大倉草紙

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【和歌山】 雑賀城跡

2009年07月26日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月14日(土)
当日の行程:(車) → 【藤白神社】【和歌山県立海南高校】【紀三井寺】【雑賀城跡】 → 【鈴木孫一の墓(蓮乗寺)】【大阪府立近つ飛鳥博物館】 → 【敏達天皇陵】 → 【用明天皇陵】 → 【推古天皇陵】 → 【小野妹子の墓】 → 【科長神社】 → 【孝徳天皇陵】 → 【竹内街道歴史資料館】【上宮太子高校】【道明寺】【葛井寺】

【雑賀城跡】

雑賀城があった妙見山。
妙見山上にあったため、「妙見山城」とも呼ばれる。
雑賀城を築いたのは、雑賀衆の頭領の鈴木重意(しげおき)。
鈴木佐大夫とも呼ばれる。


妙見山の山頂には、妙見山が建っている。
ここは養珠寺の境内地で、この鳥居の向く先には、妹背山の海禅院多宝塔があるそうだ。


妙見堂
見晴らしがよく、キャンバスに向かって絵を描いている人の姿も。



千畳敷
千畳敷に城を構え、東側には侍屋敷、西側には町屋があったという。


【鈴木孫一の墓(蓮乗寺)】

和歌山市平井の蓮乗寺に、鈴木孫一のお墓があるというので行ってみた。
鈴木孫一は、雑賀党の頭領で、石山合戦で活躍したことで知られる。
雑賀孫一、平井孫一とも呼ばれる。
ではいったい誰が孫一なのか?
雑賀城を築いた鈴木重意(佐太夫)であったという説、鈴木重朝であったという説、鈴木重秀であったという説があり、特定されてはいない。


鈴木孫一のお墓

 
銘文によれば、天正17年(1589)建立の墓碑を、蓮乗寺九世住職正因が、天保3年(1832)に建て替えたものである。

【和歌山】 紀三井寺

2009年07月25日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月14日(土)
当日の行程:(車) → 【藤白神社】【和歌山県立海南高校】【紀三井寺】【雑賀城跡】 → 【鈴木孫一の墓(蓮乗寺)】【大阪府立近つ飛鳥博物館】 → 【敏達天皇陵】 → 【用明天皇陵】 → 【推古天皇陵】 → 【小野妹子の墓】 → 【科長神社】 → 【孝徳天皇陵】 → 【竹内街道歴史資料館】【上宮太子高校】【道明寺】【葛井寺】


楼門(重要文化財)
紀三井寺は、宝亀元年(770)、唐僧・為光上人によって開基された。
正式な寺名は「紀三井山金剛宝寺護国院」。
山内から3つの霊泉(清浄水・楊柳水・吉祥水)が湧き出ることから、「紀三井寺」と呼ばれるようになったのだという。


楼門の先にある石段。
かつて、ここにあった坂は「結縁坂」と呼ばれていたらしい。
この坂の名のいわれについては、前回訪れたときのこちらの記録を。


石段の途中にある芭蕉の句碑。
「見上ぐれば桜しもうて紀三井寺」


清浄水
紀三井寺という呼び名の由来にもなっている「清浄水」。


本堂
宝暦9年(1759)建立。


仏殿
松本明慶作の大千手十一面観音菩薩が祀られている。
その大きさに驚く。


六角堂


鐘楼(重要文化財)


開山堂


多宝塔(重要文化財)


春子稲荷
「凡そ四百年の昔、天正十三年織田信長羽柴秀吉による紀州征伐六万の大軍は根来寺、粉河寺を焼き打ちにし、紀三井寺に迫った。
丁度その頃当山観音堂に仕えていた春子という二十五才位の美女が突然須弥壇のなかゝら白狐の姿となり、身をひるがえして敵の軍営に赴き、霊力をもって武将を威服し、先鋒の将羽柴秀長から『焼討ち禁制』の書状を得て、紀三井寺及び在所を戦火から救った。
人々は危難除け春子稲荷としてこゝに祀った。」(案内板より)


