大倉草紙

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【滋賀】 井伊直憲公顕彰碑

2010年03月25日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2009年2月15日(日)


(滋賀県彦根市古沢町)
「井伊直憲は、大老直弼の嫡子である。蔓延元年(一八六〇)桜田門外の変で父直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠一三才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は従前どおり幕府譜代大名の筆頭の家格をもって、三十五万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁の際は、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。
 その後、幕府の大政奉還により、藩の去就を決するに当たり、藩是であった『勤王の大義』に徹するという直憲の決意により、官軍に属することと決定した。これにより、徳川四天王の流れを汲む彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につく事に決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力、決断力は、まさに大老直弼の『開国の決断』にも比すべきものがある。
 しかし彦根藩は、幕府の厳しい処遇を受けるなど危機的な状況にあった。その後、天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第二次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津までも出兵し、多大の戦功を挙げた。藩籍奉還後は、彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び今日ある彦根の文化、教育、産業復興の確固たる基礎を確立した。
 大老直弼は『日本の夜明け』を開いた開国の恩人であり、その息直憲は、まさに『彦根の夜明け』を開いた郷土の恩人、英雄と称すべきであろう。
 直憲の死後、その功績を偲び、彦根町、犬上郡、大阪市などの有志による基金をもって佐和山神社参道に公の『えい髪塚』を建立した。戦後は時世の変化や周辺樹木の繁茂するにまかせ、市民にほとんど知られることなく、道なき山中に人知れず孤高を保っていた。
 幕末・維新を通じて、苦難の道を歩み続けた直憲公の存在と功績が、再認識されることをこい願い、このたび多くの有志の浄財を得て、『井伊直憲公顕彰碑』として由緒深い井伊神社の地に移設した。
  平成十五年六月  井伊直憲公顕彰会」(案内板より)

井伊神社に関しては、こちら

【滋賀】 多羅尾陣屋跡

2009年11月03日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


「多羅尾代官は、寛永15年(1638)に多羅尾光好が代官に任命され、信楽の多羅尾村にある代官信楽陣屋という近畿地方の天領を治めるための役所を設けたことに始まり、明治維新まで200年以上世襲代官として続きました。
 この陣屋を『多羅尾代官所』・『信楽御役所』と呼び、歴代の代官は近江・伊勢・播磨国を中心に5~6万石を治めていました。
 代官陣屋の敷地は個人の住宅です。
 無断で立ち入ることはかたく禁じます。  甲賀市教育委員会」(案内板より)

よくあることなのだけれど、カーナビに「多羅尾陣屋跡」と表示されているのを見て、行ってみたくなった。
甲賀市信楽町多良尾、山の間に長閑な田園風景が広がる。
これまたよくあることなのだけれど、「目的地周辺です 音声案内を終了します」とカーナビ。
親切な方々が行き方を教えて下さった。
けれど、目印の少ない道は、説明をする側にとっても受ける側にとっても厄介なもので、互いのイメージの擦り合わせがなかなかできず、やっとのことで辿り着いた。
現在も住宅として使用されているようで、見学や敷地内に入ることはできない。

【滋賀】 長浜鉄道スクエアと黒壁スクエア

2009年08月20日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
3月8日(日)
当日の行程:(車) → 【賤ヶ岳】【黒田家舊縁之地】【渡岸寺観音堂(向源寺)】 → 【高月町立観音の里歴史民俗資料館】【小谷城戦国歴史資料館】 → 【浅井歴史民俗資料館】【竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)】【長浜盆梅展(慶雲館)】【長浜鉄道スクエア】 → 【黒壁スクエア】

【長浜鉄道スクエア】

旧長浜駅舎は、明治15年(1882)に完成した。
現存する日本最古の駅舎なのだそうだ。
長浜~敦賀間の鉄道の敷設は、日本で3番目に古いのだという。


旧長浜駅のポイント
駅舎の前には、旧長浜駅29号分岐器ポイント部が置かれている。
これは、明治32年(1899)まで使われていたものなのだそうだ。

長浜鉄道スクエアは、「旧長浜駅舎」、「長浜鉄道文化館」、「北陸線電化記念館」の3つから成る。
「旧長浜駅舎」は、当時の様子が再現されていて、興味深かった。
「長浜鉄道文化館」では、館内を鉄道模型が走っていて、それを子どもたちが楽しそうに追いかけていた。
訪れた時には、ジョルジュ・ビゴー展も開かれていた。
パネルに印刷した複製ではあったが、教科書に載っているよく知られた風刺画から、初めて見る作品まで、かなりの数だ。
「北陸線電化記念館」には、D51形蒸気機関車と日本で唯一現存しているED70形の電気機関車がある。
実際に乗ってみることもできる。
もちろん、動くことはないが。


