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大倉草紙

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【茨城】 筑波山③ (筑波山山頂売店付近~女体山山頂)

2010年08月01日 21時00分00秒 | 旅 - 茨城県
7月18日(日)


(12:18)
男体山山頂から売店が立ち並ぶ広場まで下りてきて、そこから女体山山頂へ向かう。


(12:20)
昭和天皇御製碑
「はるとらのを ま白き花の 穂にいでて
   おもしろきかな 筑波山の道

この御製は、昭和六十一年正月に発表された昭和天皇のお歌で、昭和六十年四月二十六日筑波山に行幸、ご登拝遊ばれた折、お詠みになったものです。(以下略)」(碑文より)


(12:28)
セキレイ石
「この石の上に鶺鴒(せきれい)が留まり、男女の道を教えたといわれています。」(案内板より)


(12:31)
ガマ石
「元来『雄龍石』といい傍らに『雌龍石』もあり、この場所で永井兵助が『ガマの油売り口上』を考え出したことでガマ石と呼ばれます。」(案内板より)

本当に蛙そっくり。
蛙の口を目がけて、みんな小石を投げているが、うまく入ると縁起が良いのだろうか?
夫が投げたらスポッと入った。


(12:38)
女体山山頂の女体山御本殿


女体山御本殿の御朱印


女体山山頂(877メートル)


三角点


山頂の岩場には、人が大勢。
すれ違うのがコワイ。


こわごわと岩場の先まで行ってみると、こんな景色が広がっていた。


すぐ下をケーブルカーが走っている。
くたくたになったので、ケーブルカーで下山。

【茨城】 筑波山② (御幸ヶ原コース登山道入り口~男体山山頂)

2010年07月31日 21時00分00秒 | 旅 - 茨城県
7月18日(日)


(10:25)
男体山への登山道入口。
7月に入ってからの登山はキツイ。
すぐに汗だくになる。
周りを見ると、小さな子どもも登っている。
すごいなあ。


(11:15)
男女川(みなのがわ)
「この付近は男女川の水源地の近くです。
 古来多くの詩歌に歌われるこの川は、男体山と女体山の間を南下して桜川へと注ぐ清く澄んだ川です。小倉百人一首にも選ばれた
 筑波嶺の峰より落つる男女川
  恋ぞつもりて淵となりぬる
という後陽成院の歌が有名です。」(案内板より)


(11:39)
筑波山山頂付近の売店が見えてくる。
「氷」の文字に吸い込まれるようにして売店へ。


売店から男体山山頂までは15分弱。
山頂へ向かう前に、ひとやすみ。


(12:04)
男体山山頂(871メートル)


(12:06)
男体山山頂に鎮座する男体山御本殿


男体山山頂からの風景

【茨城】 筑波山① (筑波山神社)

2010年07月30日 21時00分00秒 | 旅 - 茨城県
7月18日(日)


筑波山に登る。
行程は下記の通り。
つくば駅(つくばエキスプレス) → つくばセンター~筑波山神社入口(関東鉄道・直行筑波山シャトルバス) → 筑波山神社 →男体山山頂 → 女体山山頂 → 女体山駅~ロープウェイつつじヶ丘駅(ロープウェイ) → つつじヶ丘~つくばセンター(関東鉄道・シャトルバス)


(10:08)
筑波山神社の大きな鳥居の前でバスを降りる。
10時過ぎなのですでに暑く、ここに来るまでに結構くたびれてしまった。


(10:14)
こちらの鳥居をくぐって、筑波山神社へ。


(10:15)
御神橋(県指定文化財)
「切妻造柿葺屋根付 間口一間 奥行四間
天正十八年(一五九〇)徳川家康公が江戸城に入城され筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め給う。
寛永十年十一月(一六三三)三代将軍家光公寄進
元禄十五年六月(一七〇二)五代将軍綱吉公改修
安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる。
この御神橋は春秋の御座替祭(四月一日・十一月一日)・年越祭(二月十日十一日)に参拝者の渡橋が許される。」(案内板より)


