大倉草紙

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【三重】 御斎峠

2009年11月02日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


御斎峠跡の碑
三重県と滋賀県の県境に御斎峠はある。
御斎峠と書いて「おとぎとうげ」と読む。
その名は、鎌倉時代、夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺を訪れた際、村人がここで斎(とき)をあげたことに由来するそうだ。

伊賀上野方面から滋賀県に向かう場合、国道422号線を通るのが一般的なようだ。
だが、御斎峠を通ってみたかったので、県道138号線を走った。
くねくねとした山道を行く。
近くにあるゴルフ場の利用客くらいしか通らないのか、対向車とすれ違うことは稀だし、前後にも車は走っていない。

三重県側から入ると、滋賀県との県境の手前に、上に挙げた「御斎峠跡」の碑が建っている。
御斎峠は、司馬遼太郎の『梟の城』の冒頭部にも登場する。
が、『街道をゆく』によれば、『梟の城』執筆時は峠まで行かず、遠望するだけで、地図をたよりに執筆したそうだ。
そして、その後に御斎峠を訪れ、この碑を前にしたときのことを書いている。
「『跡というのがいいですね』
と、編集部のHさんがいった。改修で路幅がすこしひろげられても依然として御斎峠であるはずなのだが、しかし以前の御斎峠ではないのだという思いのたけがこの『跡』と付けたあたりにこもっているとHさんは言いたかったのかもしれない。」(司馬遼太郎著、『街道をゆく7 大和・壺坂みちほか』、昭和54年、朝日出版、26~27頁)

言われてみれば、「跡」ではなくて、今でも御斎峠だ。
けれど、かつての御斎峠とは、だいぶ変わってしまっているのだろう。
御斎峠には、ヒダル神の伝説が残っている。
ヒダル神は、山道を歩く者に、空腹感を与える悪霊だ。
この峠の険しさが生んだ伝説だろう。
徳川家康は、本能寺の変で多羅尾光俊に助けられ、伊勢へ逃れる際にこの御斎峠を越えたと伝えられるが、そのときも、命がけだったとか。
車で峠を越えてしまう今では、ヒダル神は出てきそうもない。


山口誓子の句碑
「切り通し 多羅尾寒風 押し通る」
御斎峠跡の碑から、甲賀方面へ少しだけ進んだところに建っている。
目の前は、三重県と滋賀県の県境だ。

【三重】 鍵屋ノ辻

2009年11月01日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


「日本三大仇討、伊賀越鍵屋辻の決闘
 事件の発端は、寛永7年(1630)7月11日の夜、備前国岡山藩士河合又五郎が同僚の渡辺源太夫を殺害して、行方をくらましたことにはじまります。時に又五郎は19歳、源太夫は17歳でした。
 藩主池田忠雄候は、又五郎の行方を探らせたところ、江戸で直参の旗本安藤治左衛門方にかくまわれていることが判明したので、身柄の引き渡しを申し出ましたがこれに応じなかったので事件は大名と旗本との対決へと発展しました。
 源太夫の兄渡辺数馬は、藩主より上意討の免許をあたえられ、大和国郡山藩につかえる姉婿荒木又右衛門に助太刀を頼み又五郎の行方を追い求めて旅立ちました。
 諸国を逃げ回っていた又五郎は、武芸の達人河合甚左衛門、桜井半兵衛らに警護され江戸に下ろうと、寛永11年11月6日には奈良から笠置を越え、その夜、伊賀国島ヶ原に投宿しました。
 これを知った数馬、又右衛門の主従4人は、翌7日、伊賀上野城下西のはずれの鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち伏せていました。
 又五郎の一行11人は人目をはばかるように早朝の宿をたち、鍵屋ノ辻にさしかかったところ、数馬、又右衛門は一行の前に立ちふさがり、仇討の主意を伝え、斬りかかりました。
 又右衛門は、河合甚左衛門、桜井半兵衛とわたりあってこれを討ちとり主勢を崩しましたが、まだ又五郎と数馬の勝負はついていなかったので、かけつけた又右衛門は数馬を叱咤し、激闘のすえ遂に大願を成就しました。検視に立ち合った藤堂藩は、武門の作法にならい数馬、又右衛門の武勇を讃えるとともに、又五郎の霊を懇ろに弔いました。世にこの本懐を『伊賀越鍵屋ノ辻の決闘』とよび芝居などで天下の話題となりました。」(案内板より)

ところで、初夢に見ると縁起が良いものといわれるのが、「一富士、二鷹、三茄子」。
この起源には諸説があるようだが、日本三大仇討ちに関係があるとするものもある。

【一富士は、曾我兄弟の仇討ち】
曾我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのが、源頼朝の富士の巻狩りの時だったことから。

【二鷹は、赤穂浪士の討ち入り】

浅野家の家紋が、「鷹の羽の打違い」であることから。

【三茄子は、伊賀越鍵屋ノ辻の決闘】
名を「成すび」の花が咲く荒木又右衛門の仇討ちからというが、すっきりしない。
かなり強引だ。

強引といえば、こちらも↓

葛飾北斎『富嶽百景 夢の不二』
「一富士、二鷹……」「三茄子」は?
と思ったら、鷹が抱え込んでいる。
さすが北斎!

