大倉草紙

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【大阪】 叡福寺

2009年01月31日 23時23分06秒 | 旅 - 大阪府
本日の行程:(車) → 【叡福寺】【大聖勝軍寺】【長曽我部盛親物見の松】【常光寺】【高塚地蔵】 → 【木村重成の墓】 → 【山口伊豆守重信の墓】 → 【蓮城寺(木村重成霊牌所)】【若江鏡神社】【木村重成の銅像】 → 【飯島三郎右衛門の墓】【四條畷神社】【忍陵神社】 → 【徳川家康旗掛け松跡】 → 【徳川家康星田陣営跡】


南大門

叡福寺は、聖徳太子の墓前に営まれた寺院。
寺伝によれば、推古天皇30年(622)、聖徳太子の寮母を守護するために一堂を構えたのが始まり。
神亀元年(724)、聖武天皇の勅願で、伽藍が造営されたという。
四天王寺、法隆寺と並んで、太子信仰の中核をなした寺院であり、大聖勝軍寺の「下の太子」野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と呼ばれている。


南大門の扁額には、「内閣総理大臣 岸信介謹書」とある。


金堂
享保17年(1732)再建。
本尊は、如意輪観音坐像。


多宝塔(重要文化財)
承応元年(1652)再建。
本尊は、釈迦・文殊・普賢の三尊像。


寺宝館は、残念ながら休館中。


聖光明院
本尊は、大日如来像。
聖徳太子に仕えていた調子麿呂は、聖徳太子の葬儀の後、ここで太子の菩提を弔っていたという。


聖霊殿(重要文化財)
聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている。


二天門
 
二天門には、二天が祀られている。


上の御堂
聖徳太子35歳像が祀られている。


御廟


浄土堂
慶長2年(1597)再建。
本尊は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊。
弘法大師が参籠の際に、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊が来迎したという話が残っている。


通元帥宮御遺髪塔


見真大師堂
明治45年(1912)建立。
本尊は、親鸞聖人坐像。


経堂


弘法大師堂


念仏堂
本尊は、阿弥陀如来像。


隔夜堂
本尊は、阿弥陀如来坐像。
南大門の前の道を隔てたところにある。


こんなところにも聖徳太子が!

 
叡福寺の御朱印


今日の歩数:14,479歩

【兵庫】 魚の棚

2009年01月30日 20時00分00秒 | 
8月26日(火)
当日の行程:(車) → 【明石魚の棚】【明石城】【第53回全国高校野球軟式野球選手権大会(明石公園野球場)】【三木城跡】 → (大垣泊)


「魚の棚」と書いて「うおんたな」と読むらしい。
「うおんたな」は、明石港の近くにあるアーケード。
そこには、魚介類や乾物などを商うお店が並んでいる。


最初にいただいたのは「たこ磯」の明石焼。
ふわふわ。
お出汁がおいしい。
量が多くて食べきれないのではと思ったが、そんなことはない。
つるつるっと入ってしまう。


どちらのお店で買ったのか忘れてしまったが、八幡巻もおいしい。


「蛸や喜一」のたこコロッケ。
たこに味が付いているので、ソースは付けずにいただく。

店先に置いてあった扇風機にも蛸がひらひら。



「よし川」で蛸飯と明石蛸の鉄板焼をいただく。
鉄板焼にする蛸は、刺身にもできる新鮮なもの。
レモン汁とお醤油が添えられて出てくる。
蛸は言うまでもなく、このお醤油がとてもおいしい。
大満足。

【滋賀】 瀬田の唐橋

2009年01月29日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月25日(月)
当日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


石山寺から歩いて瀬田の唐橋へ。
途中、雨に降られて、ずぶ濡れになる。

古来より「唐橋を制するものは天下を制する」といわれ、瀬田の唐橋は、京都防衛上の交通・軍事の要衝地として戦乱の舞台となってきた。
壬申の乱(天武天皇元年〔672〕)においても、大海人皇子と大友皇子の決戦場となったのが、この瀬田の唐橋だったという。


現在の橋は、昭和54年(1979)に架けられたもの。
大正13年(1924)までは木造だったそうだ。
擬宝珠だけは旧橋のものを用いているとのこと、それを見て、昔の唐橋を想像してみる。
ずっと、ずうっと昔は、こんなふうだったのだろう。