正面からは分からなかったが、横から見ると橋になっている。


(10:16)
石段を上がると見えてくるのが隋神門。


隋神門(市指定文化財)
「八脚楼門 間口五間二尺 奥行三間
寛永十年十一月(一六三三)三代将軍家光公寄進
宝暦四年(一七五四)焼失 再建
明和四年(一七六七)再び焼失
文化八年(一八一一)再建 県内隋一の規模
往古は、これより神体山である筑波山を遥拝したといわれ、今でも自然と社殿とが一つになり神ながらの荘厳さを感じせしめる霊所である。
塔神社の境内地はこれより山頂を含む約三七〇町歩(ha)に及ぶ。」(案内板より)


(10:17)
境内では、ガマの油売りの口上が見られる。


(10:18)
拝殿
「筑波山神社は、男体山頂に伊弉諾尊(いななぎのみこと)、女体山頂に伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀り、古来から山岳信仰の霊山として栄え、弘仁14年(823)には官社に列するなど由緒深い名社であります。
 江戸時代には、将軍家の祈願所として歴代将軍の厚い保護を受け、神領は広大なものでありました。
 第三代将軍家光から寄進された銘吉宗の太刀は、国の重要文化財に指定され、社宝になっています。
 例祭は春秋(4月1日、11日1日)二期の御座替(おざがわり)祭が有名です。」(案内板より)


奉納されているお酒は「副将軍」。


筑波山神社の御朱印




【茨城】 鹿島神宮

2009年01月10日 20時00分00秒 | 旅 - 茨城県
1月6日(火)
当日の行程:(車)→ 【鹿島神宮】【香取神宮】

茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮は、常陸国一の宮。
全国に約600ある鹿島神宮の総本宮。

鹿島神宮の神使は鹿。
参道には、こんな像もある。



大鳥居
茨城県の特産の御影石でできているのだそうだ。


楼門(重要文化財)
寛永11年(1605)水戸藩初代藩主徳川頼房(光圀の父)が奉納したもの。
阿蘇、宮崎の楼門とともに、日本三大楼門に数えられるのだという。


拝殿(重要文化財)


仮殿(重要文化財)
元和4年(1618)建立。

本殿や仮殿がある敷地から、奥のほうへ木立に囲まれた道が続いている。


鹿園
鹿島神宮の御祭神武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)のところへ天照大御神の命令を伝えに来たのが、鹿の神霊とされる天迦久神(あのかぐのかみ)であったことから、鹿島神宮の神使は鹿になったらしい。
藤原氏が鹿島の大神の御分霊を迎えて春日神社を創建したときには、御分霊を神鹿へ乗せ、多くの鹿を連れて1年がかりで奈良へ行ったといわれる。
東京江戸川区の鹿骨をはじめ、東海道を三重の名張まで、その鹿の足跡が残っているという。


奥宮(重要文化財)
慶長10年(1605)、徳川家康により奉建される。
元和5年(1619)、二代将軍秀忠によって現在の本宮社殿が奉建されるにあたり、現在地に移された。


要石
地震を起こす大鯰の頭を押さえているといわれる。
石の上に光っている1円玉と比べたら分かるように、思いのほか小さい。
が、掘るにしたがって大きくなり、極まるところ知らずなのだそうだ。
小林一茶は鹿島神宮を詣でた際に、次のような句を残している。
「大地震(おおなゑ)にびくともせぬや松の花」
また、要石の近くには、芭蕉の句碑もある。

「枯枝に鴉(からす)のとまりけり穐(あき)の暮」
この句は鹿島神宮で詠んだものではないが、状況が似ているので建てられたのだろうという説明があった。


御手洗(みたらし)池
古来、禊の斎場であった池。
1日に432リットルもの水が湧き出るのだという。
池に入っているのが大人でも子どもでも、その水位が乳を越えないという伝説から、鹿島神宮の七不思議のひとつに数えられている。


鹿島神宮の御朱印