【三重】 伊賀上野城

2009年10月31日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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天正13年(1585)、筒井定次は、三層の天守を築き、表門を構える。
慶長13年(1608)、筒井定次は改易、藤堂高虎が城主となり、城の大拡張をした。
しかし、竣工直前に五層大天守が暴風雨で倒壊。
その後は豊臣氏が滅亡したため、城普請は中止された。
現在の天守は、昭和10年(1935)、当時衆議院議員であった川崎克氏が私財を投じて再建したもの。
衆議院議員の川崎二郎氏は川崎克氏の孫。


石垣と内堀


天守閣からの風景
ブルーシートのかかったところが筒井城跡。
遥かに見えるのが鈴鹿山脈。

【三重】 松尾芭蕉ゆかりの地

2009年10月28日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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【芭蕉翁生家】

松尾芭蕉は、正保元年(1644)、現在の伊賀市上野赤坂町で生まれた。


芭蕉生家の内部


釣月軒(ちょうげつけん)
生家の裏庭に建っている。
ここで芭蕉は、『貝おほひ』を執筆したのだそうだ。


釣月軒の内部


無名庵跡
無名庵は、伊賀の門人たちが芭蕉に贈るため、生家の裏庭に建てた庵。


【芭蕉翁記念館】

芭蕉翁記念館は、伊賀上野城が聳える上野公園内にある。
企画展「季語を楽しむ」が開かれていた。
芭蕉自筆の短冊や、芭蕉生誕三百年祭記念大会の際に高浜虚子が旧上野市に贈った俳句などが並ぶ。
季語のおもしろみを味わえるのは勿論のこと、短冊や掛軸の美しさも楽しめた。


俳聖殿
同じく上野公園内には、芭蕉の旅姿を表わした聖堂・俳聖殿が建っている。
丸い屋根は旅笠、八角形の廂は袈裟、柱は杖、「俳聖殿」の木額は顔を表わしているのだという。


【蓑虫庵】

芭蕉五庵(蓑虫庵、無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵)のうちで唯一現存しているのが蓑虫庵。
門弟・服部土芳の草庵。
その名は、貞享5年(1688)、庵開きのお祝いに芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」に因む。


古池塚
「古池や蛙飛こむ水の音  はせを」
丸窓は、蕉風開眼を表わす。
蛙の浮き彫りが愛らしい。


みの虫塚
「みの虫の音を聞ばやとこの庵  黄小園」


若菜塚
「卒度往て若菜摘はや鶴の傍  土芳」


なづな塚
「よく見ればなづな花咲く垣ねかな  はせを」


わらじ塚
芭蕉が帰郷の際に脱ぎ捨てた草鞋を、土芳が貰い受けて塚にしたのだという。


芭蕉堂


服部土芳供養墓所

【三重】 関宿

2009年10月24日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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歌川広重 行書版『東海道五十三次 関』


歌川広重 保永堂版『東海道五十三次 関』

関宿は古代から交通の要衝で「伊勢鈴鹿の関」が置かれていた場所。
鈴鹿の関は、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関といわれる。


国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、美しい町並みが保たれている。


【関宿旅籠玉屋歴史資料館】

玉屋
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれていたそうだ。
現在は、旅籠で使われていた道具や美術品などを展示する資料館になっている。


襖に残る宿帳


客室の再現


土蔵
中では、歌川広重の『東海道五十三次』が展示されている。


【関まちなみ資料館】

町屋を公開した資料館。
町屋で使われていた道具などが展示されている。
そのほかに、年代別に町並みの写真を並べて、その変遷を辿ることができるようにもなっている。
町並み保存の努力が伺える。

本陣跡などをいくつか。

鶴屋


伊藤本陣跡
参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した。


会津屋


会津屋の軒下には、こんなに可愛い子たちが!


本陣跡……ではなくて、新聞販売店。


関ロッジ
鈴鹿関跡の位置や規模は分かっていないが、聖武天皇によって整備されたとされる西限の城壁が関ロッジの付近から見付かっている。

【三重】 伊賀亀山城

2009年10月23日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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伊勢亀山城は、別名を粉蝶城という。
文永2年(1265)、若山(現在の亀山市若松町)に関実忠が築城した。
天正18年(1590)、岡本宗憲が入城後、本丸、二の丸、三の丸が新たに築かれ、天守も建てられたという。
その後、明治に至るまで、めまぐるしく城主が代わるが、三宅康信が城主の時のエピソードは強烈だ。
丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊してしまったのだ。
こんなことって……。


天守台の上に建つ多聞櫓


天守台の上から見た石垣


楠門跡
二の丸から本丸に通じる枡形門だった。


三重櫓跡


二の丸帯曲輪跡と土塀


二の丸御殿の礎石


埋門跡

【三重】 大黒屋光太夫ゆかりの地

2009年10月22日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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近鉄・伊勢若松駅前に、大黒屋光太夫の顕彰碑が建っている。
天明2年(1782)、ロシアに漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見し帰国を嘆願し、漂流後、約10年を経て帰国を果たした船頭だ。
大黒屋光太夫は、この辺り(現在の三重県鈴鹿市)の生まれらしい。
小さな町のあちこちで、「ようこそ大黒屋光太夫のふるさと若松へ」という旗がたなびいている。


