陸前高田市の津波被害は壊滅状態ですが・・・ 3/20(日)午前記録
地震と大津波の被害から、一週間以上経過し、東日本の混乱状態は半端ではない。何か生活のリズムが狂い、これが落ち着くのは何時のことか、予想もつきません。
千葉・柏市でも頻繁に地震があり、少しの揺れでも驚かなくなりました。
なにか、この後に、更なる大地震がありそうで心配です。
今年は、春の桜のシーズンに、故郷岩手北上市の桜の景勝地の「展勝地」に、満開に合わせて出かけて見ようかと言う計画が、あっと言う間に吹っ飛んでしまいました。
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じつは、私は幼少の頃、5年間、岩手県三陸海岸の広田町に住んでいました。
父親が広田町の小学校に転勤し、家族で広田町で生活すること5年間でした。
私は2~6歳でしたから、記憶ははるか彼方ですが、家族の思い出話と合わせて、いくつかの戦中・戦後の生活の懐かしい思い出と、住んでいた広田湾の海岸の中沢浜などの景色と思い出が、脳裏に焼きついている所なのです。
岩手へのお盆の帰省の際も、何度もきれいな三陸の海が見たくて、陸前高田市を通り、足を延ばして広田町に出かけていました。
TV報道されている、陸前高田市は大津波で壊滅的な被害状況です。
何度も何度も見ていますが、悲惨な映像と画像と、お気の毒な避難生活の様子が報じられていて、何とも空しい気持ちになっています。
→ 陸前高田市はン陸海岸の広田湾の奥にあります。気仙川の河口で平野になっています。高田松原が広がり、海水浴場でにぎわう所です。だから、大津波は開けている湾の奥の市街地に、舐めるようにせまり狂って襲ったことになりました。
そんな地理的環境の中での広田町は、岬の先にある静かな町です。入り組んだリアス式の海岸と後ろに高台があるので、壊滅的な陸前高田市の津波の被害とはまた違った被害があるはずです。
そんなことで、私の幼少時の広田町の被害状況が気になっていました。
一昨晩の報道ステーションを観ていたら、偶然に「広田町の避難場所」が出てきました。ほんの数秒でしたが、「あっ、広田だー。」と注目しましたが、すぐに終わってしまいました。
報道の内容は、陸前高田市からの道路が寸断されて、孤立していた町の様子の報道で、広田町のような被災地が残されているとのことでした。
下のデジカメは、2004年と2005年に、陸前高田市の広田湾に出かけ時の思い出のデジカメです。(実際の広田町の海ではありません。)
こんな静かなリアス式海岸の海の、のどかな様子に戻るには、かなりの年月がかかることでしょう。

① 左上の写真に見える防波堤なんかは、10m以上の大津波は防げなかったのです。
② 右上はリタイア後の思い出の海での、のんびり釣りでした。もうこんなことはできないでしょう。
③ 左下の港の中では、10mの津波は、奥深くまで進んだのでしょう。
④ 右上のような高台に避難できた人は、助かることができたのでしょうか。
災害は忘れた頃に、突然にやってきます。
今回の大地震と大津波は、過去の災害から見ても、想定外のもので、誰も予想できなかったものです。
ならばこそ、政府の災害復興の迅速なお手並みを、見守りたいものです。
もう一つの災害の原発の損傷と放射性物質漏れの課題は、これまた想定外のものです。10mの津波を想定しての設計ではなかったとか・・・。
起きてしまったものはしょうがない。
被害を最小限でくい止めるべく、放射性物質の中で、必死の対策と行動をとって、消火放水してくれている自衛隊と消防隊の努力にエールを贈りたいものです。
東京電力職員はこれまた、必死の対策と努力でしょうが、これは職務なので逃れられるものではない。解決までは、今後の原発運転のノウハウの蓄積のためにも、粘り強く対処するしかないでしょう。
TVを観ていての感想ですが・・・。
枝野官房長官は、しっかりと会見しているなあと感じています。ここでの活躍が彼の今後の政治生命の勝負時だと思うこと、しかりです。
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被災者のこれからの生活を考えると、一体どうなるのだろう。どのようにして生計をたてていくのだろうか。と、心配でたまりません。
子ども手当ての満額支給や高速道路無料化なんかでもめている、民主党のマニフェストのこだわり予算を捨てて、その分の予算を災害復興と被災者への支援補助に向けるなど、大ナタをふるった施策が必要になってくるのではないでしょうか。
野党自民党の谷垣総裁に、復興災害担当大臣になってくれないかと、持ちかけた管首相の政治感覚は、私には理解できない。
どうも、近ごろ、お年頃のせいか、評論家になっている私です。
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3/20 今日の行動メモ
?????
