入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’24年「秋」(57)

2024年10月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


   桐一葉落ちて天下の秋を知る

 いきなりそんな言葉が口をついて出た。半対(はんずい)峠から小黒川の川床に下り、一服していた時だった。狭い谷の中に差し込む逆光を浴びて、はらはらと幾枚かの枯れ葉が白濁した流れに舞うのを見ていた。
 女性二人の同行者のうちの一人もそれを目にし、「ワー、きれいね」と声を上げ、もう一人にその光景を見るように促した。

 連休は好天が続いた。各地のキャンプ場の中には、予約が取れないほど賑わった所もあったと、常連のSさんから聞いたほどだ。確かに入笠山にはたくさんの人が訪れたようだし、テイ沢から来て牧場を通過していく人の姿もよく目にした。
 当方のキャンプ場は連休と好天の影響を受けながらも特に混雑することもなく、人出はいつもの週末とそれほど変わらなかった。
 そのせいもあってか、この独り言を聞いて初めて訪れたMさん夫婦などからは大いにここを気に入ってもらえて、話も弾んだ。
 
 冒頭の二人の女性というのも、名古屋から何度か来てくれた顔見知りで、予約時に初日13日は「日向山」に登り、その後ここの小屋に1泊し、翌日は半対峠までを往復する計画だと言っていた。それでつい、帰路は川床に残る古道「石堂越え」を勧め、暇だったら案内してもいいくらいのことを言ったみたいだった。
 
 高座岩から先は、この春にその先の大崩落を見にいって以来のことで、半対までとなると10年以上も前になる。
 川床に残る踏み後同然の道は「単に釣り人が歩いてできた道とは思えない」と言う人もいて、もしそれが本当に「石堂越え」の一部であるのなら、千年以上も前に遡ることの可能な古い道ということになる。北原のお師匠がまだ元気なころ報告した時は「それが石堂越えだぁ」と電話の向こうで叫んでいた。
 仮にそれが古道であってもそうでなくても、少なくも昭和初期のころまではこの川床の道を利用した人がいたことは間違いないと、この踏み後を辿るのは今回で3回目か4回目になるが、確信した。

 牧場で働くようになった18年前は「入笠トレッキング」などと称して、(またPCがおかしくなったが続ける)、鹿嶺高原まで12.5㌔の尾根道を歩く市が主催する催しが行われていた。確か牧場で働き始めた年は、その催しが行われた最後の年だったような気がする。
 初めての時はそれとは関係なく単独で、半対峠までは問題なく行けた。しかし、その後2度目だか3度目だか忘れたが、峠に下る道が変わったり、その表示が不正確で、この時も案内役を兼ねながら少々戸惑ったことを覚えている。
 今回は最初の時の道を記憶を頼りに行くことにし、必ずしも同じ道ではなかったものの、それでも目標にした峠に着くことができた。(つづく)

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 本日はこの辺で。


 
 

 
 

 
 
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       ’24年「秋」(56)

2024年10月12日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 文句のない秋日和、晴天。一昨日に続いて霜が降りたのか、周囲の草がびっしょりと濡れて朝日に輝いている。
 午前7時の気温3度、どこから入ってきたのかスズメバチが天井のすぐ下で行きあぐねたようにして飛んでいる。この時季の侵入者は気が立っていて危ないから、即退治した。
 そう言えば、Oさんは先週の高尾山行でスズメバチに4回も刺されたと聞いた。幸い大事にはならなかったようで良かったが、それにしてもその回数の多さには驚くばかりだ。

 先日、キシャヤスデの発生について呟いた。これとイノシシの牧場荒らしが関連しているのか、掘り起こしがまだまだ続いている。そうそう、多足の虫だから「ヤツデ」だと思っていたら、「ヤスデ」だと誤りを指摘された。訂正いたします。
 異常気象で生態系も狂ったらしく、掘り起こされた土の下にこのキシャヤスデが昨年に続き今年もいて、イノシシはこれを食べに来ている可能性が考えられる。それにしても7年に一度のはずが2年続けてとは恐れ入った話で、よく見るとこのヤスデ、本来は白い色のはずだが若干黄土色をしている。待て、これ以上素人がこの虫についての要らぬ想像は止めにしておこう。
 何年か前トンコレラが発生し、その被害がイノシシにも及んだと聞いたが、あの惨状を目の当たりにするとどうやら敵はしたたかにも難を逃れた奴らのようだ。

