大倉草紙

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【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その5

2011年02月28日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

5日目(南栗橋~古河)その4の続き


(16:26)
本陣跡をさがしていたら目に入ってきた「居酒屋本陣」。
でもここは本陣跡ではない。


(16:27)
永井路子旧宅
幼少時に住んでいた家だという。


(16:28)
古河街角美術館


(16:28)
古河街角美術館の脇の通りは美しい。


(16:29)
古河篆刻美術館は、日本で初めての篆刻専門の美術館。
建物は、大正9年に建てられた石蔵を改修したもの。
古河は、博物館や美術館が多いなあ。


(16:34)
さてさてこちらは何でしょう?
ここが、古河城下本陣跡
「マージャン」や「キャバクラ」といった文字を目にし、残念だなあ、と思う。


(16:37)
日光街道古河宿道標は、文久元年(1861)に建てられた。
常夜灯型式の道標。


(16:43)
高札場跡


(16:48)
古河駅西口にある万葉の歌碑
万葉集には、古河(許我)の地名が入った歌が2首あるそうだ。
「まくらがの 許我の渡りの からかじの
       音高しもな 寝なへ児ゆえに」
「逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの
       許我こぐ船に 君も逢はぬかも」


(16:47)
夕方5時近くになると、暗くなってくる。
この日はここまでで、古河駅から帰る。

つづく


【東京・港区】 天一ポウ (六本木ヒルズ)

2011年02月26日 21時00分00秒 | 
2月13日(日)


天一ポウの「ポウ」は、「保」の下に「火」と書く。
映画を観る前に、お昼を食べようと入ったお店。


海鮮五目あんかけ土鍋ご飯が気になりつつも、注文したのは、鶏ネギ土鍋麺。
あっさりしていて美味しい。
夫は黒ごま坦々麺を注文したが、こちらもなかなかのお味。


しみだれ豚まん、それから杏仁豆腐も付いてくる。
しみだれ豚まんは、ジューシーさに欠け、それほど美味しいとは思えなかった。

【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その4

2011年02月25日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

5日目(南栗橋~古河)その3の続き


(15:17)
江戸時代、この通りのある中田町は中田の松原と呼ばれていた。
古河の原町入口までの約1里に渡って、松並木が続いていたのだという。
平成6年より3年かけて日光街道松並木の復元工事が実施され、現在は、新しく植えられた黒松71本を見ることができる。


(15:56)
茨城県立古河第二高等学校。


(15:53)
古河第二高等学校の校庭には、古河の一里塚跡がある。


(15:53)
一里塚跡のそばには、このような碑が建っていた。
「贈正四位 熊澤蕃山先生墓所 勝鹿村大堤鮭延寺墓地 右へ約五町踏切ヲ越シテ又右ヘ 紀元二千六百年九月十八日 先生二百五十年祭 爲記念 茨城県立古河高等女学校同窓会 木村伊之助」と刻まれている。
墓所の鮭延寺(古河市大堤1030-1)への案内か。


(16:08)
足下を見ると、凝ったデザインのマンホールが。


(16:10)
古河城御茶屋口門址
御茶屋口門は、歴代徳川将軍の日光社参の折、古河城内への入城に利用された門。
将軍をもてなすための茶屋があったことからこの名が付けられたという。


(16:13)
この奥に、古河文学館がある。


(16:14)
こちらの素敵な建物は、鷹見泉石記念館
鷹見泉石は藩主土井利位に仕えた古河藩士で、「大塩平八郎の乱」の鎮圧をした。
記念館の建物は古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、晩年の鷹見泉石はここで蘭学に没頭したという。


(16:15)
鷹見泉石記念館の前に、古河歴史博物館がある。


(16:16)
古河歴史博物館は、古河城の諏訪曲輪(出城)跡地に建っている。
敷地内には、古河城出城諏訪曲輪跡の碑がある。
空調と照明工事のため、博物館は2月末まで休館である。
ほかの博物館や資料館なども、年末年始は休みなので、せっかく訪れたのに見ることができずに残念だ。