文塚
届先不明となった郵便物の供養塔。
80円切手が貼られているが、郵便料金が変わる度に貼り替えられてきたのだろうか。


紀三井寺の御朱印

【和歌山】 藤白神社

2009年07月24日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月14日(土)
当日の行程:(車) → 【藤白神社】【和歌山県立海南高校】【紀三井寺】【雑賀城跡】 → 【鈴木孫一の墓(蓮乗寺)】【大阪府立近つ飛鳥博物館】 → 【敏達天皇陵】 → 【用明天皇陵】 → 【推古天皇陵】 → 【小野妹子の墓】 → 【科長神社】 → 【孝徳天皇陵】 → 【竹内街道歴史資料館】【上宮太子高校】【道明寺】【葛井寺】


藤白神社は、斎明天皇が牟婁の湯に行幸の折、この地を訪れて創建したといわれる。


ここは、熊野三山の入口とされる。
上に挙げた写真の鳥居とは別の、駐車場に面して建っている鳥居の傍らには、このような石碑がある。
「三熊野一の鳥居
 これより熊野路のはじめ」と刻まれている。


社務所
この奥に、拝殿がある。


残念ながら、ウチは「鈴木さん」ではない。
社務所で、鈴木さんへのお土産として「鈴木さんせんべい」を購入。


拝殿


藤白王子権現本堂


聖皇三代重石
宇多・花山・白河三上皇の熊野御幸を記念して建てられたもの。


御歌塚
建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が納められているという。


芭蕉翁藤塚


子守楠神社
樹齢1000年といわれる大きな楠の手前に小さく見えるのが、子守楠神社。
古くから、子守の宮として信仰されていた。
南方熊楠のように、この神様から楠・熊・藤等の名前を授かる人が多いという。


有間皇子神社
「今から千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承をめぐる複雑な争いの中で、十九才の若さで散っていった悲運な方です。政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄をさそい有間皇子に天皇に謀反をすることをすすめました。うまく、わなにかかった皇子はその釈明のため牟婁(白浜)の温泉にいる斉明天皇のところに参り、その帰路この藤白坂で絞殺されてしまったのです。
 途中で皇子の詠まれた
『家にあら(れ)ば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』
『磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む』
の二首が万葉集にのせられていますが絶唱としてひとびとの涙をさそいます。
 ここから二〇〇メートル西の藤白坂の上り口に、皇子之墓と佐佐木信綱博士揮毫の歌碑がありますが、有間皇子神社はその御魂をお祀りしています。(以下略)」(案内板より)


藤白神社の御朱印


有間皇子が絞殺されたという藤白坂へ行ってみた。



有間皇子の墓と歌碑
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」


藤白神社を挟んで、藤白坂とは反対の方角には、鈴木屋敷が残っている。

「ここは、鈴木姓の元祖とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。
 平安末期ごろ、上皇や法皇の熊野参詣がさかんとなり、熊野の鈴木氏が、この地に移り住んで、熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰の普及につとめていました。
 なかでも、鈴木三郎重家や亀井六郎重清は有名で、源義経の家来として衣川館(ころもがわのたて)で戦死を遂げたと伝えられています。
 また、重家・重清らが幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野住還には必ずこの屋敷に滞在し、山野に遊んだとも伝えられています。
 平成十六年十月 海南市教育委員会」

【和歌山】 道成寺

2009年07月10日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
本日の行程:(車) → 【熊野本宮大社】 → 【大斎原】【有間皇子の碑】 → 【白良湯】【南方熊楠記念館】【闘鶏神社】【南方熊楠顕彰館】【奇絶峡】【紀州備長炭発見館】【道成寺】【和歌山県立箕島高等学校】