 レンゲツツジの葉の色が幾分だが赤色を帯びてきたのが目に留まった。マユミの木も大分葉が落ちて、赤い色の実が目立つようになってきた。
 今朝はその向こうに穂高や槍の峰がよく見えていて、もう何年も見てない涸沢のナナカマドの紅葉のことを思い出した。初めて穂高に登ったまだ10代のころ、この灌木の名前を知らないまま、圏谷を埋める紅葉の美しさに息を飲んだ記憶がある。
 今、「信州の山(信毎書籍出版センター)」の著者宮坂七郎氏が同書を持って伊那ケーブルのI氏と訪ねてくれ、その話をしたら、すでに見ごろからは10日ばかり遅いと言っていた。


 
 穂高も様々な思い出を残したまま、いつの間にか行くことのない山になってしまった。存分なことができたとは思わないが、それでもいい時代にいろいろな体験をした。
 屏風の頭から眺めた涸沢とその後での意外な友との出会い、やはり同じ時季の奥又白谷で味わった苦い経験、右岩稜では重い決断もしたし、涸沢ではダケカンバの林の中で同行者と一夜を明かすという予想外のこともした。どれも秋の山の出来事だ。
 きょうは訪問者を待ちながら、宮坂さんから頂いた貴重な本を開いて、秋の山のことなどを振り返ることにしよう。

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      ’24年「秋」(55)

2024年10月10日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
 

 キノコの季節は終わったと思っていたら、先日の法華道に続いて、北原新道で草を刈っていた時もヌメリカラマツタケを幾本か見付けた。山にもまだキノコ採りを見かける。
 このキノコの名前ばかりしか呟かないのは、他に自信を持って知っているのがないからだ。この時も採らなかった。たった4,5本採るくらいなら、そのままにしておいた方がいいと思ったのだ。

 ところが今、冷蔵庫にはマツタケが入っている。ここは標高が高く、マツタケは生えないし、それに、赤松の林もない。仮に生えていても、多分自分では見付けることができないだろう。
 このマツタケは有難い到来物で、北原のお師匠の長女のKさんが日曜日の夜にご主人と一緒にここまで持ってきてくれた。 草葉の陰から師が、愚かな弟子の苦難な様子を見ていて、持っていってやれとでも言ってくれたのかも知れない。
 一人では勿体ないので、今夕3人の訪問者と一緒に酒を飲む際に土瓶蒸しにして頂戴するつもりだ。
 後日になるが、新米でマツタケ飯にすることも忘れていない。男一人の夕餉、それにも相応しかろう。

 先週の金曜日、里に下りて友人2名と某所で酒宴を張ったその時も、昨年と同じようにマツタケの土瓶蒸しを注文した。今回も、ほんの薄っぺらなのが二、三片、お義理のように入っているだけだったが、感心するほど美味かった。
 ついでながら、この高価な野の物を最も美味しくいただく方法は土瓶蒸しだと信じている。牛肉とマツタケの銀串焼きなどというのもあるが、この肉は禁断中とあれば遠ざけておく他はなく、すき焼きでもまたしかり。

 昨日も、午後は北原新道で悪戦苦闘していた。3本の歯の抜けたゴミ掻き(くま手)を苦心して1本にして、それで刈ったクマササを片付けたまでは良かったが、帰るとき、うっかりしてそれを軽トラの下にしてしまった。もう使えない、涙。
 北原新道の草刈りもあと半日、長くも1日あれば終わる。

 今朝6時の気温は2度だった。この狂った気候に翻弄されながらも、いい秋が静かに深まっていく。ここだけの秋、それでも充分過ぎる。

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      ’24年「秋」(54)

2024年10月09日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 よく降る雨だ。眠れぬまま独り言を呟いて、終えたのでいつもの結びの言葉「山小屋&キャンプ場云々」を加えたら、すべてが消えてしまった。そのようにできているか知らないが、これが初めてのことではない。文字が消えたとか、行ごと消えたとか似たような話を他からも聞く。

 昨日は午後、雨の中を北原新道で草刈りをした。作業は予想以上に進み、中段に残る以前に使われた木材の搬出路まで進み、「谷川岳のナントカルートを1本攀ったような満足感を覚えた」と呟いたが、もうそれを詳しく繰り返す気力はない、失せた。
 まだ半分くらい残っているし、刈ったままにしてあるクマササの葉も片付けなければならない。できればツルハシを振るって、少し道を整備したいとも思っているが、はたして今の勢いが続いてくれるかは自分でも分からない、と言っておいた方がよさそうだ。

