大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【三重】 伊賀上野城

2009年10月31日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


天正13年(1585)、筒井定次は、三層の天守を築き、表門を構える。
慶長13年(1608)、筒井定次は改易、藤堂高虎が城主となり、城の大拡張をした。
しかし、竣工直前に五層大天守が暴風雨で倒壊。
その後は豊臣氏が滅亡したため、城普請は中止された。
現在の天守は、昭和10年(1935)、当時衆議院議員であった川崎克氏が私財を投じて再建したもの。
衆議院議員の川崎二郎氏は川崎克氏の孫。


石垣と内堀


天守閣からの風景
ブルーシートのかかったところが筒井城跡。
遥かに見えるのが鈴鹿山脈。

【東京】 特別展 菱田春草〈前期〉 (明治神宮文化館 宝物展示室)

2009年10月30日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
10月28日(水)
当日の行程:(千代田線・明治神宮前駅) → 【特別展 菱田春草〈前期〉(明治神宮文化館 宝物展示室)】【明治神宮】


前期の展示は10月29日まで。
だから、明治神宮前駅を通ったとき、今日行くしかない、と地下鉄を降りた。
書簡や兄の菱田為吉の多面体などを含めた33点の展示。
決して作品数は多くないのだが、その分ゆっくり観ることができたのはよかった。


『落葉』(部分)個人蔵(明治42年)
他の『落葉』とは違い、大地が描かれているという説明があった。
福井県立美術館所蔵の『落葉』がパネルで紹介されている。
あぁこれは、ちょうど1年ほど前、松伯美術館で開かれた『革新者たちの挑戦~よき人よき友 松篁の見つめた人々~』で目にしたな、と思い出す。
パネルをたよりにそのときの記憶と呼び戻し、目の前の『落葉』と比較しながら観る。

春草のエピソードが紹介されている。
猫を描くのに、近くの焼き芋屋の猫を借りてきていたが、すぐに逃げ出すので何度も借りに行かねばならなかったという息子の話はおもしろい。
『黒き猫』をはじめ、春草は、何点もの猫の絵を残している。
会場にも、『竹に猫』水野美術館(明治33年)と『白き猫』春草会(明治34年)の2点が展示されている。
そんなわけで、春草のことを猫好きだと勝手に思っていたのだが、実際はそうではなく、あまり好きではなかったようだ。
『竹に猫』の凛とした猫の佇まいが印象的だ。
『竹に猫』という作品名ではあるが、猫が見詰めているのは竹林ではなく、大輪の百合の花。
まるで勝負をしているかの如く、向かい合っている。

息子の話は、代々木での生活についても触れている。
『落葉』が生まれたのが、この代々木の地であるとは知らなかった。
木々も多く、散策するのにちょうどよい場所であったのだろう。
そもそも、「代々木」という地名は、代々大きな樅の木が育つ地であったことから付けられたのだそうだ。

昭和20年の戦禍で焼失した後、植え継いだ現在の「代々木」


『躑躅図』遠山記念館(明治38年)
淡い緑の山に、朱色の躑躅が映える美しい作品。

そのほか、『伏姫』長野県信濃美術館(明治33年)や『寡婦と孤児』東京藝術大学(明治28年)などが印象に残っている。
後期は『雀に鴉』も展示されるそうだから、また足を運んでしまうだろう。

【三重】 伊賀流忍者博物館

2009年10月29日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


伊賀といえば、忍者。
忍者と聞くと、わくわくしてしまう。
この忍者屋敷は、伊賀市高山にあった忍者屋敷を移築、復元したもの。


どんでん返し
右側の板壁は回転扉。
人が入ると同時に板壁の状態に戻り、入口であることが分からないようになっている。


仕掛け戸
左端に紙片を上下同時に差し込むと閂が外れ、脱出できる仕組み。

忍者体験館では、手裏剣、水くも、まきびしなど、忍者の道具が展示されている。
くさびかたびら体験コーナーというのもある。

身に付けてはみなかったが、手に取ってみると、ずしりと重い。
くさりかたびらの中には、重さが20キロに及ぶものもあるという。
身を守るためというより、体力、筋力のトレーニングをしていたとか。


秘密文字
漢字が伝来する以前に日本に存在していた文字。
忍者が活躍した戦国時代には、この文字を読解することのできる人はいなくなっていたので、秘密文字として使用されていたそうだ。

