慶のお手玉石)
この石の上に、乙天、若天の二人が降り立ち、寺門を守ったといわれる。
また、弁慶はこの石をお手玉にしたという伝説がある。


湯屋橋
姫路城主・本多忠政が修理したもので、「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」とある。


摩尼殿
岩山の中腹に舞台造りで建てられている。
天禄元年(970)建立。


姫路城主本多家の墓所


大講堂(重要文化財)
圓教寺の本堂。
大講堂、常行堂、食堂はコの字型に並び、「三之堂」(みつのどう)を形成している。
これら3つのお堂が建っている所では、『ラストサムライ』撮影も行われたそうだ。


常行堂(重要文化財)


食堂(重要文化財)
食堂の2階では、寺宝を見ることができる。
『書寫山縁起絵巻』も展示されていた。
全編が公開されるのは、初めてのことだという。
ほかにも次のようなものがあった。


弁慶の机
弁慶は書寫山で約10年間修業していたと伝わる。
この机は、その時に使ったものだという。


旧大日堂仏像群
これらの仏像は、廃仏毀釈の折、打ち壊しを免れるために姫路市夢前町にあった大日堂に安置されていたもの。


弁慶鏡井戸
昼寝をしている弁慶はその顔にいたずら書きをされ、この井戸に顔を映してそのことに気付く。
弁慶は激怒し、大喧嘩になり、山内の建物を焼き尽くしてしまったという伝説がある。


不動堂

ここより奥に開山堂があるが、修理工事のため、見ることができなかった。

  
左:摩尼殿の御朱印
右:根本堂の御朱印

帰りはロープウェイで。


姫路駅の駅そばは、中華麺に和風だし。
一度試してみたかったので、帰りに寄る。

【京都】 河井寛次郎記念館

2009年08月25日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
4月18日(土)
当日の行程:(阪急・河原町駅) → (祇園甲部歌舞練場〔「都をどり」当日券購入〕) → 【蓮光寺】【河井寛次郎記念館】【都をどり(祇園甲部歌舞練場)】 → (京阪・祇園四条駅~天満橋駅) → 【大川さくらクルーズ】


記念館は、かつては河井寛次郎の邸宅だった。
昭和12年(1937)に、自らの設計で建てられたもので、昭和41年(1966)年に亡くなるまで、ここで過ごしたのだそうだ。
嬉しいことに、ここでは河井寛次郎の陶芸作品のみならず、彼が手がけた木彫作品や家具にも出会うことができる。


囲炉裏の自在鉤は寛次郎作。
円形椅子は寛次郎デザイン。
木彫二面像は寛次郎作。


2階の吹き抜け近くにあるこの椅子も寛次郎作。


多くの作品が陳列されている。
どれも素晴らしいが、寛次郎の青色が好きなので、ついつい青いものに目がいく。


登り窯
寛次郎の作品の多くは、この窯の前から二番目の室から生まれたそうだ。

【大阪】 大阪の祭り -描かれた祭り・写された祭り- (大阪歴史博物館)

2009年08月24日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館

昨日は、大阪歴史博物館のシンポジウムの報告をいくつか聞いた後、特別展「大阪の祭り」を観た。

会場に入ってすぐに展示されているのは、『大坂十二ヶ月風俗図屏風』。
祭りというと豊穣へ感謝する秋という印象を持っていたが、府内全域を対象にしているとはいえ、毎月どこかで祭りがあるとは驚いた。


チラシにも使われている『天神祭図』(川口呉川)。
昭和7年(1932)の作品だが、古い資料を参考にし、幕末の天神祭を再現したものとされる。
当時の船渡御は、天神橋付近から大川を下っていたそうだ。
昭和28年(1953)、地盤沈下で橋桁が下がって船列の航行に支障が生じ、現在ように大川を遡行するコースに変更されたらしい。


昨年の天神祭を楽しんだときの写真を眺めていると、『天神祭図』と花火と橋と船の位置が似ている一枚を見つけた。


『力競べ図絵馬』明治13年(1880)・兵主神社蔵(岸和田市)
祭りの力競べは、相撲の起源ともいわれる。
この絵馬を観て、そういえば、お寺や神社で力競べのための石を目にしたことがあるな、と思い出した。


この力石は、天橋立の近くにある智恩寺で見たもの。
大きい石は130キロ、中くらいの石は100キロ、小さな石でも70キロという重さ。
祭りや集会の余興でこの石を持ち上げていたという。