【大黒屋光太夫記念館】

記念館は、2005年に開館した。
受付には、大黒屋光太夫記念館だより『大光』が置かれていて、おもしろそうなのでいただいてきた。
また、表を参考にロシア語で自分の名前を書いてみよう!なんていうシートもあった。
ロシア文字といえば、寛政6年(1794)、光太夫は、大槻玄沢の塾「芝蘭堂」のおらんだ正月に招かれた際にロシア文字を披露したそうだが、その時の様子を描いた『芝蘭堂新元会図』も展示されている。
ほかには、光太夫のロシア文字墨書『鶴(Цуру)』や『北槎聞略』など。


【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】

記念館のお隣にある心海寺は、磯吉や大黒屋家の菩提寺。


御手洗石
山門を入ってすぐ左手にある御手洗石には、寄進者である大黒屋銀太夫・彦太夫の名前がある。


【大黒屋光太夫らの供養碑】

「天明二年(一七八二)十二月九日、当時の南若松村出身の船頭大黒屋光太夫ら十七名が乗り組んだ神昌丸は、紀州藩の廻米五百石などを積み込み白子港から江戸に向けて出帆した。途中、遠州灘で消息を絶ったので地元では、全員が遭難したものとして、二年後江戸大伝馬町組の長谷川氏が施主となって碑を建立した。」(案内板より部分)


【宝祥寺(小市の供養碑)】

宝祥寺は、小市の菩提寺。
大黒屋光太夫や小市は、この寺の付近で生まれ、幼少時はこの境内で遊んだという。


小市之供養碑
小市は、光太夫、磯吉と共に、ロシアの通商使節に伴われて、寛政4年(1792)に根室へ帰国した。
が、その翌年、小市は本土を踏むことなく病死してしまう。
どんな心境だったろう。
ほんとうに、ほんとうに、安らかに眠ってほしい。


【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】

光太夫らが出帆した白子港。


港には、井上靖による『大黒屋光太夫・讃』(手前の碑)と鈴鹿の彫刻家・三村力の手によるモニュメント『刻の軌跡』が建っている。

【三重】 神戸城

2009年10月21日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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「伊勢平氏の子孫石氏の一族神戸氏は、南北朝時代(十四世紀)飯野寺家の地に沢城を築いたが、戦国時代の一五五〇年には、この地に神戸城を築いて移った。
 神戸氏七代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄十一年(一五六八)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。
 信孝は、天正八年(一五八〇)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄四年(一五九五)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保十七年(一七三二)本多忠統が入国する。
 本多氏の治世は一四〇年間七代忠貫まで続き、明治八年(一八七五)城は解体される。
 その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
  平成十四年三月  鈴鹿市教育委員会」(案内板より)


天守台


土塁


水堀


二の丸跡、三の丸跡は、神戸高校になっている。

【三重】 伊勢上野城跡

2009年10月20日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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井戸跡

「上野城は、元亀元年(一五七〇)織田信長の弟信包が津城の仮城として、この地に築城し、天正八年(一五八〇)津城の完成と共に、信包に代り、分部光嘉が上野城代となり 文禄四年(一五九五)一万石の独立した上野城となって光嘉が城主となった。
 慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦の際 津城主富田信高をたすけ、その功によって所領二万石となったが、元和五年(一六一九)城主分部光信は江州大溝藩へ移封となって、上野藩は廃藩となった。
 この城は、標高三〇米の大地に土畳ねかさみで構えたものであって現在 跡といわれる台状地があり、その北隅にさらに高い櫓状の台状地がある。この東側の畑と山林が二の丸といわれ 本丸、二の丸を囲む、南、北、西の平坦地は、家中の侍屋敷が立ち並んでいたという。
 本丸の一角に本城松という、一大松樹があって 海上を航行する船々漁民のめじるしとして尊重されていた。」(案内板より)


上野城の遺構(案内板より)
錆びて読み辛くなっているが、中央の文字は「本丸」、下の方に書かれているのは「二の丸跡」。


展望台
現在、城跡は、本城山青少年公園になっている。

【三重】 津城

2009年10月19日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
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三重櫓

「津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が寛政し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
 慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が『回』の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる城の形である。
 城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りをしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。」(案内板より)


本丸跡は公園になっている。
うるさいくらいに蝉が鳴いていた。


本丸跡に建っている藤堂高虎の銅像


高山公遺訓
高山公とは、藤堂高虎のこと。
「可為士者常之覚悟之事
 寝屋を出るより
 其日を死番と可心得
 かやうに覚悟を極めるゆへに
 物に動ずる事なし
 是可為本意」


西の丸跡は、日本庭園になっている。


入徳門
文政3年(1820)にできた藩校「有造館」の正門。
西の丸跡に移築されている。


内堀