 テイ沢の下流の登り口に、注意書きを記した案内板が出た。沢の南側、下流から見て右側、六兵衛山(これも「権兵衛山」と同様の仮称)上部の伐採が近く行われるため、落石や切り落した丸太の一部が落下する恐れがあるので注意するようにというものだ。
 この沢を訪れた人は、この注意書きに従い、そうするしかない。今は沢が観光ルートのように見做されていても、元はと言えば森林管理署や林業関係者が使用した作業道であると言われれば、古い時代の話を持ち出しても詮無く、そうですかと言うしかないだろう。
 沢に架けられていた丸太橋は放置され、危険であったため勝手に新しくしたのであって、それは黙認された形になったが、国有林内はそこを管理する森林管理署には逆らえない。
 注意書きには業者の名があるだけで、森林管理署の名は入っていないが、とにかく気を付けよう。

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      ’24年「秋」(53)

2024年10月08日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 

 雨の降る音がする。もうすぐ午前4時になる。夏が終わり秋が来て、牛がいなくなったこのは頃、こんな時間に目が覚めることが多い。
 
 昨日は予定通り電気牧柵の一部の冬支度を済ませ、そのあとは高座岩に通ずる北原新道の草刈りに行った。北原のお師匠の苦心の作であるこの山道は春、クマササが角ぶくころに一度刈っておいたが、案じていた通りあの時の苦労がすっかり元の木阿弥になってしまっていた。
 ここの草刈りは山道が急なため、絶えず刈り払い機を抱えるようにして作業をしなければならず、それと比べたら法華道の草刈りなどは余程楽だと言える。それに、斜面を横切るようにクマササを刈っただけで、伐根などお師匠一人の手でできるわけもなく、傾斜している所が多く足場も良くない。

 こういう仕事は根を詰めてやっては駄目で、いくら気が急いても、いやになる前に止めるのがコツだと思っている。昨日もそうした。恐らく、高座岩にたどり着くまでにはまだ幾日もかかるだろう。
 ある人は、この山道を下ってから北原師のしたことを「正気の沙汰とは思えない」とまで言った。近年はそのような山道を、もっぱら不詳の弟子がブツクサ言いながら草刈りを続けているわけだが、そうしなければこの山道は消えてしまう。
 
 テイ沢は人気も出て訪れる人が増えてきた一方、その後に林道をしばらく牧場へ向かって歩くと目に付く高座岩への案内板に誘われ、足を向ける人がどれほどいるだろうか。
 単調な林道を歩くよりか、高座岩から御所平峠までの気持ちの良い古道を歩き、案内に従って再び林道に下る方をお勧めしたいが、登り口で先行き不安になり迷う人が多いかも知れない。
 特に今の状態で、しかも雨でも降っていれば、二の足を踏むのは無理もないと言える。

 1472年だったか、京の都では応仁の乱の騒乱が始まっていたはずだが、身延山の第11代法主日朝上人がこの高座岩を訪れ、そこで説法を行ったという。しかし、今となってはそこに至る上人のたどった道が残っておらず、ならば何としてもお師匠の手で道を開けねばならないと、一念発起したようなのだ。
 2,3本も木を切ればかなり道は良くなると分かっていても、国有林とあってはそんなことをしたら大変なことになる。北原のお師匠も森林管理署に通い詰め、その挙句にようやくクマササを刈るだけの許可を得たのだというのだが、それだけでも大変なことだったらしい。

 少しでも歩く人が絶えなければ道は消えない。歩きづらくも林道からは10分程度で高座岩に達っする。眺望も良いので是非とも訪れて、眼下に「仏の谷」を眺めつ、遠い昔しを偲んでほしい。

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      ’24年「秋」(52)

2024年10月07日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 今朝も曇天、東の空にかろうじて太陽の位置が分かる程度の明るい部分が見えていなければ、まるで夕暮れ時かと錯覚を起こしてしまいそうだ。きょうの権兵衛山は霧をまとわず良く見えて、山腹の落葉松の葉は赤みを帯びた茶の色を一段と濃くしてきたのが分かる。

 きょうは第1牧区と第2牧区の境界に張ってある電気牧柵の一部を外し、他の部分は地面に落とす予定だ。いよいよ冬支度である。
 NMさんからの通信では、電気牧柵の設置がこの牧場ではすでに1977年には行われていたらしいとのこと、大いに驚いた。今も使われている古い方の機械は1994年製造の国産で、他にもソーラー発電を利用した物があったが、これもかなり古く、製造年は不明で現在は使用してない。
 小入笠に設置し現在も使用している電気牧柵とは、県が調査を兼ねて第1牧区に鹿対策用に設置した外国製で、この方が出力があるため、何年か前に小入笠のある第4牧区に使うために切り替え、代わりに距離が短い第1と第2の境界の一部に古くて出力の弱い94年製を使用している。