【黒壁スクエア】

北国街道


黒壁ガラス館
「札の辻」と呼ばれる北国街道と大手門通りとの交差点に、明治33年(1900)、国立第百三十銀行長浜支店が建てられた。
その壁の色から、「黒壁銀行」と呼ばれていたそうだ。
現在、その建物は、黒壁ガラス館になっている。
この辺りのガラスの小物屋さんを何軒かのぞいてみた。
桃の節句が過ぎた頃だったが、ガラスの雛人形を置いてあるお店が多い。
こんな飾り方もあるのか、と勉強になったけれど、帰宅後の我が家に何ら変化なし。

【滋賀】 竹生島 (宝厳寺・都久夫須麻神社) 

2009年08月19日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
3月8日(日)
当日の行程:(車) → 【賤ヶ岳】【黒田家舊縁之地】【渡岸寺観音堂(向源寺)】 → 【高月町立観音の里歴史民俗資料館】【小谷城戦国歴史資料館】 → 【浅井歴史民俗資料館】【竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)】【長浜盆梅展(慶雲館)】【長浜鉄道スクエア】 → 【黒壁スクエア】


長浜港から琵琶湖汽船に乗って竹生島へ。
竹生島の周囲は約2キロメートル。
帰りの船が出るまでの約80分で、十分見て周ることができる。


竹生島港
港のそばにある土産物屋で、うどんを食べる。
冬場は日に2便しかない船に急いで乗ったので、昼食をとっていなかったのだ。

【宝厳寺】
宝厳寺は、神亀元年(724)に行基が開いたといわれる。


祈りの階段は165段。
のぼった先に、本堂(弁財天堂)がある。


本堂(弁財天堂)


五重石塔(重要文化財)
石材は、比叡山中から採掘される小松石。
五重石塔で重要文化財に指定されているのは、全国で7基しかないそうだ。


モチの木
樹齢約400年。
片桐且元が国宝観音堂の普請奉行として竹生島を訪れた際に手植えしたものと伝えられる。


三重塔


唐門(国宝)
豊臣秀吉の遺命で、秀頼が豊国廟から移築したもの。
この奥に観音堂がある。


舟廊下


舟廊下の天井
豊臣秀吉の御座船「日本丸」の船櫓が使われている。
この廊下の向こうに、都久夫須麻神社がある。


宝厳寺の御朱印


【都久夫須麻神社】

本殿(国宝)
「都久夫須麻」と書いて、「つくぶすま」と読む。
竹生島の古名だといわれる。
明治時代、神仏分離の前までは、宝厳寺と一体だった。
本殿は、伏見城の遺構と伝わる。


竜神拝所
本殿と向かい合わせに竜神拝所が建っている。


拝所には、阿吽の竜が祀られている。
かなりリアル。
蛇は苦手なので、爪の先で一瞬触れるのがやっと。


拝所からは、鳥居が見える。
私はやらなかったけれど、この鳥居に向かってかわらけを投げるのだそうだ。


都久夫須麻神社の御朱印

帰りの船には、うどんを食べた土産物屋の人たちも乗っていた。
竹生島は、無人島。
お寺や神社の方も、土産物屋さんも、島まで船で通っているのだそうだ。
帰りの船は最終便。
人数確認をしている様子はなかったけれど、島に取り残されちゃった人はいないのだろうか?

【滋賀】 渡岸寺観音堂(向源寺)

2009年08月16日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
3月8日(日)
当日の行程:(車) → 【賤ヶ岳】【黒田家舊縁之地】【渡岸寺観音堂(向源寺)】 → 【高月町立観音の里歴史民俗資料館】【小谷城戦国歴史資料館】 → 【浅井歴史民俗資料館】【竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)】【長浜盆梅展(慶雲館)】【長浜鉄道スクエア】 → 【黒壁スクエア】

【渡岸寺観音堂(向源寺)】

聖武天皇の天平8年(736)、疱瘡による死者が相次ぎ、天皇は僧・泰澄に除災の祈祷を命じた。
泰澄は十一面観音を彫み、祈祷したという。
以来、この十一面観音像は敬仰され、延暦20年(801)には、最澄によって七堂伽藍が建立された。


御尊像埋伏地
「元亀元年(一五七〇年)浅井・朝倉氏と織田信長が姉川で戦った時、近隣の堂宇民家はことごとく兵火によって焼き払われた。
 とくに天台寺院は信長の敵視するところとなり焼き討ちを受けることが多かった。当寺は一向宗に転宗していたが兵燹に罹り焼かれようとするとき住僧巧圓は門信徒とともに命がけで観音像をはじめ多くの仏像をこの地に埋めて災禍を逃れたと伝えられる。  渡岸寺観音堂」(案内板より)


