大倉草紙

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【大阪】 『坂の上の雲』が書かれた書斎風景とその時代展 (司馬遼太郎記念館)

2009年09月30日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
6月28日(日)
当日の行程:(JR・三輪駅) → 【三輪山登拝】 → (奈良交通バス・三輪明神 大神神社二の鳥居前~桜井駅北口…近鉄・桜井駅~八戸ノ里駅) → 【『坂の上の雲』が書かれた書斎風景とその時代展(司馬遼太郎記念館)】


『坂の上の雲』の創作メモや自筆原稿、そして、執筆に使用された万年筆などが展示されている。

『坂の上の雲』を読み始めると忙しくなって途中でやめてしまう、ということが何度が続いた。
一段落ついてすぐにまた読み始めればよいのだろうが、別の本に興味が向いてしまい、だいぶ経ってから「さあ、『坂の上の雲』でも読むか」と本棚から取り出してくると何かしら起こる。
ほんとうに不思議なほどに、タイミングが悪い。
その後に読み終えたのではあるが、その時も最後の最後まで何かあるんじゃないか、とそわそわしていた。

松山には行ったことがない。
松山どころか、四国に足を踏み入れたことがない。
いつかは行ってみたい、お遍路にも行きたいなあ。

『坂の上の雲』は、11月末からテレビドラマでも放送されるようなので、楽しみにしている。

【京都】 壬生の新選組ゆかりの地

2009年09月29日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
6月27日(土)
当日の行程:(JR嵐山駅~亀岡駅) → 【保津川下り】 → (阪急・嵯峨嵐山駅~松尾駅) → 【松尾大社磐座登拝】 → (阪急・松尾駅~大宮駅) → 【光縁寺】 → 【旧前川邸】 → 【八木邸】 → 【壬生寺】

【光縁寺】

光縁寺の創建は、慶長18年(1613)頃。
智恩院の末寺である。


寺紋は、丸に右離れ三つ葉立ち葵。
新選組の総長・山南敬助の家紋と同じで、このことから交流が始まったといわれる。


写真の左から、
松原忠司、櫻井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知ら12名の合同墓、
大石造酒蔵の墓、
山南敬助ら5名の合同墓、
沖田氏縁者の墓。


沖田氏縁者の戒名は「眞明院照誉貞相大姉」、
沖田総司(お墓は元麻布の専称寺)の戒名は「賢光院仁誉明道居士」、
二人の戒名が似ていることから、光縁寺に葬られている女性は、沖田総司の内縁の妻であるといわれている。


【旧前川邸】

ここは、文久3年(1863)から二年間、新撰組の屯所であった。
また、新選組発祥の地でもある。
隊士たちは、前川邸を中心に、八木邸、南部邸、新徳寺に分宿していた。

池田や事件の発端になった枡屋喜右衛門こと古高俊太郎が取り調べられた蔵、近藤勇が落書きした雨戸、山南敬助が切腹した部屋などが残っているという。
公開されていないので、内部は見ることができない。


前川邸の一部は、現在、新選組関連のグッズを売るお店になっている。


【八木邸】

「新選組発祥の地跡
 ここは、幕末の頃、京都の浪士取締りや治安維持に活躍した新選組の宿所があったところである。
 文久三年(一八六三)春、将軍家茂の上洛警護のため、清河八郎の率いる浪士組が入洛したが、その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。浪士組は、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して『新選組』と名のった。
 当初、新選組は、当屋敷に『新選組宿所』の標札を掲げ、隊員はわずか十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。以後、市中の治安維持に努め、元治元年(一八六四)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。
 翌年の慶応元年(一八六五)四月、屯所は西本願寺に移された。  京都市」(案内板より)


隊士腰掛の石
かつては、本屋敷と表屋敷の間、新選組の道場あたりにあった石で、隊士たちもこの石に腰をおろして休んでいたという。


「八木家住宅
 八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老をつとめていた。また、幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。
 建物は、長屋門が東に開き、その奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門は文化元年(一八〇四)、主屋は文化六年の造営と知られる。
 主屋は、西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。長屋門の外観は、腰に下見板を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。(以下略)  京都市」(案内板より)

内部は撮影禁止。
ガイドによる解説を受けながら見学する。
芹沢鴨、平山五郎らが斬殺された時の刀傷が鴨居に残っている。
そばに、芹沢鴨が躓いたと伝わる文机もあった。