 恐らくこれらの電気牧柵が使われた理由は設置が簡単であったからで、70年代には鹿の害はまだそれほど深刻ではなかったと思う。
 入笠山の山腹に張り巡らされた電気柵は、呆れたことに入笠山の裏側の登山口、(ここは今「首切り登山口」などという名前が付いているが、古くからある名前は「仏平」である)近くにまで及んでいた。それもクマササの生い茂る中をである。
 第3牧区に設置されたソーラー発電の電気柵もやはり信じられないような林や渓の中に延々と続き、漏電、断線による牛の脱柵が後を絶たなかった。
 
 今では不適当な場所の電気柵は全て取り外し、あるいは新たに張り直し、電圧も一定以上を保持できるよう計測を怠らないようにしている。しかし、保守していくのは今後も大変であることに変わりはない。
 もしも有刺鉄線を張った通常の牧柵であったらと考えることもあるが、これだけ鹿が増えてしまえばやはり破られてしまう。鉄だかアルミの牧柵なら牛の脱柵は防げるし鹿も破ることはできないが、侵入を防ぐことは無理だし、そもそもそんな費用など出るわけがない。中古の軽トラに甘んじている者が宝くじを買って、メルセデスの新車を夢見るようなものだろう。

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      ’24年「秋」(51)

2024年10月05日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

       法華道の御所平付近を行く
 
 下界ではいまだ30度越えをしたとかいう話を聞いたりする。夏のしつこい名残は、幾歳になっても表舞台から退場できないあの人たちのように続いているのかと呆れるが、しかし、山はもうすっかり秋の季節に入っている。
 座頭沢の落葉松は水揚げを止め、焼き合わせのツタウルシは林を赤く燃やし、初の沢の大曲りにあるマユミの木は赤い実が一段と目立つようになってきた。
 今朝、車の前を横切っていった雄鹿奴は子づくりに励み過ぎたのか、虚ろな目をしていたし、最近よく見かける理想の高いあのキツネは、きょうも1匹だけで曇り空の下、御所平の森の中を彷徨っていた。

 今朝も見たが、まだ森の中にキノコ狩りをする人の姿があった。道路脇に停めてある車はすべてと言っていいくらい「諏訪」であり、伊那の人はここまでいわゆる「雑キノコ」を採りに来ようとはしないようだ。まだ採れるのかと訊いたら頷いていた。
 確かに昨日、法華道を整備していてヌメリカラマツタケを見付けた。「持っていけ」と言わんばかりに道を挟んで2か所、クマササの下にあった。写真は撮ったが、キノコは持ち帰らなかった。
 そのままでもいいと思って残してきた。良い味噌汁の具にはなったかも知れないが、そんな使い方ではもったいない気がしたのだ。



 御所平といえば、宗良親王と並び北条高時の遺児時行がここに逼塞したと伝えられるが、その時行を主人公にした漫画の人気が高いらしい。「逃げ上手の若君」という題名だと聞くが、彼の生涯から考えるとあまり似つかわしいとは思えない。
 以前にアウトドア関連の雑誌「Fielder」に時行のことを書くため、フリーライターの宗像充氏がここへ来たとは呟いた。後に記事が掲載された雑誌(vol.74)を送ってくれて、そっちの方は大いに参考になり、大変有難かった。
 この記事では触れていなかったと思うが、時行が熱田神宮の神官の娘に生ませた子の子孫こそが、幕末の偉人横井小楠(号)に当たるという話を、苦難の生涯を送った時行のために信じたい。

 深まる秋を求めてお出かけください。
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      ’24年「秋」(50)

2024年10月03日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

     この古道、法華道を歩いてみたくはないか
 
 昨日も、雨が降り出す前の少しの時間「法華道」へ行って草刈りをしていた。あそこにいると、いつものことながら延喜式に記されているというもう一つの古道「石堂越え」のことが気になってくる。
 こちらの方は法華道よりかもっと古く、5世紀に入って日本に馬が入ってきて以降、信濃国(長野県)がその最大の生産地となっていったころに、甲斐(山梨県)にも同様の牧があって、都へと馬が送られる際にはこの古道、石堂越えを通ったと伝え聞いている。
 
