大倉草紙

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富士山に登ってみた (須走口ルート) ②五合目

2010年08月31日 21時00分00秒 | 雑記

(7:03)
バスを降りると、目の前に富士山が。
これから登る山のすでに5合目まで来ているのに、その山が目の前に見えているということが不思議に思える。


富士山憲章(7:06)


富士山須走口五合目の碑(7:06)


馬頭観世音(7:13)


五合目(7:20)


焼印(7:20)
金剛杖に焼印をおしてもらっている人を多くみかけた。


(7:20)
五合目で売っているソフトクリーム。
こけももがある!
富士山に自生するこけももで作っているのか気になるところ。


五合目では、水は200円、ポカリスエットは300円、オロナミンCは200円。


(7:20)
日付が入っているので、今日の記念に東富士山荘の前で一枚。

富士山に登ってみた (須走口ルート) ①出発まで

2010年08月30日 21時00分00秒 | 雑記
8月15日(日)


今月28日午後8時現在、富士山の吉田口から入山した登山者数が24万7千人を超え、過去最多となったそうだ。
一度は登ってみたい富士山に、この夏、挑戦してみた。

まずは、下調べ。
とはいえ、登ろうと決めてから登山当日まで3日ほどしかなかったので、必要なものをリストアップしたり、ルートを選択したり、といった感じ。
持って行ったものは、
・食糧(甘いもの、おにぎり、カロリーメイト等々。多めに持って行った)
・水(2リットル)
・衣服(半袖Tシャツ、長袖Tシャツ、トレーナー、フリース、ウインドブレーカー)
・雨具
・帽子
・タオル
・マスク
・軍手
・湿布、エアーサロンパス、バンドエイド
・携帯酸素
・登山用スティック
・ゴミ袋
・100円玉(トイレを使用する際、200円~300円かかる)
・トイレットペーパー
・日焼け止め
・カメラ
早朝から登って夕方には下山する予定だったので、懐中電燈は持たなかったが、後ほどひどく後悔と反省。
多少重たくなっても、万が一のときのことを考えて、気になるものは持って行ったほうがいい、と思った。

ルートは、須走口にした。
混雑していないということ、景色を楽しめるということ、「砂走り」を体験できるということ、この3点が決め手となったのだが、実際に行ってみると、「砂走り」はかなり大変だった。

前日は20時に床につく。
が、なかなか眠れない。
午前2時に起きて、2時45分頃に出発。
渋滞は全くなく、5時過ぎに自衛隊富士学校の近くにある臨時駐車場に到着。
マイカー規制の期間中であったため、ここから5合目まではバスで向かう。
バスの始発は6時だったが、その頃はまだ駐車場に停めた車の中で熟睡。
6時半のバスで5合目へ。

【東京】 浮世絵動物園 (太田記念美術館)

2010年08月29日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
8月14日(土)


浮世絵動物園を観に行った。
8月26日で展覧会は終わっている。

チラシがとてもかわいらしい。
「美術館で待ってますよ」と言う猫、「美術館が動物園ですって!」「まさか!」と会話する雀、動物ものはたまらなく好きだ。

外国人が多くて、驚いた。
外にも、中にも。
こういう展覧会は、大人も子どもも、日本人も外国人も楽しめるのだろう。

楊洲周延『東錦昼夜競 蟹満寺』は、「蟹満寺縁起」をもとにしたもの。
私は蛇が苦手なのだが、どう考えても「蟹満寺縁起」では蛇がかわいそうだ。


歌川芳虎『家内安全ヲ守十二支之図』
しかし、こういうのを見ちゃうと、やっぱり蛇はいやだなあ、と思ってしまう。

残暑が厳しいのでまだまだ安心はできないが、どうやら今年は、蛇を見ずに終えることができそうだ。

【東京・港区】 松原の復元

2010年08月28日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


「芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。
 それは、寛永十七年(一六四〇)増上寺二十世大僧正南誉(なんよ)上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。
 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。
 ここは江戸時代の番所跡伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。
 都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。
  昭和六十二年二月  東京都」(案内板より)

「月見をイメージしたモニュメント」ってどれだろう?

これかな?

それとも、こっちかな?


こちらは、安藤広重『江戸名所芝増上寺』。
増上寺三門前が松原となっているのが分かる。

【東京・港区】 有章院霊廟二天門

2010年08月27日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


(東京都港区芝公園3-3-1)
有章院(ゆうしょういん)は、第7代将軍・徳川家継(1709-1716)の院号。
二天門は、有章院霊廟の第一門。
8代将軍・吉宗以降は霊廟を造営することはなかったので、有章院霊廟は徳川家霊廟建築の最後の遺構と言われる。


多聞天と広目天に守られている。

【東京・港区】 開拓使仮学校跡

2010年08月24日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


(東京都港区芝公園3-2)
「北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
 生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。
 明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。
 仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。」(碑文より)

【東京・港区】 看護婦教育発祥の地

2010年08月23日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


(東京都港区西新橋3-25-8)
慈恵看護専門学校の門の近くに建っている。
東京慈恵会医科大学の創立者・高木兼寛が、明治17年(1884)、東京慈恵会医科大学の前身である有志共立東京病院に看護婦教育所を設置したことが日本における看護婦教育の始まり。
ナイチンゲール看護婦養成所を手本とし、アメリカ合衆国から看護婦M.E.リード女史を招き、看護教育が行われたそうだ。