見学後、隣接している「京都鶴屋・鶴寿庵」で、屯所餅と冷たいお抹茶をいただく。


新徳寺
八木邸の斜め向かいに、「新徳禅寺」がある。
こちらが、かつて新選組の本陣だった新徳寺。
非公開。


【壬生寺】

壬生寺は、正暦2年(991)、快賢僧都によって創建された。
新選組ゆかりの寺として知られている。


阿弥陀堂
このお堂の奥に、壬生塚がある。


『あゝ新撰組』の歌碑
三橋美智也のヒット曲なのだそうだ。
100円を入れると歌が流れる仕組みになっている。


新選組隊士慰霊塔


新選組顕彰碑


近藤勇の像


近藤勇遺髪塔


芹沢鴨と平山五郎の墓


阿比原栄三郎、田中伊織、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左右衛門、葛山武八郎の合同墓


河合耆三郎の墓


本堂


千体仏塔


壬生寺の御朱印

【京都】 松尾大社磐座登拝 

2009年09月28日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
6月27日(土)
当日の行程:(JR嵐山駅~亀岡駅) → 【保津川下り】 → (阪急・嵯峨嵐山駅~松尾駅) → 【松尾大社磐座登拝】 → (阪急・松尾駅~大宮駅) → 【光縁寺】 → 【旧前川邸】 → 【八木邸】 → 【壬生寺】

2週連続で松尾大社を参拝。
磐座(いわくら)登拝をしたかったのだ。
1週間前、夫は西芳寺に行っていて、その間に私は松尾大社の参拝をしていた。
磐座登拝の遵守事項には、「一人での登拝は禁止」とあって、あきらめて帰ってきたのだった。


入山受付は、午前9時から午後3時まで。
初穂料は1,000円で、二度目以降は300円なのだそうだ。


小忌衣を身に付け、杖をお借りして、こちらの登山口から入山。


登山口近くの鳥居
入山後は写真撮影は禁止されている。
登山口の外から撮ることができるのは、ここまで。

松尾山は標高223メートルで、途中、急な上り坂もあるが、約40分で行って帰ってくることができる。
磐座へ登拝できるようになったのは最近のこと。
2004年7月までは、神職以外は立ち入り禁止だったそうだ。
山頂付近の急斜面を登ると、大きな岩が姿を現わす。
この大きな岩が、磐座だ。
遠い昔から、人々はこの磐座をご神蹟として敬拝してきた。
周りの空気も清らかに感じられる。
下山の途中、水元に寄る。
松尾山の湧水は、ここでひとつとなって流れ出しているのだそうだ。

【大阪】 伊勢神宮と神々の美術 (大阪歴史博物館)

2009年09月27日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
9月22日(火)
当日の行程:(タクシー) → 【伊勢神宮と神々の美術(大阪歴史博物館)】 → (地下鉄にて帰宅…自転車) → 【ごて地蔵尊】【露天神社(お初天神)】


引越し間際の慌ただしいなか、伊勢神宮と神々の美術を観に出かける。


伊勢参詣曼陀羅
『伊勢参詣曼陀羅』は、いくつかあるらしい。
左は、三井文庫蔵の『伊勢参詣曼陀羅』のうち左幅(内宮)。
右は、個人蔵の『伊勢参詣曼陀羅』のうちの右幅(外宮)。
展覧会の期間中、何度か展示替えがあるようで、訪れたときは右側のものが展示されていた。
人々の動き地形を見るとおもしろい。


男神坐像(重要文化財)
松尾大社蔵。
松尾大社を訪れたときは東京へ出張中で拝むことができなかった男神坐像に、大阪で出会うことができた。
あなただったのねー、と噂で聞いていた方にお目にかかった気分。


金銅高機(国宝)
これはミニチュア織機。
福岡県宗像市の沖ノ島祭祀遺跡から出土したもの。
これと同様の高機は、伊勢神宮にも伝えられているらしい。
非常に精巧にできている。
こういうのって、フィギュアを集めたりする人にはたまらないかも。


玉纒御太刀 附 鮒形
キラキラきれいな太刀。

伊勢神宮では、20年ごとに建て替えが行われる。
第62回の式年遷宮は、平成25年(2013)。

先日参拝したときには、宇治橋の架替え工事中だった。
式年遷宮の年に、また参拝したいと思っている。

【京都】 松尾大社

2009年09月26日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
6月21日(日)
当日の行程:(JR・京都駅…近鉄・京都駅~東寺駅) → 【弘法市(東寺)】 → (京都バス・京都駅前~松尾大社前) → 【松尾大社】 → (阪急・松尾駅~日本橋…近鉄・近鉄日本橋~東花園) → 【U20世界ラグビー選手権(近鉄花園ラグビー場)】