【三重】 松尾芭蕉ゆかりの地

2009年10月28日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 

【芭蕉翁生家】

松尾芭蕉は、正保元年(1644)、現在の伊賀市上野赤坂町で生まれた。


芭蕉生家の内部


釣月軒(ちょうげつけん)
生家の裏庭に建っている。
ここで芭蕉は、『貝おほひ』を執筆したのだそうだ。


釣月軒の内部


無名庵跡
無名庵は、伊賀の門人たちが芭蕉に贈るため、生家の裏庭に建てた庵。


【芭蕉翁記念館】

芭蕉翁記念館は、伊賀上野城が聳える上野公園内にある。
企画展「季語を楽しむ」が開かれていた。
芭蕉自筆の短冊や、芭蕉生誕三百年祭記念大会の際に高浜虚子が旧上野市に贈った俳句などが並ぶ。
季語のおもしろみを味わえるのは勿論のこと、短冊や掛軸の美しさも楽しめた。


俳聖殿
同じく上野公園内には、芭蕉の旅姿を表わした聖堂・俳聖殿が建っている。
丸い屋根は旅笠、八角形の廂は袈裟、柱は杖、「俳聖殿」の木額は顔を表わしているのだという。


【蓑虫庵】

芭蕉五庵(蓑虫庵、無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵)のうちで唯一現存しているのが蓑虫庵。
門弟・服部土芳の草庵。
その名は、貞享5年(1688)、庵開きのお祝いに芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」に因む。


古池塚
「古池や蛙飛こむ水の音  はせを」
丸窓は、蕉風開眼を表わす。
蛙の浮き彫りが愛らしい。


みの虫塚
「みの虫の音を聞ばやとこの庵  黄小園」


若菜塚
「卒度往て若菜摘はや鶴の傍  土芳」


なづな塚
「よく見ればなづな花咲く垣ねかな  はせを」


わらじ塚
芭蕉が帰郷の際に脱ぎ捨てた草鞋を、土芳が貰い受けて塚にしたのだという。


芭蕉堂


服部土芳供養墓所

【東京】 よみがえる浮世絵-うるわしき大正新版画展 (江戸東京博物館)

2009年10月27日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
9月27日(日)


「江戸時代の浮世絵版画と同様の技法によって制作された、大正から昭和初期に興隆した木版画」のことを新版画というらしい。
もう一度観てもいいかも、と思えるくらい、素晴らしい内容の展覧会だった。


川瀬巴水『清洲橋』
ロバート・ムラー氏は、この一枚から新版画のコレクションを開始したそうだ。
川瀬巴水の作品はいくつか展示されていたが、どれも吸い込まれてしまいそうに美しい。


伊東深水『対鏡』
この展覧会の図録の表紙にもなっている。
伊東深水の作品を観て、グッときたことはないのだが、これは好み。


橋口五葉『髪梳ける女』
髪のかんじが実に見事。
表情や手、そして背景のキラ刷りも美しい。


川瀬巴水『増上寺の雪』
42版もの工程から成る順序摺の過程が分かる映像や、版木の展示があり、非常に面白い。
色が重ねられるたびに、深みが出てくるのが実感できる。

【東京】 皇室の名宝 ― 日本美の華 1期 永徳、若冲から大観、松園まで (東京国立博物館)

2009年10月26日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
10月24日(土)
当日の行程: 【報土寺】【勝海舟邸跡】【赤坂氷川神社】【志賀直哉居住の跡】【久国神社】【勝安房邸跡】【日枝神社】 → (銀座線・溜池山王駅~上野駅) → 【皇室の名宝 ― 日本美の華 1期 永徳、若冲から大観、松園まで(東京国立博物館)】


この日、『皇室の名宝』展を観に行く予定はなかったのだが、誘いのメールを受け取り、赤坂散策を切り上げて、上野に向かった。
到着したのは午後2時半過ぎ。
館内に入るのに5分ほど並ぶ。
本当に「名宝」だらけだ。
思い出すままに書く。


『唐獅子図屏風』狩野永徳筆(右隻)
右隻の唐獅子は貫禄がある姿。
左隻には、永徳の曾孫・常信が描いた唐獅子が置かれている。
絶対に強くないだろうな、という感じの唐獅子だけれど、なんともいえない愛らしさがある。
並べてあるからこそのおもしろみ。

