大倉草紙

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【大阪】 適塾・中天游邸跡

2009年03月02日 20時00分00秒 | 旅 - 大阪府
9月21日(日)
当日の行程:(近鉄・八戸ノ里駅) → 【『街道をゆく』―司馬遼太郎が歩いた東京(司馬遼太郎記念館)】 → (近鉄・八戸ノ里駅~大阪市営地下鉄・心斎橋駅) → 【ターシャ・テューダー展(大丸ミュージアム・心斎橋)】 → (大阪市営地下鉄・心斎橋駅~淀屋橋駅) → 【適塾】 → 【中天游邸跡】



適塾へ行く。
この建物は、国の重要文化財に指定されているのだという。


書斎。
奥にある机は、緒方洪庵が使用したと伝えられる薬品調合台。


相撲、ではなくて、大坂町医者番付表。
年によって変化があるが、嘉永元年に緒方洪庵は大関になっている。


2階への階段は、急。
これは、階段を横から見たところ。
よじ登る。


『ターヘル・アナトミア』の訳本。


ヅーフ辞書(ヅーフ・ハルマ)は、長崎の蘭館長・ヅーフがハルマ著の蘭日辞書をもとに文化13年(1816)に作った辞書。
適塾2階の大部屋(塾生部屋)の隣には、ヅーフ辞書を備えたヅーフ部屋があったそうだ。
一揃えしかなかったため、手に取るのも容易でなかったらしい。
また、諸藩の大名からの依頼でヅーフ辞書の写本を作ることもあり、それは、塾生たちのアルバイトとなっていたようだ。


適塾には、内塾生(適塾で生活している塾生)と外塾生(外から通ってくる塾生)を合わせて、常時100人を超える塾生がいたという。
橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介等々、皆、適塾出身者だ。
ここは塾生の大部屋。
中央の柱には、塾生が羽目をはずした時にできたという刀傷がある。


適塾の隣にある公園には、緒方洪庵の像がある。



適塾より一筋南の通りには、緒方ビルが建っている。
ここは、「除痘館の跡」である。
緒方洪庵は、天然痘予防のため、嘉永2年(1849)に古手町に種痘所を作り、万延元年(1862)にはそれをこの場所へ移している。



中天游(なかてんゆう)邸跡は、西区京町堀2丁目にある。
適塾から少し離れているけれど、とぼとぼ歩いて行ってみた。

「中天游邸跡
 中天游は江戸時代に大阪で活躍した医師・蘭学者です。天游は別名で、本名は環(たまき)といい、耕助、融とも名のりました。天明三年(一七八三)に丹後に生まれ、文化二年(一八〇五)に江戸に出て、大槻玄沢・稲村三泊に蘭学を学び、文化六年には京都で、海上随鴎の塾に入って蘭学を学びました。大阪にやってきたのは文化十四年ごろで、はじめは靭本町、次に江戸堀で開業しました。その後、当時は坂本町と呼ばれたこのあたりに移り、天保六年(一八三五)に亡くなるまで住んでいました。
 著述や翻訳も多く、中でも『視学一歩』という本は、眼のしくみについて書いた日本で最初のものです。医者の仕事は妻のさだにまかせ、天游は思々斎塾(ししさいじゅく)という学塾を開き、いろいろな学問をひろめました。弟子の中には、幕末に活躍した有名な医師の緒方洪庵がいます。  大阪市教育委員会」