一の鳥居
松尾大社は、京都最古の神社。
この地方に住んでいた住民が松尾山の守霊を守護神としたのが起源といわれる。


二の鳥居


二の鳥居には、榊の小枝を束ねたものが下がっている。
「脇勧請」といい、これによって農作物の出来具合を占うのだそうだ。


楼門


拝殿


神輿庫
松尾大社は酒造の神様。
全国各地の様ざまな酒樽が並んでいる。
この後ろには、神輿が納められているそうだ。


中門と本殿(重要文化財)
本殿は、松尾造り。


曲水の庭
後ろの建物は、宝物館。
重要文化財の木造神像が3躯納められている。
そのうち1躯は、「伊勢神宮と神々の美術」で展示されているため、拝むことができなかったが、お留守番をしている2躯も素晴らしい神像だった。
特に、市杵島姫命(女神像)はよかった。


上古の庭


「あじさい苑」のあじさいは、ちょうど見ごろ。


霊亀の滝


霊亀の滝のすぐ脇にある「天狗岩」


亀の井
松尾山から湧き出た霊泉。
酒造家は、この水を酒の元水として造り水に混ぜて使うのだという。


亀の井の霊泉は、亀の口から出ている。


蓬莱の庭


松尾大社の御朱印

【東京】 引越・荷物の搬入

2009年09月25日 21時00分00秒 | 雑記
朝、9時から荷物の搬入。
現在、廊下まで段ボールでぎっしりだ。
いつになったらこの段ボールがなくなるのだろう。
今日はもうくたくた。
お風呂に入って、ビールで乾杯して、早めに寝よう。

引越はしたけれど、このブログ、暫くは関西ネタが続く。
ああ懐かしいなあ。

あ、そうそう、東京で猫を預けたペットショップの本社が大阪の曾根崎だった。
誓約書にサインをしながら、
「へー曾根崎にあるんですかあ?」
「そんなんですよ」
「あ、そういえばありますね。そこで買い物をしたことがあります」と不思議なやりとりをした。

ねむねむ。

【大阪】 引越の日

2009年09月24日 22時17分02秒 | 雑記
犬は人につき、猫は家につく、という。
我が家の猫にとっては、人生、いや、猫生で6度目の引越しだ。
我が愛猫は家につくどころか、引越してから数日で前の家のことを忘れてしまう。
かつて、引越ししてから数日後にもとの家に連れて行ったことがあるが、「ここはどこなのだあ?」ってな顔をされたことがある。
どうやら我が家では、人間のほうが家や場所に対する執着が強いようだ。
部屋の写真を撮ってみたり、近所の写真を撮ってみたり。
さびしいなあ。

引越し先は、以前住んでいたところ。
けれど、家につかない我が家の猫は、新しい家だと思って暫くの間はうろうろと偵察することだろう。


引越し前日、段ボールを積んだ部屋


こちらの部屋は段ボールだらけ


道幅が狭いので、一旦1.5~2トン車に荷物を乗せて、大きな通りで10トン車に積みかえるのだそうだ。
大変な作業を手際よくやっていただいた。


引越前日に歩いた天六


天牛書店


大阪市議補選(北区)のポスター
期日前投票に行ってきた。


懐かしく思うだろう


よく使った駅


そしてその近く


一階の串揚げ屋には、とうとう一度も行かなかった。
二階には、いつもベランダにたたずむおじいさんがいる。
あれ?今日はいないな。


奥に見える建物は、かつては小学校だったそうだ。
つい先日から、遺跡発掘調査が行われている。


尺八の音が聞こえてくるお米やさん


よく行ったな


夫が時々ここのたこ焼きを買って帰ってきてくれた。


阪急梅田駅茶屋町口
よくここから電車に乗ったなあ。
そして、大阪を離れる今日も、ここから電車に乗った。


そして伊丹から羽田へ。

大阪から離れがたくて仕方がない。
本当に楽しい2年間だった。
新しい生活のなかでも、また楽しいことを見つけていこう。

明日は荷物の搬入だ。

【大阪】 阪急三番街北向地蔵尊

2009年09月23日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府

阪急三番街北向地蔵尊

傍を通るたびにいつも、妙なところに鎮座しているな、と気になっていた。

このところ、菓子折を求めに、百貨店へ頻繁に足を運ぶ。
ほうぼうへの挨拶のためなのだが、買い物をしながらも様ざまなことを思い返しては、「来週の今頃は、もうこの辺りにはいないんだな」と淋しさを感じる。
そうなると、目に映るものを片端から、できるだけたくさん残しておきたくて、菓子折の入った袋を両手いっぱいに提げたまま、この気になる地蔵尊に手をあわせに参った。