仁王門(重要文化財)
道成寺は、大宝元年(701)、文武天皇の勅願で創建された。
和歌山県最古のお寺である。
安珍と清姫の物語で有名だ。
どうも緊張する。
私は、蛇が苦手なのだ。

縁起堂では、日に何度か「絵とき説法」が行われている。
ちょうど始まる時間だったので、説明を受ける。
「妻宝極楽」という言葉も紹介された。
「主婦は家庭の柱なり。わが妻こそ日本一なりと大切になしたまえば家門の繁栄うたがいなく極楽は西方の遠きのみならず家庭すなわち妻宝極楽となりぬべし。」
夫は、この言葉を聞かせるために道成寺に行きたいと私が言っていたのだと思ったらしい。
「妻宝極楽」という言葉は、私も今日はじめて知ったのだけれど。


本堂(重要文化財)


護摩堂


三重塔


安珍塚
安珍と焼かれた鐘が埋められた場所。
塚のしるしとして植えられた榁(むろ)の木は、三代目。


鐘巻之跡


二代目鐘楼跡
「道成寺の初代の釣鐘と鐘楼は、平安時代に安珍と清姫の事件で焼けたと言い伝えられています。
 それから四百年後の南北朝時代に二代目の釣鐘が作られ、この場所に鐘楼が再建されました。
 これを題材に能楽や歌舞伎の道成寺物が作られました。
 その二代目釣鐘は、戦国時代の豊臣秀吉の紀州攻めの時に没収され、今は京都市の妙満寺にあります。」(案内板より)


道成寺の御朱印

【和歌山】 奇絶峡

2009年07月08日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
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車で走っていると、「奇絶峡」の文字が目に入ってきた。
名前に惹かれて、立ち寄ってみることにした。

奇絶峡は、会津川の上流にある渓谷。
巨岩、奇岩に囲まれている。
堂本印象の原画に基づき、堂本氏指導のもとで彫られたという「磨崖大石仏」は見事。


この赤い橋を渡って、赤城の滝(不動の滝)まで行ってみる。


赤城の滝(不動の滝)は、高さ23メートル。
滝かげには、不動明王が祀られている。


延命地蔵


妙見大菩薩


お不動さん
天井が巨岩なのには驚いた。
「今から150年くらい前、上秋津の木村さんが奇絶峡で不思議な三人の修業者に出会い、お不動さんを祀ったのが始まり」という説明があったが、分かるような、分からないような……。
木村さんって?


辺りは、巨岩だらけだ。

【和歌山】 闘鶏神社

2009年07月07日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
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允恭天皇8年、熊野権現(現・熊野本宮大社)を勧請し、「田辺の宮」と称したのが闘鶏神社のはじまり。


馬場
鳥居の手前には、幅約11メートル、長さ約230メートルの馬場がある。
江戸時代から流鏑馬や競馬が行われていたが、昭和39年(1964)に危険防止などの理由から中止されたそうだ。


拝殿


本殿
本殿裏には仮庵山(かりおやま)がある。
「仮庵山と南方熊楠
本殿裏の神山で、古代祭祀跡指定地。社伝によると竜神の信仰があり、又経塚も発見されている。
仮庵山は、うっそうとした自然林で巨大な楠が、大きく枝を広げていたというが明治の頃に枯損木と偽り切り倒されてしまい、これ以上の伐採を中止させようと南方熊楠氏は関係者を厳しく批判し抗議している。南方熊楠は、仮庵山を『クラガリ山』と呼び『当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり』と評価し、多くの珍しい植物を採集している。」(案内板より)


湛増弁慶の像
「源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。
義経の命を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽紅い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、金剛童子の旗をなびかせて総勢二千余人、二百余の舟に乗って堂々と壇の浦向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。
時に文治元年(一一八五年)三月のことであった。
 昭和六十二年五月三日
武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会」