渡岸寺観音堂


慈雲閣
十一面観音堂はこちらに納められている。
肉感的な観音様だ。


渡岸寺観音堂の御朱印


【高月町立観音の里歴史民俗資料館】

すぐ近くには、高月町立観音の里歴史民俗資料館がある。
高月町のある湖北地方は、観音像が多いのだそうだ。
館内には、観音像に関する展示のほか、北近江雨森村(現・高月市雨森)に生まれ、対馬藩に仕えて日朝外交に貢献した儒者・雨森芳洲にまつわる展示もあった。

【滋賀】 黒田家舊縁之地

2009年08月15日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
3月8日(日)
当日の行程:(車) → 【賤ヶ岳】【黒田家舊縁之地】【渡岸寺観音堂(向源寺)】 → 【高月町立観音の里歴史民俗資料館】【小谷城戦国歴史資料館】 → 【浅井歴史民俗資料館】【竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)】【長浜盆梅展(慶雲館)】【長浜鉄道スクエア】 → 【黒壁スクエア】

賤ヶ岳に登った後、黒田官兵衛の祖先の墓がこの辺りにあったはずだと思い出し、「黒田」という地名をたよりに探してみる。
黒田集会所(伊香郡木之本町黒田)に、黒田氏始祖・源宗清の墓があった。
備前邑久(おく)郡福岡村に移り住むまでの約200年間、6代にわたって、この地に住んでいたのだという。


右側に見えるのが源宗清の墓。

「筑前・福岡五十二萬石・黒田藩の始祖は、当地の御廟に祀られている佐々木源氏(近江源氏)の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)公であり、この地・近江国伊香郡(木之本町)黒田村に住み、湖北の荘園の領主として、黒田判官と称した。(以下略)」(案内板より)

【滋賀】 賤ケ岳

2009年08月14日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
3月8日(日)
当日の行程:(車) → 【賤ヶ岳】【黒田家舊縁之地】【渡岸寺観音堂(向源寺)】 → 【高月町立観音の里歴史民俗資料館】 【小谷城戦国歴史資料館】 → 【浅井歴史民俗資料館】【竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)】【長浜盆梅展(慶雲館)】【長浜鉄道スクエア】 → 【黒壁スクエア】

前日は、尾上温泉にある宿に泊まる。
部屋に付いている露天風呂の目の前には、琵琶湖が広がっている。
お食事もおいしく、ゆっくりと贅沢な時間を過ごすことができた。
翌日は朝から賤ヶ岳へ。


賤ヶ岳登山道入口


リフトもあるが、営業は4月から。
標高は421メートルなので、歩いて登っても30分強で山頂に着く。
リフトの営業がない時期は訪れる人も少ないのか、道中、誰にも出会わなかった。


賤ヶ岳合戦々没者霊地


山頂には、「史跡賤ヶ岳」の碑が建っている。


武将の像

「賤ヶ岳合戦図」があり、風景と見比べながらあれこれ想像をめぐらす。
秀吉は、大垣から木之本までの約50キロ余りの道のりを、約5時間で駆けつけたというのだから、すごいものだ。


羽衣伝説で有名な余呉湖


琵琶湖
小さく、竹生島も見える。

【滋賀】 小谷城跡

2009年08月07日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】


小谷城跡に行くのは2度目だ。
前回訪れた時は大雨が降ってきたし、「熊出没注意」の看板におびえてすぐに引き返した。
今回は、ゆっくりと見たかったのだが、夕暮れ時だったので急ぎ足で。


金吾丸跡
大永5年(1525)、六角定頼が攻めてきた時に、越前から来援した朝倉教景が陣所とした場所。


番所跡


御茶屋跡


馬洗池


首据石
その名の通り、この石の上に罪人の首をさらしたそうだ。


桜馬場


浅井氏及家臣供養塔


大広間跡
約35アールの広さだという。
奥の方に見える小高い丘のようなところが本丸跡である。


本丸跡


赤尾屋敷跡
ここで、天正元年(1573)8月28日、浅井長政が自刃した。


浅井長政公自刃之地


小谷城のすぐ近くに、片桐且元の里といわれる須賀谷がある。
道に迷って、偶然に見つけた。

片桐且元の父・片桐孫右衛門の墓


片桐且元公頌徳碑

【滋賀】 佐和山城跡とその周辺

2009年08月06日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】

【龍潭寺】

龍潭寺は、天平5年(734)、行基によって井伊家出身地の遠州・井伊谷に開かれた。
現在の龍潭寺は、そのお寺を初代藩主直政が移築したもの。


石田三成の像


山門


鐘楼


大洞観音堂


龍潭寺の御朱印


【佐和山城跡】
「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われた佐和山城へ、わくわくしながら向かう。