歌川広重・近江八景「瀬田夕照」


現在の唐橋は、昭和61年(1986)、「日本の道100選」に指定された。

【滋賀】 石山寺

2009年01月28日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月25日(月)
当日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


東大門(重要文化財)

天平19年(747)、良辨僧正が石山院を設け、聖武天皇の念持仏如意輪観音像を安置したのが石山寺のはじまりだといわれる。
石山寺が観音霊場として広く信仰を集めるようになるのは平安中期以降のこと。
宇多法皇の行幸をはじめ、皇族や貴族の「石山詣」が流行する。
紫式部も参籠し、石山寺で『源氏物語』を執筆したと伝わる。

瀬田川に面して建つ東大門は、建久元年(1190)に源頼朝の寄進で建てられたとされる。
その後、慶長年間(1596~1615)に、淀君の寄進で大修理が行われた。


参道には、「源氏物語千年紀」のマスコットキャラクター「おおつ光ルくん」が。
石山寺の塔頭を「源氏夢回廊」として、催しが開かれていた。



会場のひとつ「密蔵院」は、島崎藤村ゆかりの地。
密蔵院での2ヶ月間の生活を『文学界』に「茶丈記」として寄稿している。


毘沙門堂は、安永2年(1773)に建立された。
本尊・兜跋毘沙門天(重要文化財)を祀る。


御影堂は室町時代に建立された。
真言宗の開祖弘法大師、石山寺開基の良弁僧正、石山寺第三代座主淳祐内供の遺影を安置している。


硅灰石(天然記念物)
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したもの。
石山寺の硅灰石のように巨大な岩石群となっているものは珍しいそうだ。
「石山寺」の名は、硅灰石に由来するといわれる。


蓮如堂
蓮如堂は、慶長期に三十八所権現社の拝殿として建てられた。
現在では、蓮如上人の遺品や御影が安置されている。



本堂(国宝)
正倉院文書によれば、本堂は、天平宝字5~6年(761~762)に造東大寺司によって拡張されたそうだ。
その後、承暦2年(1078)に焼失し、永長元年(1096)に再建されたのが現在の本堂。
滋賀県最古の木造建築物とされている。
本尊・如意輪観世音菩薩(重要文化財)は、本堂が再建された永長元年(1096年)頃の作といわれる。
日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎。
相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したという「源氏の間」がある。
写真の花頭窓のある場所である。


経蔵は、16世紀後期の建立と考えられている。
高床の校倉で、かつては淳祐内供筆聖教(国宝)などを収蔵していたという。
滋賀県で最古の校倉造。


紫式部供養塔


芭蕉の句碑
「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」


多宝塔(国宝)
日本最古の多宝塔で、源頼朝の寄進で建久5 (1194) 年に建立された。
本尊は、快慶作の大日如来坐像。


多宝塔の近くには「めかくし石」がある。
目隠しをしてこの石を完全に抱くと、諸願成就するという。


「芭蕉庵」は、松尾芭蕉ゆかりの茶室。
芭蕉は、境内の句碑にある「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」の他にも「石山の 石にたばしる 霰かな」といった句を残している。
左側に見えるのは、月見亭。


月見亭

歌川広重・近江八景「石山秋月」

「月見亭」は、後白河上皇の行幸の際に建てられたそうだ。
石山秋月として知られている名月は、ここから観る月だという。


補陀洛山「雅の台」から本堂を望む



「朗澄大徳遊鬼境」は、東大門を出て京阪・石山寺駅方面へ数10メートルの場所にある。
朗澄律師は、約800年前の中興の祖で、死後は鬼の姿になって石山寺の一切経と聖教を守護し、人々の降魔招福を誓い入寂したという。
庭園の石には、「石山寺縁起絵巻」に描かれた朗澄律師の姿が刻まれている。


石山寺の御朱印

【滋賀】 近江神宮

2009年01月27日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月25日(月)
当日の行程:(JR大津京駅) → 【近江神宮】 → (京阪・近江神宮前駅~別所駅) → 【大津絵美術館・圓満院門跡】 → (京阪・三井寺駅~京阪膳所駅) → (【義仲寺】月曜日は閉まっていて拝観できない) → (京阪・京阪膳所駅~石山寺駅) → 【石山寺】【瀬田の唐橋】


近江神宮は、紀元2600年の慶節にあたる昭和15年(1940)に創建された。
天智称制6年(667)に都を近江大津に遷した天智天皇(天命開別大神)が祭神である。
鳥居に向かって右手には、社号が建つ。
揮毫は近衛文麿の筆による。