奉納されているお酒は「弁慶の里」。


弁慶社


藤巌神社
祭神は、安藤直次(藤巌公)。
「安藤直次公は幼少から徳川家康に近侍し、姉川合戦、長篠合戦長久手合戦などに従軍。のちに家康の側近として幕政に参画した。
 慶長十五年(一六一〇)家康の第十子頼宣の伝役となり、大阪の陣には頼宣に従って出陣。元和五年(一六一九)頼宣が紀伊に移ると、紀州徳川家の附家老としてこの田辺に封ぜられ、三万八千八百石を支配した。
 屋敷城(後の錦水城)の築城と城下町の整備が進められ、商業や文化面に力を注ぎ、以来田辺は明治に至るまで、安藤氏三万八千八百石の城下町として発展して行く。
 寛永十二年五月十三日没。 享年八十一歳。
 位牌は田辺市内の慈航山海蔵寺に安置されており、墓所は三河国蒼海郡(愛知県岡崎市大和町)桑子山妙源寺。法名が『藤巌院殿崇賢居士』であるため『藤厳公』とお呼びしている。
 明治十九年(一八八六)有志により、現在の田辺の原形を作られた藤厳公の功績に感謝し、遺徳を永久に崇敬する為、闘鶏神社境内に建立し、現在に至る。」


御神木 大楠
樹齢約1200年といわれる。
樹洞には人が住みついていて、大楠に火がついたところ中から火を消したという話が伝わっているらしい。
延命長寿・無病息災の信仰となっていて、楠の葉を歯痛の患部に付けると治るともいわれている。


闘鶏神社の御朱印

【和歌山】 白浜

2009年07月04日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
本日の行程:(車) → 【熊野本宮大社】 → 【大斎原】【有間皇子の碑】 → 【白良湯】【南方熊楠記念館】【闘鶏神社】【南方熊楠顕彰館】【奇絶峡】【紀州備長炭発見館】【道成寺】【和歌山県立箕島高等学校】


有間皇子之碑
NHKの「日めくり万葉集」という番組で、有間皇子が詠んだ歌が紹介されていた。
「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む」
番組の中で白良浜の近くに建つこの碑のことを知り、見てみたくなった。

碑の裏側には次のように書かれている。
「有間皇子は第三十六代孝徳天皇の皇子である。
三十七代斉明天皇の即位三年九月(千三百余年前)気保養と称ってこの地に遊び、其の風光絶佳なるに深く感嘆し帰りて帝に奏上した。帝はきこしめし悦びたまひて一度みそなわさむと、御言葉があって、其の翌年遂に牟婁温泉行幸となる。左大臣蘇我赤兄留守を守る。或日赤兄、時の失政を挙げて有馬皇子に語る。話しの最中に皇子の倚れる椅子が、故なく折れくづれたのでこれは不祥だと言って皇子は話しを止めて直に館に帰る。其夜、赤兄は、部下を率ひて市経第の皇子邸を囲み有馬皇子謀反したと帝に訴報する。皇子護送されて白浜の行在所に来り、天皇、皇太子の反状を問ふに、答へて曰く、『天と赤兄とのみ知る。吾は知らざるなりと』。のち、連国襲をして有間皇子を藤白坂に絞殺せしむ。と日本書紀に有り。時に、御年十九才であった。時の皇太子は中大兄皇子。赤兄は蘇我入鹿の従兄。当時最も厳しき皇位継承論議の渦の中に野心家赤兄の為めに計られ、千古の悲劇の御最期として史家は伝へている。」



白良浜は美しい。
白良浜というだけあって砂浜は白く、ゴミひとつ落ちていない。
この砂浜の砂がオーストラリアから運ばれたものだと知ったのは、つい先日のこと。
自然にできたものではないんだ、と少しがっかりしたが、これだけの美しさを保っているのはスゴイ。