  
『動植綵絵』伊藤若冲筆
左から、「老松白鳳図」、「向日葵雄鶏図」、「紅葉小禽図」
「群魚図」のルリハタの描写に、プルシアンブルーを用いていたことが分かったとニュースで見た。
これまでは、平賀源内の『西洋人物図』(1770年代前半)で使われたのが最初だとされてきたが、若冲はそれよりも早く、プルシアンブルーの絵の具を取り入れていたらしい。
このことを意識して観たせいかも知れないが、「群魚図」以外の作品においても、ところどころに用いられている青色が画面を引き締めていて、とても美しく感じられた。
それにしても、30幅揃うと迫力あるなあ。
どれもこれも、素晴らしい。

●『旭日猛虎図』円山応挙筆/まるまる太った猫のようでかわいい。長くて、背中から角が生えたように折れ曲がっている尻尾が気になる。
●『唐子睡眠図』長澤蘆雪筆/これも印象深い。ぐっすり眠った子どもの絵。
●『虎図』谷文晁筆/水面に映った虎の顔がよかった。
●『花鳥十二ヶ月図』酒井抱一筆/どれも素敵だ。こういうものを目にすると、月替わりで自宅に飾ることができたらどんなに嬉しいことだろう、といつも思う。
●『西瓜図』葛飾北斎筆/北斎は好きなのだけれど、これはちょっと……。斬首を想像してしまった。
●『御苑春雨』横山大観筆/幽玄の美といった感じ。
●『宮女置物』旭玉山作/象牙でできているとは信じ難いほどのしなやかさを持った作品。十二単の重なり、紐のやわらかな感じに驚き、見入ってしまった。
●『七宝四季花鳥図花瓶』並河靖之作/気の遠くなるほどの細かさ。並河靖之の七宝作品は、いつ観てもため息が出る。花瓶を取り巻く人々も、思わず「へえー」「すごいねえ」と呟いていた。
●『七宝月夜深林図額』濤川惣助作/水墨画と見紛うほど、ぼかしが素晴らしい。
●『紫紅壺』河井寛次郎作/やさしく美しい色がよかった。

2期もまた楽しみだ。

【東京・港区】 報土寺

2009年10月25日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
10月24日(土)
当日の行程: 【報土寺】【勝海舟邸跡】【赤坂氷川神社】【志賀直哉居住の跡】【久国神社】【勝安房邸跡】【日枝神社】 → (銀座線・溜池山王駅~上野駅) → 【皇室の名宝 ― 日本美の華 1期 永徳、若冲から大観、松園まで(東京国立博物館)】


報土寺は、慶長19年(1614)に、赤坂一ツ木(現・赤坂2丁目)に創建された。
安永九年(1780)、幕府の用地取り上げにより、現在地に移転する。
江戸時代に活躍した力士・雷電為右衛門の墓があることで知られている。
雷電為右衛門については、次のような説明があった。
「明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、頬容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
 天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九〇)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。
 雲州(島根県)松江の松平候の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(一八一四)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。
 文政八年(一八二五)江戸で没した。
 昭和五十年十二月   東京都港区教育委員会」


現在地は赤坂7丁目、三分坂の下。
坂の名の由来が書いてある。
「三分坂(さんぷんざか)の名は、急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。『さんぶ』では四分の三両になるので誤り。」


練塀は、三分坂に沿って造られている。


本堂


本堂前に手形があったが、これは雷電為右衛門のものだろうか。


鐘楼


鐘楼の瓦には、「雷」の文字が。


梵鐘
次のような説明がある。
「報土寺の梵鐘は、文化十一年(一八一四)三月に雷電為右衛門が寄進したものが有名です。竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。現在の鐘は、明治四一年(一九〇八)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。」
雷電の臍に撞木があたる梵鐘を見てみたかった。


雷電為右衛門の墓


当日の歩数:15,214歩

【三重】 関宿

2009年10月24日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


歌川広重 行書版『東海道五十三次 関』


歌川広重 保永堂版『東海道五十三次 関』

関宿は古代から交通の要衝で「伊勢鈴鹿の関」が置かれていた場所。
鈴鹿の関は、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関といわれる。