手水舎は、滋賀・江州の比良石(ひらいし)でできている。


楼門


外拝殿


内拝殿


内拝殿の周りの廻廊


境内には、「旧大津地方裁判所車寄」が移築保存されている。
近江神宮の祭神・天智天皇が近江令を制定したことで、法律の神様とも称えられている由縁によるという。


漏刻(水時計)
天智天皇が近江大津宮に初めて漏刻台を設けたことは、日本書紀にも記されているという。
6月10日の「時の記念日」は、天智天皇が漏刻を設けた4月25日(太陰暦)を太陽暦に換算して定められたそうだ。
近江神宮の境内には、様ざまな時計が置かれている。
また、境内にある近江神宮時計博物館では、垂揺球儀(すいようきゅうぎ)、和時計、香時計(こうどけい)などの珍しい時計が常時展示されている。


日時計


この「精密日時計」は、五分刻という世界最高の精度を誇るものなのだそうだ。


古代火時計
約4000年前の中国で、おもに夜間の時間を計るのに用いられていたという。
龍の背に等間隔に吊り下げられた銅球の下に線香が置かれ、線香の火が銅球の糸を焼き切って球が落下し、下に設けられた銅鑼が鳴るという仕組みなのだそうだ。


近江神宮の御朱印

【兵庫】 ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展 (兵庫県立美術館)

2009年01月26日 20時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
本日の行程:(大阪市営地下鉄・淀屋橋駅) → 【特別展 濱田庄司(大阪市立東洋陶磁美術館)】 → (大阪市営地下鉄・淀屋橋駅~梅田駅…阪神・梅田駅~岩屋駅) → 【ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展(兵庫県立美術館)】


「ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展」を観に、兵庫県立美術館へ出かける。
いったい何が秘密なのかは、すでに展覧会を終えている国立新美術館の「静物画の秘密を読み解く」で詳しく明かされている。


アントニオ・デ・ペレダ「静物:虚栄(ヴァニタス)」(1634)
画面の中央から向かって右側にかけて、現世の権力や栄光を示す甲冑、銃、金の鎖、金貨、真珠などが描かれ、左側には髑髏、炎の消えた蝋燭、砂時計など儚さを象徴するものが描かれている。


エヴァリスト・バスケニス「静物:楽器、地球儀、天球儀」(17世紀)
楽器は、華やかさの寓意だという。
また、その音色には終わりがあることから、儚さの象徴として描かれていたようだ。
リュートとヴィオラ・ダ・ガンバの音色は、休憩コーナーで聴くことができる。
ヴィオラ・ダ・ガンバは、ヴィオラより、ギターに近いものなのだそうだ。


コルネーリス・デ・ヘーム「朝食図」(1660-69年頃)
レモン、胡椒、牡蠣の食べ合わせは、健康に良いとされていたという。
描かれる食材は、どれも遠方から運ばれる高価なものなのだそうだ。
花を主題とした静物画では、オランダにバブル経済をもたらしたチューリップが描かれているものが多い。


ディエゴ・ベラスケス「薔薇色の衣装のマルガリータ王女」(1653-54頃)
会場の最後に、大きな空間をとって飾ってあった。
色がとても美しい。
近くから、遠くから、眺める。
ところで、この展覧会は「静物画」を集めたもの。
「薔薇色の衣装のマルガリータ王女」が会場に展示されているのは、テーブルの上に花瓶があるからか。
花瓶に挿した花は、この作品で重要な意味を持つという。
白いマーガレットは王女の名前を示し、ピンクの薔薇はハプスブルク家や結婚を象徴しているのだそうだ。

静物画は、知識がないと読み解くのは難しいなあ。
だからこそ、解ると面白いのだろうけど。


【大阪】 特別展 濱田庄司 (大阪市立東洋陶磁美術館)

2009年01月25日 21時09分50秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
本日の行程:(大阪市営地下鉄・淀屋橋駅) → 【特別展 濱田庄司(大阪市立東洋陶磁美術館)】 → (大阪市営地下鉄・淀屋橋駅~梅田駅…阪神・梅田駅~岩屋駅) → 【ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展(兵庫県立美術館)】