白良浜に向かう車中、浜辺を走る姿を写真に撮るよう夫に頼まれる。
いったいどうした訳でそんなことを言うのか私には理解できない。
訊けば、ボクシングの雑誌に白良浜を走るボクサーの姿が載っていて、自分もいつかは白良浜を走ってみたいと思っていたそうだ。
それを聞いても、私には理解できない。
たいていのスポーツは好んで観るが、ボクシングには全く興味がないのだ。
本当に走っている姿を写真に収めるのだろうか、と半信半疑のまま浜辺に出る。
真剣な表情で走り出したものだから、驚いた私はシャッターを切るタイミングを逸してしまい、何度かやり直し。
良いトレーニングになったはずだ。


すぐ近くの白良湯でゆっくりする。


円月島
海岸沿いの道を行くと、円月島が現れる。
目に入ってきたときは、写真で見たあの島だ!と嬉しくなった。
海触洞と沈む夕日が重なる光景の美しさは有名。

【和歌山】 熊野本宮大社

2009年07月03日 21時00分00秒 | 旅 - 和歌山県
2月8日(日)
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熊野三山には、参拝順序があるという。
「熊野御幸」に倣うのならば、熊野本宮大社 → 熊野速玉大社 → 熊野那智大社の順なのだそうだ。
最初に詣でるべき熊野本宮大社が、一番後になってしまった。


鳥居をくぐり、石段を登る。


石段の途中にある祓戸大神でお参りしてから本殿に向かう、という順序らしい。


拝殿


拝殿の前には、神使の八咫烏。


そしてこれも八咫烏?


神門
神門の奥に本殿がある。
神門より先は、写真撮影禁止。
ただし、社務所に申し出れば、たいていの場合は許可してもらえる。
「営利目的ではありませんね?」「ハイ」「ではどうぞ」
こんな感じ。


本殿


大斎原(おおゆのはら)の大鳥居
明治22年(1889)大水害で社殿が流されるまで、熊野本宮大社はこの場所にあったそうだ。
現在の熊野本宮大社とは、数百メートル離れている。


緑が多く、気持ちがいい。


大鳥居にも八咫烏がついている。


熊野本宮大社の御朱印

【和歌山】 和歌山県立海南高校

2009年02月14日 21時46分06秒 | 旅 - 和歌山県
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せっかく海南市に来たので、高校野球の古豪・海南高校に立ち寄る。
確か、日南学園の小川前監督もここの出身だったはず。


野球部の遠征用のバスかな?


学校正門から入って右手にあるグラウンド。
野球部は練習していなかったが、レフトの付近で、女子ソフトボール部がボールを追っていた。


3月から夏の大会直前まで、毎週土日は練習試合でびっしりだろう。


今日の歩数:17,472歩

【和歌山】 箕島高校

2009年02月08日 23時11分49秒 | 旅 - 和歌山県
本日の行程:(車) → 【熊野本宮大社】 → 【大斎原】【有間皇子の碑】 → 【白良湯】【南方熊楠記念館】【闘雞神社】【南方熊楠顕彰館】【奇絶峡】【紀州備長炭発見館】【道成寺】【和歌山県立箕島高等学校】


帰宅途中、カーナビに「箕島」という地名が出てきた。
ひょっとしてこの近くに箕島高校があるのでは、と思い探したところ、ごく近くに発見。
センバツ大会に出ることが決まっているため、日曜日の午後6時頃でも練習しているのではないかと思いグラウンドを覗く。


イニングスを示す数字が漢数字。
こういうところにも「古豪」を感じさせる。


グラウンドには選手たちの姿はなかったが、ベンチには荷物があり、どこかでトレーニングしているのかな、とグラウンドの裏側を探す。


いたいた。
選手たち十数人がメディスンボールを抱え、頭上から一気に地面に叩きつけていた。
これ、結構キツイんだよね。
背筋と腕全体のトレーニング。
冬場の練習の定番メニュー。
頑張っている箕島高校の選手たちに幸あれ!


今日の歩数:11,802歩