地蔵尊の由来が書いてあった。
「此処に祭祀申しあげております御本尊は明治二十六年この附近の畑より掘り出されました自然石(高さ七十三センチ横二十六センチ)の地蔵尊でございます
當時の地主仲谷弥三兵衛氏が世話人となられて御堂を北向きに建立されて同年十月十六日祭祀され爾来北向地蔵尊と呼ばれて多くの善男善女の崇敬を集められたのであります
昭和四十四年十一月現在の阪急電鉄梅田駅阪急三番街が建設されるに當り御堂を此処阪急三番街地蔵横町に北向きに建立して御本尊を御遷座申しあげたのでございます
御遷座拾周年をお迎えいたしますに當り後世のためこの由来を謹書申しあげます   合掌
 阪急三番街北向地蔵尊  奉賛会」(案内板より)

【兵庫】 竹田城

2009年09月22日 21時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
9月21日(月)
当日の行程:(車) → 【竹田城】【出石】【英賀】 


平殿から南二の丸・南千畳を望む

竹田城といったらこの風景。
早朝、雲海に浮かぶ天空の城を写真におさめに訪れる人も多いのだという。
関西生活最後の遠出は、迷うことなく竹田城に決まった。
しかし、道には迷った。
「山城の郷」に車を停めて登ろうとしたが、8月9、10日に発生した台風9号による土砂崩れで、ここからの道は全面通行止めとのこと。
貼ってあった地図をたよりに、南登山道へと向かった。
南登山道の駐車場は、山の中腹にある。
道は狭く、車がすれ違うのには難儀する。
連休中だからだろうか、駐車場は車でいっぱい。


駐車場のそばにある竹田城山門


駐車場の奥にある山名氏赤松氏両軍陣歿諸霊供養塔


こちらの登り口を使うと、10分ちょっとで本丸に着く。


花屋敷


花屋敷からの風景


花屋敷から本丸方面を望む


平殿


本丸への登り口


本丸


天守台


天守台にある三角点
竹田城が築かれていた古城山(虎臥山)の標高353.7メートル。


天守台からの風景


天守台から二の丸を望む


天守台から南二の丸・南千畳を望む


二の丸から南二の丸・南千畳を望む


南二の丸


南二の丸から本丸・天守台を望む


正門


搦手口

「史跡竹田城跡
 -遺構について-
 竹田城は嘉吉年間(一四四一~四三)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣氏に築かせた城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。
 最近の調査では、現存する総石垣の城郭になったのは、廃城時(慶長五年・一六〇〇)にごく近い年代と考えられている。
 竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿って北千畳郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭を配している。
 また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっている。
 規模は南北約四〇〇m、東西約一〇〇mである。
(昭和一八年九月八日 国史跡に指定)

 ―石垣について-
 竹田城の見どころは石垣にある。この石垣は穴太(あのう)積みと呼ばれる石積み技法を特徴としている。穴太積みとは、近江(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法である。安土城をはじめとする城郭の多くが、その技法により築かれている。
 竹田城の石垣は、加工をほどこさない石をそのまま積んでおり、一見して粗雑にみえるが水はけがよく、崩れを防いでいる。
 竹田城は、石垣が築かれてから約四〇〇年経つが、一部の復元箇所を除いて当時のままの姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。」(案内板より)


当日の歩数:9,316歩

【大阪】 海遊館

2009年09月21日 23時16分16秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
6月7日(日)
当日の行程:(大阪市営地下鉄・大阪港駅) → 【天保山公園】【海遊館】【安藤忠雄建築展 2009 対決。水の都 大阪VSベニス 水がつなぐ建築と街・全プロジェクト(サントリーミュージアム[天保山])】 


海遊館に行く。
様ざまな国の言葉で書かれたパンフレットがある。
ロシア語で書かれたものをいただいてみる。


カワウソが可愛かったが、なかなかこちらを見てくれない。


こういう格好をしてくれないとラッコだと判別できない私。


ウチのデブになりつつある猫とダブる。


造り物のようなワニ。


右側は鏡になっている。
ペンギンはナルシストなのかなあ?
みんな鏡のほうを見ている。


エイの上に乗っかって、楽をしているのはだーれだ?

イワシの群れが美しかった。
顎が外れたように大きく開けて泳いでいる姿が愛らしい。