大阪市立東洋陶磁美術館へ濱田庄司展を観に出かける。

 
左:掛分指描 壺
右:掛分指描 土瓶
指で描いた模様は素朴で味わい深い。
作品の形や大きさに応じて変化する模様を楽しむことができる。


象嵌 茶碗


藍塩釉 面取瓶
「塩釉という技法は、窯の温度が上がったある時期に岩塩を窯の横の穴から投げ込むと火の力で釉がかかる。これは人為のなせる業ではなく、全く他力によるものなのである。」という柳宗悦の言葉が展示場の解説に引用されていた。
塩釉は、釉薬に塩を混ぜるのではなく焼成時に窯の中に塩を投げ込む技法だと初めて知る。
塩釉に独特の「てかり」が美しい。

ほかに、トレードマークの唐黍が描かれている「柿釉文打鉄絵角皿」、青差しが美しい「柿釉抜絵角瓶」が印象に残っている。
「青釉白黒流描大鉢」もよかった。
「流描」といえば、見込みに柄杓で釉をかける時間が15秒しかかからないのを見た人から「早すぎて物足りなくないか」と尋ねられ、「15秒プラス60年(の経験)とみたらどうか」と答えて傍にいたバーナード・リーチを唸らせたというエピソードが紹介されていた。
即興性と伝統と経験とで生み出された作品、よいものを観ることができた。


ところで、今日は大阪国際女子マラソンの日。
大阪市立東洋陶磁美術館の前の道は、人でいっぱい。


一番目の展示室から次の展示室へ移動しようと廊下へ出たとき、先頭集団が通過するのをタイミング良く見ることができた。


今日の歩数:10,529歩

【大阪】 大坂の陣ゆかりの地① 法福寺(お菊寺)

2009年01月24日 22時29分24秒 | 旅 - 大阪府
本日の行程:(車) → 【堺事件発生の地(明治初年仏人撃攘之処)】【法福寺(お菊寺)】【大阪夏の陣・樫井古戦場跡の碑】 → 【塙団右衛門の五輪塔】 → 【淡輪六郎兵衛の法篋印塔】【岸和田城】【南宗寺】【今井屋敷跡】【妙国寺】【月蔵寺(大野治胤〔道犬斎〕の墓)】【野中寺】【誉田八幡宮(誉田林古戦場跡の碑)】【応神天皇陵】【薄田隼人正兼相の墓】 → 【玉手山公園(大阪夏の陣両軍戦死者供養塔・後藤又兵衛基次之碑・吉村武右衛門之碑)】 → 【大阪夏の陣 小松山古戦場跡の碑】 → 【奥田忠次の墓】


法福寺は、文亀元年(1501)、第一世楊蓮社柳誉上人順阿貞也和尚が開基したといわれる。


現在の本堂は、寛政7年(1795)に焼失したものを安政5年(1858)に再建したもの。
本堂には、お菊の木像の人形が安置されていて、そのため、法福寺は「お菊寺」とも呼ばれている。
本堂の外からお菊人形は見えないが、住職さんにお願いすれば本堂の中のお菊人形のところへ案内して下さる。

お菊は、秀吉の甥・秀次と側室小督の間に生まれ、波有手(現・阪南市鳥取)の後藤六郎兵衛輿義の養女となり、紀州の山口兵内に嫁いだ。
山口家は大阪の陣で豊臣方についたが、城が敵方に囲まれた際、お菊は援軍を求めるために密書を携えて大坂城へと向かう。
農婦の姿で敵の包囲をくぐり抜け、男装をして大坂城へ入ったのだという。
しかし、大阪城からの帰途、樫井川で徳川方に捕らえられ、元和元年(1615)、処刑されてしまう。
その時、お菊は20歳だったそうだ。
お菊が養女となった後藤家の妻は、菩提寺である法福寺にお菊の木像を納め、冥福を祈ったのだという。
当時の木像は、寛政7年(1795)に焼失し、現在目にすることができる木像は、安政5年(1858)に再刻されたもの。
地元では、お菊の手まり歌が代々伝えられているそうだ。


阿菊之碑は、お菊の没後360年に建てられたもの。


大日堂

 
左:勢至丸の像
右:鐘楼


今日の歩数:13,798歩

【大阪】 太融寺

2009年01月23日 20時00分00秒 | 旅 - 大阪府
8月17日(日)
当日の行程:(神戸新交通六甲アイランド線・アイランド北口駅) → 【黒田清輝展(神戸市立小磯美術館)】 → (神戸新交通六甲アイランド線・アイランド北口駅~阪神・梅田駅) → 【太融寺】