こちらは、京都・醍醐寺(上醍醐)の五大堂。
男性が150キロ、女性が90キロの鏡餅を持ち上げる「餅上げ力奉納」が毎年2月に行われている。


『平野郷牛頭天王祭礼図』(部分)嘉永6年(1853)・杭全神社(大阪市)
杭全神社の主祭神は素盞嗚尊(スサノオ)。
災厄除けの神様として知られる。
牛頭天王は、インドの祇園精舎の鐘の守護神で、日本へ入ると素戔嗚尊と同一視されるようになったそうだ。


『野里の一夜官女』(大阪市)昭和34年(1959)・三村幸一撮影
「-描かれた祭り・写された祭り-」という副題の通り、たくさんの写真も展示されている。
一夜官女祭りについては、司馬遼太郎の『一夜官女』で知っているだけだったので、現在でも行われているさまをこうして写真で見るのは衝撃的なことだった。

ほかには、枚岡神社(東大阪市)の粥占神事のような貴重な写真も並ぶ。
粥占神事は、秘密神事で、参詣者は立ちあいを許可されず、結果のみを知らされるのだそうだ。

【京都】 蓮光寺 (長曽我部盛親の墓)

2009年08月23日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
4月18日(土)
当日の行程:(阪急・河原町駅) → (祇園甲部歌舞練場〔「都をどり」当日券購入〕) → 【蓮光寺】【河井寛次郎記念館】【都をどり(祇園甲部歌舞練場)】 → (京阪・祇園四条駅~天満橋駅) → 【大川さくらクルーズ】


蓮光寺は、知恩院を本山とする浄土宗のお寺。
長曽我部盛親のお墓があるというので、行ってみた。


本堂には、本尊・阿弥陀如来が祀られているそうだ。
「負別如来」とも呼ばれるこの像は、快慶の作と伝えられる。
東国の僧の求めに応じてこの像を彫った快慶は、その出来ばえの尊さに自ら護持したいと思い、僧の後を追いかけたという。
僧に追いつき箱を開くと、仏像が二体に分かれていたという伝説が残っている。
もう一体の仏像は、仙台市泉区にある阿弥陀堂に安置されているそうだ。


駒止地蔵尊
駒止地蔵尊は、弘法大師作と伝えられる。
かつては六条河原の刑場に祀られていて、鴨川の氾濫で埋もれてしまっていたそうだ。
保元3年(1158)にその辺りを通った平清盛の馬が急に動かなくなったので、そこを掘ってみると、この地蔵尊が出てきたという。
また、盗賊に襲われた篤信者の身代わりに首を切られたという伝説もあり、そのため、「首切り地蔵」とも呼ばれる。


長曽我部盛親の墓
長曽我部盛親が、京洛の地で大岩祐夢と号して寺子屋を開いていたときに、このお寺の住職・蓮光上人と親交があったのだという。
元和元年(1615)、盛親が大坂夏の陣に敗れ六条河原で斬首されると、蓮光上人は京都所司代・板倉勝重に願い出て、首級をこの墓地に葬ったのだそうだ。

【大阪】 水都大阪2009

2009年08月22日 21時00分00秒 | 祭り・催し
本日の行程:(大阪市営地下鉄・淀屋橋駅) → 【中之島・北浜界隈の近代建築めぐり 】 → 【水都大阪2009】


水の都・大阪の復興を広く伝えるためのシンボルイベント「水都大阪2009」が、今日から始まった。
夕刻から中之島公園会場を歩いて、川岸の涼しい風とイベントの灯りを楽しんだ。


川岸には、寛げるスペースが設けられている。

 
あちこちに「水都大阪2009」の旗が。
大阪市の高度浄水処理水を加熱殺菌した「ほんまや」の自販機も置かれている。


魚のオブジェ


ラッキードラゴンのアート船


ベンチに腰をかけて、日が暮れるのを待つ。
目の前を船が行ったり来たり。


暗くなってくると、橋がライトアップされる。
これは難波橋。


ミラーチップで飾られたアーチに光が当たって幻想的だ。


天神橋もライトアップ。


水都大阪灯明2009
紙袋を使って、創り出した灯り。


近くで見るとこんな感じ。


これはスゴイ!
尾のほうが写っていないけれど、ジンベイザメ。
大阪の海遊館にはジンベイザメがいるから、ということらしい。


今日の歩数:17,265歩