国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、美しい町並みが保たれている。


【関宿旅籠玉屋歴史資料館】

玉屋
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれていたそうだ。
現在は、旅籠で使われていた道具や美術品などを展示する資料館になっている。


襖に残る宿帳


客室の再現


土蔵
中では、歌川広重の『東海道五十三次』が展示されている。


【関まちなみ資料館】

町屋を公開した資料館。
町屋で使われていた道具などが展示されている。
そのほかに、年代別に町並みの写真を並べて、その変遷を辿ることができるようにもなっている。
町並み保存の努力が伺える。

本陣跡などをいくつか。

鶴屋


伊藤本陣跡
参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した。


会津屋


会津屋の軒下には、こんなに可愛い子たちが!


本陣跡……ではなくて、新聞販売店。


関ロッジ
鈴鹿関跡の位置や規模は分かっていないが、聖武天皇によって整備されたとされる西限の城壁が関ロッジの付近から見付かっている。

【三重】 伊賀亀山城

2009年10月23日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


伊勢亀山城は、別名を粉蝶城という。
文永2年(1265)、若山(現在の亀山市若松町)に関実忠が築城した。
天正18年(1590)、岡本宗憲が入城後、本丸、二の丸、三の丸が新たに築かれ、天守も建てられたという。
その後、明治に至るまで、めまぐるしく城主が代わるが、三宅康信が城主の時のエピソードは強烈だ。
丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊してしまったのだ。
こんなことって……。


天守台の上に建つ多聞櫓


天守台の上から見た石垣


楠門跡
二の丸から本丸に通じる枡形門だった。


三重櫓跡


二の丸帯曲輪跡と土塀


二の丸御殿の礎石


埋門跡

【三重】 大黒屋光太夫ゆかりの地

2009年10月22日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 

 
近鉄・伊勢若松駅前に、大黒屋光太夫の顕彰碑が建っている。
天明2年(1782)、ロシアに漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見し帰国を嘆願し、漂流後、約10年を経て帰国を果たした船頭だ。
大黒屋光太夫は、この辺り(現在の三重県鈴鹿市)の生まれらしい。
小さな町のあちこちで、「ようこそ大黒屋光太夫のふるさと若松へ」という旗がたなびいている。


【大黒屋光太夫記念館】

記念館は、2005年に開館した。
受付には、大黒屋光太夫記念館だより『大光』が置かれていて、おもしろそうなのでいただいてきた。
また、表を参考にロシア語で自分の名前を書いてみよう!なんていうシートもあった。
ロシア文字といえば、寛政6年(1794)、光太夫は、大槻玄沢の塾「芝蘭堂」のおらんだ正月に招かれた際にロシア文字を披露したそうだが、その時の様子を描いた『芝蘭堂新元会図』も展示されている。
ほかには、光太夫のロシア文字墨書『鶴(Цуру)』や『北槎聞略』など。


【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】

記念館のお隣にある心海寺は、磯吉や大黒屋家の菩提寺。


御手洗石
山門を入ってすぐ左手にある御手洗石には、寄進者である大黒屋銀太夫・彦太夫の名前がある。


【大黒屋光太夫らの供養碑】

「天明二年(一七八二)十二月九日、当時の南若松村出身の船頭大黒屋光太夫ら十七名が乗り組んだ神昌丸は、紀州藩の廻米五百石などを積み込み白子港から江戸に向けて出帆した。途中、遠州灘で消息を絶ったので地元では、全員が遭難したものとして、二年後江戸大伝馬町組の長谷川氏が施主となって碑を建立した。」(案内板より部分)


【宝祥寺(小市の供養碑)】

宝祥寺は、小市の菩提寺。
大黒屋光太夫や小市は、この寺の付近で生まれ、幼少時はこの境内で遊んだという。


小市之供養碑
小市は、光太夫、磯吉と共に、ロシアの通商使節に伴われて、寛政4年(1792)に根室へ帰国した。
が、その翌年、小市は本土を踏むことなく病死してしまう。
どんな心境だったろう。
ほんとうに、ほんとうに、安らかに眠ってほしい。


【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】

光太夫らが出帆した白子港。


港には、井上靖による『大黒屋光太夫・讃』(手前の碑)と鈴鹿の彫刻家・三村力の手によるモニュメント『刻の軌跡』が建っている。