作家が全人生をかけてものにした作品たちを、2時間ほどそぞろ歩いて見て回り、分かった気になるのが美術館におけるわが行動である。偽善とまでは言わないが、いささか不当なまでに合理的なシステムによって、作家の芸術という芸術を、私たちはむさぼり食っている。
ジョルジョ・モランディのように終生変わることのない主題と共にあり続けた作家の場合、そのむさぼり具合は洒落にならない状態となる。ちょっと離れて主題やモチーフの傾向を探ってみたり、気になる作品についてはぐっと近づいて、彼(彼女)の絵の具の乗せ方や筆さばきの後を追ってみたりする。マチエールへの耽溺が鑑賞のアクセントとなる。もちろんそこに畏敬の念は存在してはいるにせよ。
東京ステーションギャラリー(東京駅構内)で開催された《ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏》が、さる4月10日に会期終了した。夥しい数の同じ主題の反復。つまりモランディ家の彼のアトリエに大事に保管されたいくつかの瓶や水差し、缶といったいわゆる「静物」が、角度を変え、配置を換え、組み合わせを換え、光線のあたり具合を調整しながら、何度も何度も描かれ続ける。あたかも主題の限定がかえって「ヴァリアツィオーネ(変奏)」を力強くすると言わんばかりに。
いや、実際ここでは同じモチーフの反復と(微細な)差異によって、作家の無際限な変奏が保証されている。瓶や水差し、缶といった人工の無機物が、そのつど役柄を交感しながら異なる演技を試し続けている。
「絵画にとっての小津だな」とか「静かな狂気」なんて安易な形容が頭をよぎってしまうが、規則性と戯れつつ、生が抽象化していき、マチエールの無限な二重コピーを増殖させていく。たおやかで、見た目に美しいその静物たちの中間色や原色が、それじたいの無限性と有限性を同時に肯定し、それじたいの消滅を予告し、また鑑賞者の死と消滅を逆照射している。しかしそれを悲しいとは思わない。メメント・モリ。虚栄とは無縁のまま、たおやかに死滅する静物たちは、美を美と名づけないままに戯れて、そして殉死していく。
これまでよく知っていた油彩だけでなく、今回展示された作品群にあって、構造性がよりあらわとなるエッチング、モノとモノの関係性、モノとモノでない境目の関係が混ざり合う水彩画がすばらしく、この作家に対する嗜好にあらたな面をつくってくれた。
ジョルジョ・モランディのように終生変わることのない主題と共にあり続けた作家の場合、そのむさぼり具合は洒落にならない状態となる。ちょっと離れて主題やモチーフの傾向を探ってみたり、気になる作品についてはぐっと近づいて、彼(彼女)の絵の具の乗せ方や筆さばきの後を追ってみたりする。マチエールへの耽溺が鑑賞のアクセントとなる。もちろんそこに畏敬の念は存在してはいるにせよ。
東京ステーションギャラリー(東京駅構内)で開催された《ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏》が、さる4月10日に会期終了した。夥しい数の同じ主題の反復。つまりモランディ家の彼のアトリエに大事に保管されたいくつかの瓶や水差し、缶といったいわゆる「静物」が、角度を変え、配置を換え、組み合わせを換え、光線のあたり具合を調整しながら、何度も何度も描かれ続ける。あたかも主題の限定がかえって「ヴァリアツィオーネ(変奏)」を力強くすると言わんばかりに。
いや、実際ここでは同じモチーフの反復と(微細な)差異によって、作家の無際限な変奏が保証されている。瓶や水差し、缶といった人工の無機物が、そのつど役柄を交感しながら異なる演技を試し続けている。
「絵画にとっての小津だな」とか「静かな狂気」なんて安易な形容が頭をよぎってしまうが、規則性と戯れつつ、生が抽象化していき、マチエールの無限な二重コピーを増殖させていく。たおやかで、見た目に美しいその静物たちの中間色や原色が、それじたいの無限性と有限性を同時に肯定し、それじたいの消滅を予告し、また鑑賞者の死と消滅を逆照射している。しかしそれを悲しいとは思わない。メメント・モリ。虚栄とは無縁のまま、たおやかに死滅する静物たちは、美を美と名づけないままに戯れて、そして殉死していく。
これまでよく知っていた油彩だけでなく、今回展示された作品群にあって、構造性がよりあらわとなるエッチング、モノとモノの関係性、モノとモノでない境目の関係が混ざり合う水彩画がすばらしく、この作家に対する嗜好にあらたな面をつくってくれた。