毎年、子酉川はこのころになると氾濫をします。それは、秩父の山々の切り立った南側の斜面を雨水が急に駆け下るからで、その勢いのせいでせっかく築いた堤も破れ、そこらが泥に埋まります。
そして、丹精込めて作ったぶどうや米をだめにし、家々を押し流し、さらに身分よりも尊い、人の命まで奪ってしまうのです。
その年の梅雨も、例年通りの長雨が続いていました。かれこれ、三日は降り続いているでしょうか。
権三郎は、わらじ造りの手も落ち着かず、一目編むごとに窓から雨の様子を見ていました。雨はこの三日で一番強く降っています。
わらじを一足編み終えたときでした。
突然、小屋の戸を激しく叩く人がありました。
権三郎は驚いて戸を開けますと、笠と蓑を被った最寄りの家の者がいました。
「おお、権三郎。済まぬ、手伝ってくれ。南の三つ目の土手が切れそうでの」
といいました。
「もちろんです。すぐ行きましょう」
というと、すはやく戸の脇にかけてある、笠と蓑を身につけました。
「母上、ではいってまいります」
と向き直ると、母上は大変心配そうな顔で、じっと権三郎をみています。
「そう心配いたしますな。大丈夫、無事に戻ってきますよ。わたしのことよりも、この小屋は川のすぐ近く。万が一、川が溢れましたら、ここもただでは済まぬでしょう。その方が心配です」
「心配いらんぞ、権三郎。せがれの義助に、高台の庄屋さまの屋敷まで送っていかせる」
庄屋の屋敷は、川からだいぶ離れた小高い丘の上にあった。あそこなら例え堤が破れても、水に浸る心配はありません。この時期、洪水が起きそうなときには、女子どもは庄屋の家に避難していました。
「そうですか。そういうことですので、母上。行って参ります。また後ほど会いましょう」
といって、村人の後を追って、家を出て行きました。
しばらくして、母親も義助に手を引かれて、家を出ました。