つづく

【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その3

2011年02月24日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

5日目(南栗橋~古河)その2の続き


(14:34)
利根川が見えてきた。


(14:37)
やっとここまで来たか。
でも、これから先、まだまだ長い。


(14:38)
川を渡る途中で、茨城県古河市に入る。


(14:47)
利根川を渡り、すぐ左手の細い道を入っていく。
すぐに、房川渡(ぼうせんのわたし)と中田関所跡の案内板がある。
案内板の文字は消えかけていて読み辛いが、それによれば、この場所と対岸の栗橋の間の流れの部分を「房川」と呼んだそうだ。
渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といっていたという。
関所は、明治2年(1869)に廃止されたが、二艘の渡し船と五艘の茶船の渡船場は、大正13年(1924)に利根川橋が完成するまで使われていたそうだ。


(14:50)
前方に、火の見櫓が見えてくる。
そのすぐそばに、中田宿の案内板がある。
「江戸時代の中田宿は、現在の利根川の橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を一五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保十四年(一八四三)の調査では、栗橋宿四〇軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。
  平成十九年一月   古河市教育委員会」(案内板より)


(14:55)
左手に見える鶴峯八幡神社は、奥州征伐の際にこの地に立ち寄った源頼朝が戦勝を祈願したところ武運が開け、相模国鶴岡八幡宮の御分霊を上伊坂(現・中田)に勧請したのが始まりといわれる。
また、新田義貞も北条高時追討の戦勝祈願をしたと伝わっている。


(14:56)
鶴峯八幡神社の並びにあるのが、光了寺
かつては栗橋宿にあり、「光柳寺」と称していた。
栗橋に静御前の墓があったが、その亡骸は光柳寺に葬られたと伝わる。
光了寺には、静御前が後鳥羽上皇から賜った「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」、「義経かたみの懐剣」が所蔵されている。


(14:57)
光了寺の境内には、芭蕉の句碑が建っている。
「いかめしき 音や霰の ひのき笠」

つづく

【東京】 明治神宮外苑学生自転車クリテリウム大会

2011年02月20日 21時00分00秒 | スポーツ観戦

神宮外苑に行ったら、交通規制が敷かれていた。
クリテリウム大会?
自転車競技が行われるらしい。




猛スピードで走って行く。
あっという間にコースを一周して戻ってくる。
何台もの自転車がかたまって走っているが、よく接触しないものだ。

帰宅後調べたら、自転車競技の歴史は古く、1896年にアテネで行われた第1回近代オリンピックから正式種目として採用されているとのこと。 

【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その2

2011年02月19日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

5日目(南栗橋~古河)その1の続き


(13:29)
顕正寺には、池田鴨之助の墓がある。
新編武蔵風土記稿によると、池田鴨之助はのちの栗橋宿となる上河辺新田を開墾に尽力した人物。
本陣役も務めていた。


(13:52)
栗橋駅の近くの公園に、静御前の墓がある。
静御前は義経の奥州下向のあとを追っていたが、途中で義経の打死を知り、引き返した。
そして、ここ久喜市伊坂まで来たとき、病に斃れたという。


(13:56)
栗橋駅の前を通り、本陣跡をさがすが、なかなか見つからない。
この辺りの道は平行に走っていなくて、方向を見定めるのが難しい。


(14:18)
本陣跡
表札は、「池田」さん。
池田鴨之助の末裔が住んでいるのだろう。
新田開発のために、池田鴨之助と並木五良平らと共に下総国栗橋村から移り住んだ民家は、わずか45戸であったという。


(14:18)
本陣と道路を挟んで反対側に脇本陣があったというが、目印のようなものは何もない。
この新聞販売店の辺りだろうか?


(14:20)
利根川の土手近くに、栗橋関所跡の碑が建っている。
栗橋関所は、「房川渡中田・関所」と呼ばれていて、東海道の箱根、中山道の碓井と並ぶ重要な関所であったそうだ。
関所は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあったという。


(14:22)
栗橋関所跡の碑が建っている場所から鳥居が見える。
八坂神社だ。


(14:23)
元日なので、参拝者で混雑している。
こちらの神社には、狛犬ではなく狛鯉が。


(14:27)
神社の脇道を奥の方へ入っていくと、関所番士屋敷跡がある。
関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住まいとして江戸幕府が設けたもの。
関所番士は四人いて、二人一組で仕事をした。
維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家。
この関所番士屋敷跡は、足立家である。

つづく