地震と大津波の被害から、一週間以上経過し、東日本の混乱状態は半端ではない。何か生活のリズムが狂い、これが落ち着くのは何時のことか、予想もつきません。
千葉・柏市でも頻繁に地震があり、少しの揺れでも驚かなくなりました。
なにか、この後に、更なる大地震がありそうで心配です。
今年は、春の桜のシーズンに、故郷岩手北上市の桜の景勝地の「展勝地」に、満開に合わせて出かけて見ようかと言う計画が、あっと言う間に吹っ飛んでしまいました。
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じつは、私は幼少の頃、5年間、岩手県三陸海岸の広田町に住んでいました。
父親が広田町の小学校に転勤し、家族で広田町で生活すること5年間でした。
私は2~6歳でしたから、記憶ははるか彼方ですが、家族の思い出話と合わせて、いくつかの戦中・戦後の生活の懐かしい思い出と、住んでいた広田湾の海岸の中沢浜などの景色と思い出が、脳裏に焼きついている所なのです。
岩手へのお盆の帰省の際も、何度もきれいな三陸の海が見たくて、陸前高田市を通り、足を延ばして広田町に出かけていました。
TV報道されている、陸前高田市は大津波で壊滅的な被害状況です。
何度も何度も見ていますが、悲惨な映像と画像と、お気の毒な避難生活の様子が報じられていて、何とも空しい気持ちになっています。
→ 陸前高田市はン陸海岸の広田湾の奥にあります。気仙川の河口で平野になっています。高田松原が広がり、海水浴場でにぎわう所です。だから、大津波は開けている湾の奥の市街地に、舐めるようにせまり狂って襲ったことになりました。
そんな地理的環境の中での広田町は、岬の先にある静かな町です。入り組んだリアス式の海岸と後ろに高台があるので、壊滅的な陸前高田市の津波の被害とはまた違った被害があるはずです。
そんなことで、私の幼少時の広田町の被害状況が気になっていました。
一昨晩の報道ステーションを観ていたら、偶然に「広田町の避難場所」が出てきました。ほんの数秒でしたが、「あっ、広田だー。」と注目しましたが、すぐに終わってしまいました。
報道の内容は、陸前高田市からの道路が寸断されて、孤立していた町の様子の報道で、広田町のような被災地が残されているとのことでした。
下のデジカメは、2004年と2005年に、陸前高田市の広田湾に出かけ時の思い出のデジカメです。(実際の広田町の海ではありません。)
こんな静かなリアス式海岸の海の、のどかな様子に戻るには、かなりの年月がかかることでしょう。

① 左上の写真に見える防波堤なんかは、10m以上の大津波は防げなかったのです。
② 右上はリタイア後の思い出の海での、のんびり釣りでした。もうこんなことはできないでしょう。
③ 左下の港の中では、10mの津波は、奥深くまで進んだのでしょう。
④ 右上のような高台に避難できた人は、助かることができたのでしょうか。
災害は忘れた頃に、突然にやってきます。
今回の大地震と大津波は、過去の災害から見ても、想定外のもので、誰も予想できなかったものです。
ならばこそ、政府の災害復興の迅速なお手並みを、見守りたいものです。
もう一つの災害の原発の損傷と放射性物質漏れの課題は、これまた想定外のものです。10mの津波を想定しての設計ではなかったとか・・・。
起きてしまったものはしょうがない。
被害を最小限でくい止めるべく、放射性物質の中で、必死の対策と行動をとって、消火放水してくれている自衛隊と消防隊の努力にエールを贈りたいものです。
東京電力職員はこれまた、必死の対策と努力でしょうが、これは職務なので逃れられるものではない。解決までは、今後の原発運転のノウハウの蓄積のためにも、粘り強く対処するしかないでしょう。
TVを観ていての感想ですが・・・。
枝野官房長官は、しっかりと会見しているなあと感じています。ここでの活躍が彼の今後の政治生命の勝負時だと思うこと、しかりです。
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被災者のこれからの生活を考えると、一体どうなるのだろう。どのようにして生計をたてていくのだろうか。と、心配でたまりません。
子ども手当ての満額支給や高速道路無料化なんかでもめている、民主党のマニフェストのこだわり予算を捨てて、その分の予算を災害復興と被災者への支援補助に向けるなど、大ナタをふるった施策が必要になってくるのではないでしょうか。
野党自民党の谷垣総裁に、復興災害担当大臣になってくれないかと、持ちかけた管首相の政治感覚は、私には理解できない。
どうも、近ごろ、お年頃のせいか、評論家になっている私です。
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