太融寺南門

太融寺は、弘仁12年(821)に嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建したお寺。
本尊・千手観音菩薩は嵯峨天皇の念持仏であった。
この地に七堂伽藍を建立したのは、源融だという。


太融寺西門

 
太融寺西門に向かって右手には「源融公旧蹟」の碑が、
左手には「大坂三十三観音札所」の碑がある。


本堂は、昭和35年(1960年)に再建されたもの。
本尊・千手観世音菩薩を祀る。
本堂の向かって右手側には、手前から、大子堂、護摩堂、不動堂が並ぶ。
不動堂の上層は、宝塔になっている。
建物の全体を写真で捉えることができないほど、建物同士がくっついている。


大師堂の本尊は、光背に日輪を背負った弘法大師。


護摩堂の本尊は、不動明王。
毎月8日、18日、28日に、護摩秘法が行われている。


宝塔は、昭和61年(1986)に建立された。
大日如来を安置している。


不動堂


不動堂には、不動明王像が祀られている。


不動堂の不動明王像の後方には、榎木稲荷があり、滝が流れている。
お百度参りをする人と出会った。
一願成就の利益があるといわれる。


淀殿の墓
明治10年(1877)、城東練兵場(現大阪城公園)造成にあたり、淀殿の遺骨は太融寺に移祀されたそうだ。


千成地蔵尊
「コノ地蔵尊ニ参拝御願ヒスレバ一切ノ病気災難ヲ除キ諸願ヲ成就スル特ニ小供ヲ守護下サイマスカラ無病息災デ幸福ニナレマス」
と書いてある。


芭蕉の句碑
「しら菊の 目に立てヽ見る 塵もなし」


「国会期成同盟発祥之地」の碑
太融寺は、近代日本政党政治発祥の地でもあるという。
明治13年(1880)には第4回愛国社大会が、明治17年(1884)には自由党解党大会が太融寺で開かれている。
第4回大会で国会期成同盟会が結成され、国会開設請願書を作成して明治天皇に奉呈する。
そして明治23年(1890)、国会が開かれるに至ったのだそうだ。


太融寺の御朱印

【滋賀】 弘文天皇長等山前陵・新羅善神堂・フェノロサの墓

2009年01月22日 20時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
8月16日(土)
当日の行程:(JR・堅田駅)…(江若交通バス・堅田駅~佐川美術館) → 【冨嶽三十六景と富嶽百景 北斎 富士を描く(佐川美術館)】 → (江若交通バス・佐川美術館~堅田駅)…(JR・堅田駅~大津京駅) → 【石山寺と湖南の仏像 ―近江と南都を結ぶ仏の道―(大津市歴史博物館)】【弘文天皇長等山前陵】 → 【新羅善神堂】 → 【フェノロサの墓】 → (京阪・皇子山駅~出町柳) → 【五山送り火】

【弘文天皇長等山前陵】




弘文天皇というよりも、大友皇子というほうがピンとくる。
天智天皇の第一皇子、壬申の乱で敗れたあの皇子の御陵だ。
場所は、大津市役所の裏手にあたる。
大友皇子が歴代天皇に数えられるようになったのは、明治3年(1870)のこと。


【新羅善神堂】


新羅善神堂(国宝)は、弘文天皇長等山前陵のすぐ横に建っている。
写真では屋根しか分らないが、建物は三間四方の流れ造りで屋根は桧皮葺だという。
足利尊氏によって再興されたと伝えられる。

祀られているのは新羅明神。
園城寺開祖・智証大師の守護神である。
秘仏の本尊新羅明神坐像(国宝)は、「三井寺展」(於・大阪市立美術館、2008年11月1日~12月14日)で公開されていた。
垂れ目の、愛嬌あるお顔立ちをした神様だ。


【フェノロサの墓】


フェノロサの墓は、法明院にある。
法明院は、三井寺唯一の律院。
享保八年(1723)、義瑞律師性慶によって開かれた。


木が鬱蒼と繁る石段の参道をのぼると、法明院の門が見えてくる。
暗い感じがするのは、雨が降っているからか。


遺言により、フェノロサここに葬られたという。
フェノロサの墓の隣には、医師で日本美術の収集家でもあったビゲローの墓もある。