2011年、フランス映画の方の「キリマンジャロの雪」を借りた。(「女神の見えざる手」も借りた。「イースト/ウエスト 遙かなる祖国」も借りた。まとめて借りるには、3枚は多かった(今回のような内容では)。なんだか再生に追われている。は さておき、)
「南仏・マルセイユ。自らも関与したリストラで無職の身となったミシェル。余裕がある生活とは言えないまでも、結婚30周年を迎える妻や子供たち家族との慎ましやかにも幸せな日々があった。だが、家族から夫婦に30年の記念に送られたプレゼント(キリマンジャロへの旅)は、予期せぬ出来事を招く。…」
ボランティアという日本語の周りにぼんやり暮らしていた私が その言葉に 志願 という意味があることを初めて知った時、驚いた。志願。ボランティアってそこまで能動的なことだったんだ。
この映画の途中からの主人公とその妻のそれぞれに その 「志願」 というカテゴリーを見出していく自分を感じながらの視聴となっていった。
犯罪被害者の二人はそれぞれに 犯罪加害者の家族との接点を持っていく。
その中に芽生えた 志願 の感覚。
30年は 振り返るものではなくて、未来も安定を一義に追うものでもなくて、「今」。
過酷な出会いの中に 「今」をこんなにも見出していくこととなる。運命は 時に扉。二人は 新しい扉を開いていった。
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途中 「ヌテラ」 が出てくるんです。そのおいしさ知っているんで、泣いた。
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主人公の妻が出会った、‘詩人’バーテンダー。彼のセリフに
失恋でも 思い出は
少し残したいでしょ?
ね、‘詩人’でしょ(^_^)/?あれ?そうでもない?