2009年2月15日(日)
(滋賀県彦根市古沢町)
「井伊直憲は、大老直弼の嫡子である。蔓延元年(一八六〇)桜田門外の変で父直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠一三才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は従前どおり幕府譜代大名の筆頭の家格をもって、三十五万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁の際は、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。
その後、幕府の大政奉還により、藩の去就を決するに当たり、藩是であった『勤王の大義』に徹するという直憲の決意により、官軍に属することと決定した。これにより、徳川四天王の流れを汲む彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につく事に決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力、決断力は、まさに大老直弼の『開国の決断』にも比すべきものがある。
しかし彦根藩は、幕府の厳しい処遇を受けるなど危機的な状況にあった。その後、天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第二次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津までも出兵し、多大の戦功を挙げた。藩籍奉還後は、彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び今日ある彦根の文化、教育、産業復興の確固たる基礎を確立した。
大老直弼は『日本の夜明け』を開いた開国の恩人であり、その息直憲は、まさに『彦根の夜明け』を開いた郷土の恩人、英雄と称すべきであろう。
直憲の死後、その功績を偲び、彦根町、犬上郡、大阪市などの有志による基金をもって佐和山神社参道に公の『えい髪塚』を建立した。戦後は時世の変化や周辺樹木の繁茂するにまかせ、市民にほとんど知られることなく、道なき山中に人知れず孤高を保っていた。
幕末・維新を通じて、苦難の道を歩み続けた直憲公の存在と功績が、再認識されることをこい願い、このたび多くの有志の浄財を得て、『井伊直憲公顕彰碑』として由緒深い井伊神社の地に移設した。
平成十五年六月 井伊直憲公顕彰会」(案内板より)
井伊神社に関しては、こちら。
(滋賀県彦根市古沢町)
「井伊直憲は、大老直弼の嫡子である。蔓延元年(一八六〇)桜田門外の変で父直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠一三才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は従前どおり幕府譜代大名の筆頭の家格をもって、三十五万石を領し、京都守護の任にあたり、和宮降嫁の際は、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。
その後、幕府の大政奉還により、藩の去就を決するに当たり、藩是であった『勤王の大義』に徹するという直憲の決意により、官軍に属することと決定した。これにより、徳川四天王の流れを汲む彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につく事に決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力、決断力は、まさに大老直弼の『開国の決断』にも比すべきものがある。
しかし彦根藩は、幕府の厳しい処遇を受けるなど危機的な状況にあった。その後、天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第二次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津までも出兵し、多大の戦功を挙げた。藩籍奉還後は、彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び今日ある彦根の文化、教育、産業復興の確固たる基礎を確立した。
大老直弼は『日本の夜明け』を開いた開国の恩人であり、その息直憲は、まさに『彦根の夜明け』を開いた郷土の恩人、英雄と称すべきであろう。
直憲の死後、その功績を偲び、彦根町、犬上郡、大阪市などの有志による基金をもって佐和山神社参道に公の『えい髪塚』を建立した。戦後は時世の変化や周辺樹木の繁茂するにまかせ、市民にほとんど知られることなく、道なき山中に人知れず孤高を保っていた。
幕末・維新を通じて、苦難の道を歩み続けた直憲公の存在と功績が、再認識されることをこい願い、このたび多くの有志の浄財を得て、『井伊直憲公顕彰碑』として由緒深い井伊神社の地に移設した。
平成十五年六月 井伊直憲公顕彰会」(案内板より)
井伊神社に関しては、こちら。