大倉草紙

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【東京】 東京六大学野球・慶應義塾大学優勝パレード

2010年05月31日 21時00分00秒 | スポーツ観戦
東京六大学野球の優勝をかけた早慶戦の三回戦。
観に行こうかと朝まで迷っていたが、結局は行かず、別の場所へ出かけた。
夕方、携帯電話でニュースを見て、慶應が優勝したことを知る。
その直後、青山一丁目駅で下車し外苑東通りを渡ったところ、なんだか賑やかな音が近付いてきた。
思いがけず優勝パレードに遭遇。















【神奈川】 旧居留地90番地の大砲

2010年05月30日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月3日(月)


開港広場にある旧居留地90番地の大砲
「口径11.5cm 全長282.5㎝ 重量1480㎏
 外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元[1865]年創立)があり、明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。明治43年に出版された書籍に、同社の『倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた』という記載があります。
 明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として貴重な資料です。
  平成15年12月  横浜市教育委員会」(案内板より)

【神奈川】 日本新聞博物館

2010年05月27日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月3日(月)
当日の行程:【彩色立面図に見る日本の近代建築 - 銀行・オフィスビルから邸宅まで-(神奈川県立歴史博物館)】 → 【横浜市開港記念会館】 → 【西洋館とフランス瓦 - 横浜生まれの近代産業(横浜都市発展記念館)】 → 【日本新聞博物館】 → 【横浜開港資料館】 → 【神奈川県庁本庁舎一般公開】

わが国の日刊新聞発祥の地は横浜なのだそうだ。
日本新聞博物館(ニュースパーク)は、新聞社や通信社の仕事を様ざまな角度から知ることができる非常に興味深い場所だった。


新聞オフセット輪転機
博物館の1階に置かれている。
初期のもので、昭和54年(1979)に静岡新聞社に納入され、平成9年(1997)まで使われていた。
1時間あたり、最高で15万部の新聞を印刷できるそうだ。

新聞のように多くの情報が入った大量の印刷物を、毎日どうやって作ってどのように届けられるのかというのは、子どもの頃いつも不思議に思っていたことだ。
その大まかな仕組みをなんとなく知っている今でも、毎日印刷され、朝起きてポストを覗けば配達されている、というのはスゴイことだと思う。

私はやってみなかったが、実際に、新聞製作を体験することもできるようだ。

【神奈川】 外国郵便創業の局 (横浜港郵便局)

2010年05月26日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月3日(月)


横浜港郵便局は、外国郵便創業の局。


現在の郵便制度は、明治4年(1871)に始まったが、当初は、外国の郵便物は外国郵便局が取り扱っていた。
明治8年(1875)、日米郵便交換条約が締結され、その後、外国郵便業務は横浜郵便局(現・横浜港郵便局)に移管された。


横浜港郵便局の前には、「郵便は世界を結ぶ」と書かれたポストがある。

【神奈川】 神奈川運上所跡

2010年05月25日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
5月3日(月)


「開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。
 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。
 明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。」(案内板より)

【神奈川】 西洋館とフランス瓦 -横浜生まれの近代産業- (横浜都市発展記念館)

2010年05月24日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月3日(月)
当日の行程:【彩色立面図に見る日本の近代建築 - 銀行・オフィスビルから邸宅まで-(神奈川県立歴史博物館)】 → 【横浜市開港記念会館】 → 【西洋館とフランス瓦 - 横浜生まれの近代産業(横浜都市発展記念館)】 → 【日本新聞博物館】 → 【横浜開港資料館】 → 【神奈川県庁本庁舎一般公開】


幕末に来日したフランス人実業家・アルフレッド・ジェラールは、日本で初めてフランス瓦の製造を手掛けた。
フランス瓦やその工場の資料を中心とした展覧会。
展覧会は、5月9日に終了している。


『日本絵入商人録』
銅版画に描かれたジェラール工場。
横浜山手にあったらしい。


ジェラール瓦
表面(左)には、雨の分流帯が付いている。
裏面(右)には、製造年やジェラールの事務所の住所などが刻印されている。
裏面の突起部を桟に引っ掛けて瓦を葺く。


フランス瓦の葺き方
和瓦と違って、半枚分ずつずらしながら葺いていくそうだ。


模倣ジェラール瓦
ジェラールの瓦が作られるようになってから間もなく、日本人の手によって模倣瓦が作られるようになった。


模倣瓦の屋根を持つ旧柳下家住宅

【神奈川】 横浜市開港記念会館

2010年05月23日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月3日(月)
当日の行程:【彩色立面図に見る日本の近代建築 - 銀行・オフィスビルから邸宅まで-(神奈川県立歴史博物館)】 → 【横浜市開港記念会館】 → 【西洋館とフランス瓦 - 横浜生まれの近代産業(横浜都市発展記念館)】 → 【日本新聞博物館】 → 【横浜開港資料館】 → 【神奈川県庁本庁舎一般公開】




横浜市開港記念会館(国指定重要文化財)
「横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して、大正3年(1914)9月に着工され、大正6年7月1日の開港記念日に『開港記念横浜会館』として開館しました。
 建物は、大正12年の関東大震災によって一部が焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。
 建物の外壁は、腰石まで花崗岩積みで、1・2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで、古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、東北隅に角ドーム、さらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で、越屋根は銅版葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど、大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。
  横浜市教育委員会文化財課
  財団法人 横浜国際観光協会  平成6年3月」(案内板より)


階段飾窓


ステンドグラス


螺旋階段


飾窓とステンドグラス


ステンドグラス

【神奈川】 彩色立面図に見る日本の近代建築 (神奈川県立歴史博物館)

2010年05月22日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
5月3日(月)
当日の行程:【彩色立面図に見る日本の近代建築 - 銀行・オフィスビルから邸宅まで-(神奈川県立歴史博物館)】 → 【横浜市開港記念会館】 → 【西洋館とフランス瓦 - 横浜生まれの近代産業(横浜都市発展記念館)】 → 【日本新聞博物館】 → 【横浜開港資料館】 → 【神奈川県庁本庁舎一般公開】


後期の「銀行建築編」を観る。
横浜市在住の建築家・岡義男が描いた全国各地の銀行建築の彩色立面図や関係資料を中心に展示されている。
展覧会は5月9日に終了している。


旧横浜銀行集会所


旧福島浪蔵別邸


旧第一銀行神戸支店


横浜郵船ビル


日本銀行新築場沿革図
着工直後から竣工直前まで撮影されたものが並んでいた。
周りの建物と見比べてみると面白い。

もう一点面白かったのは、『辰野金吾博士作品集成絵図』。
辰野の還暦祝いに作成されたものらしい。
日本銀行本店をはじめ、両国国技館、東京駅、東京帝国大学工科大学、旧渋沢邸等々、辰野金吾の作品を集めた架空の町の図。
日本じゃないみたい。

夫が印象に残ったと言っていたのは、大正4年(1915)に撮影された辰野金吾の肖像写真。
紋付袴の姿。
そういえば、辰野のライバルとも言われる妻木頼黄の像も紋付袴姿だった。


さて、この神奈川県立歴史博物館も妻木頼黄の設計による近代建築物。
かつては、横浜正金銀行本店として使われていた。
「国指定史跡
 旧横浜正金銀行本店
 平成7年6月27日 指定
 所在地 横浜市中区南仲通5丁目60番地
          弁天通5丁目69番地
 横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。
 この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。
 さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。
   平成8年3月30日  神奈川県教育委員会」(案内板より)