大倉草紙

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【大阪】 有岡城跡

2009年03月08日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
11月19日(水)
本日の行程:(大阪市営地下鉄・淀屋橋駅) → 【酒器に酔う-東アジアの酒文化(大阪市立東洋陶磁美術館)】 → (大阪市営地下鉄・淀屋橋駅~梅田駅…阪急・梅田駅~伊丹駅) → 【旧岡田家住宅、旧石橋家住宅(伊丹市立伊丹郷町館)】 → 【2008伊丹国際クラフト展[酒器・酒盃台](伊丹市立工芸センター)】 → 【生誕200年記念ドーミエ★人間喜劇(伊丹市立美術館)】 → 【柿衞文庫小企画展 山陽の柿・子規の柿(柿衞文庫)】 → 【向井潤吉展-風土をみつめる旅-(伊丹市立美術館)】【有岡城跡】


有岡城跡は、JR伊丹駅前にある。
現在残っているのは、発掘調査で出土した石垣、土塁、礎石、井戸跡。

「国指定史跡 有岡城跡
 昭和五十四年十二月十八日指定
 伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
 伊丹氏の城は、天正二年(一五七四)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
 有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北一.六キロメートル・東西八〇〇メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
 謀叛を起した村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。
 天正八年、池田之助が城主となるが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
 明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。
 昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
 平成四年三月 伊丹市教育委員会」


土塁


石垣


礎石建物跡


井戸跡


懐古園の碑
「懐古園 碑文の概要(意訳)
 この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その遺志を継ぎ、時機が来るのを待った。この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛・六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から三百三十年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て、祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以て冥すべきである。
 明治三十四年九月二十四日 七十五翁 北山撰ならびに書」


荒木村重・たしの歌碑
「   あらきたし
 霜かれに残りて我は八重むくら
 なにはのうらのそこのみくつに

    荒木村重
 思いきやあまのかり橋ふみならし
 なにはの花の夢ならむとは

 信長公記より  鈴木充書」

江戸時代の絵師・岩佐又兵衛は、有岡城主荒木村重の子。
有岡城が落城したとき、又兵衛は数え年で2歳。
乳母とともに城を逃れたのだという。
又兵衛の母は、次のような辞世の句を残している。
「残しおくそのみどり子の心こそ
思ひやられてかなしかりけり」

伝岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」(重要文化財)