佐和山城跡へは、御住職の許可を得て、龍潭寺の奥から入った。
写真のような墓地の間の道を抜けて行く。


本丸跡がある山頂までは232メートル。
ここは、登り始めてすぐの分岐点。
本丸跡は右手に進む。


塩硝櫓跡入口


本丸跡


佐和山城本丸跡の碑


本丸跡からの風景


遠くにぼんやりと彦根城が見える。


【清涼寺】

清涼寺は、佐和山城跡の西麓にある井伊家の菩提寺。
島左近の屋敷がここにあった。


写真のタブの木は、島左近がここに住んでいた頃からあるという。
島左近も、この木を見ていたんだなあ、と感慨深い。


【井伊神社】

天保13年(1842)、井伊直亮の創立による。
井伊家の始祖が祀られている。


境内は、手入れされているとは言い難い。
社殿には覆いがあったが、工事中なのか?


「木村長門守ゆかりの血染めのすすき
 慶長二年(一六一五)大阪夏の陣に、徳川軍先鋒を命ぜられた井伊直孝は、二代藩主直勝に代って五月六日払暁大阪城を遥かに望む玉串川(現大和川)の若江堤に陣をすすめた。
 早朝からの合戦に多くの兵を失った豊臣方の名将、木村長門守重成(槍の名手)は、若干二四歳の若武者であったが、大阪城もこれまでと、直孝の本陣に最後の突撃を敢行した。
 この時、彦根藩士安藤長三郎は、重成の首級を挙げたが、香を焚くきしめた兜をつけた姿に、敵将ながらその死を悼み、若江堤に繁るすすきに包んで持ち帰り、安藤家の菩提寺宗安寺に手厚く葬り、すすきは佐和山神社(井伊家祖霊社)の社前に『重成血染めのすすき』として植えられた。その後同神社は井伊神社に合祀されたので、縁りの宗安寺に移植されたが、今度株分けを受けて再び井伊神社に昔日の面影を偲ぶこととなった。
 平成十年三月  たちばな会 記」(案内板より)

2月だったのですすきは枯れていたのは残念。

【滋賀】 観音寺城跡

2009年08月05日 21時00分00秒 | 旅 - 滋賀県
2月15日(日)
当日の行程:(車) → 【恭仁京跡(山城国分寺跡)】【陶器神社】 → 【信楽古陶館】 → 【紫香楽宮跡】【水口岡山城跡】【安土城郭資料館】 → 【セミナリヨ跡】 → 【安土城考古博物館】 → 【安土城天主信長の館】【観音正寺】【観音寺城跡】【龍潭寺】 → 【佐和山城跡】 → 【清涼寺】 → 【井伊神社】【小谷城跡】


きぬがさ山トンネル近くの六角定頼像
「近江源氏・六角定頼像(明応4~天文21/1495~1552)
 近江の国、蒲生郡と神崎郡にまたがる観音寺山一帯にあった日本中世城郭を代表する山城・観音寺城の城主。六角氏は、鎌倉時代から近江国守護職を伝える由緒ある家柄で、近江源氏の名門・佐々木氏の惣領家であった。
 六角定頼が活躍したのは、大永~天文期(1521~1555)の戦乱の世。天文15年(1546)には、『流れ公方』ろ呼ばれた十代将軍足利義稙の近侍として活躍し、のち観音寺山西側に位置する桑実寺(安土町)に仮幕府を構えた十二代将軍義晴を援助した功によって、管領に準ずる待遇を受けた。また、十二代将軍義晴・十三代将軍義輝を擁して再三上洛し、畿内の政争にも関与。近江国内では、当時北近江で勢力を伸ばしていた京極・浅井氏をおさえ、戦国大名・六角氏としての盛期を築き上げた。」(案内板より)

「観音寺城跡
 観音寺城は、近江の守護佐々木六角氏の本城であって中世の代表的な大山城である。築城は永い年月を経て応仁二年(1468)に完成しさらに弘治年間鉄砲に備へて大々的に石塁が改修されている。永禄十一年九月織田は当城に入城したが城は元のまゝ残し、佐々木氏に守らせたが天正十年安土城とともに滅亡した。昭和44・45年近江風土記の丘の関連として本丸付近を整備し発掘調査し当時の遺物や遺構が発見された。なを全山いたるところに昔を偲ぶ遺構が数多く残っている。」(案内板より)


大手石階段


石垣


本丸跡


食い違い虎口跡

観音寺城の規模は大きいものの、防御施設はほとんどなく、有事に際しては城で戦うことはなかったという。
そうえいば、昔やった「信長の野望」の観音寺城は守りにくかったのを思い出した。