 以前は、大阿原から富士見へ下る少し先、右手に「石堂越え」の標識があったが、今は取り除かれて通行止めになっている。このあたりの事情は富士見に聞いてみなければ分からないが、どうがもこの古道がテイ沢のどこかを通り、小黒川の川床を進み、半対峠を超えて・・・、遠く奈良や京の都まで通じていたらしい。
 あくまでも口碑の類に過ぎなく、もう少し詳しく知りたいと思いながらも、歴史の迷路は深く果てしなくて遂げずにいる。

 そういえばきょう、伊那のケーブルテレビがテイ沢の取材に来ることになっていたが、天気が良くないということで中止になった。
 もし予定通り来たら、先日触れた「開道記念碑」のことも話そうと思っていた。この碑については、この独り言を聞いてくれたある親切な人が不明な個所も書き添えて全文を送ってくれた。そして、正確な文章が知りたいともあった。
 
 いくつかの個所は判読できた。それでも意味不明な個所も残った。正確を期すため、もしかしたらと、高遠支所の知人のT君に尋ねたら調べてくれ、支所にあった原文を翌日には送ってくれた。実に素早く有難く、今それがPCの中にある。
 碑の方は西暦(1963年)で、原文の方は和暦(昭和38年)といったように、他にも若干相違するところもあった。
 資金的な問題だろう、碑は石ではなくコンクリートである。遅かれ早かれ読むことはできなくなり、この「入笠牧道」建設の経緯は後世に伝わらなくなってしまうに違いない。いや、入笠山の伊那側一帯が、かつて牧場であったことさえも、同じ運命をたどるかも知れない。

 きょうの写真は、一部の人の間で「オタマジャクシの池」と呼んでいる小さな池塘と、その横を通る法華道。

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      ’24年「秋」(49)

2024年10月03日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 一仕事終えて、森から帰ってくる。第1牧区の中に停めておいた車に戻り、刈り払い機や他の道具をそこに積み込む。そして、牛のいない放牧地を眺めていると、まだ緑の色を残す草原だけでなく、夕暮れの空や、背後の森が何とも言いようのない安堵感、平安を与えてくれる。
 霧ヶ峰、美しケ原、幾重にも続く山並みの向こうに北アルプスの見知った峰々が見え、その中でも広大な台形の美しケ原を目にすると何故か落ち着く。
 やがてつるべ落としの秋の日が落ち、夜へと移行しようとする晩景の中にいて、満ち足りた思いが穏やかな快感となって全身を満たす。もし煙草があれば、長い間の禁煙を破って吸ってしまったかも知れない。

 きょうは午後から雨になるようだ。古道法華道の草刈りの跡を片付けたいと思っているし、必要でなくなった電気牧柵の冬支度もそろそろ始めたい。第1牧区の鹿対策用に張り巡らした電気牧柵の回収も、この秋の仕事の予定に入っている。
 この電気牧柵は県が調査を兼ね鹿対策用に設置してくれたものだが何年も経ち、今では効果は期待できないどころか、保守する手間だけが大きな負担となっていた。
 それと、前回に砕石2立米を入れたあの作業道にはさらに倍くらいの量を入れて、少なくも3トン程度のトラックが上まで行けるようになれば、放牧以外の仕事が確実に増える。
 
 ただし、この18年の間ずっと考えてきた牧場の将来の活用方法については、一管理人の分を超えている。残念だが、今以上のことには手を出さないで次の世代に期待するしかない。
 これについては、どれほどお慕い申し上げても振り向いてくれなかった人のように、入笠への思い入れは誰にも負けないつもりでいても、分不相応な人間の岡惚れのような結果となって、終わりとする。

 権兵衛山が雲の中に隠れてしまった。この後しばらくしたら雨になるだろう。曇天の日の、森の中の味わい深い静けさをお裾分けできないのがもどかしい。
 
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      ’24年「秋」(48)

2024年10月02日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

   M42(再録)       Photo by かんと氏
 
 今、豪勢な星空を見てきた。午前3時半。この時間だと冬のダイヤモンドやオリオン座など、どれも冬を代表する星座である。極寒の夜空でなく、厚手のシャツ1枚でも耐えられる秋の季節に眺められて有難かったが、ただその分、「奇(くす)しき光」、不思議な光に対する畏敬とか尊崇の念は若干薄れたかも知れない。

 昨日は午後も遅くなって、少し法華道の草刈りをした。御所平にあるオタマジャクシの池から御所平峠までの一部で、大した距離ではない。きょうも、もう少し続けるつもりでいる。
 今や通る人も少ない古道である、あまり道幅を広くすると、それだけ踏まれる場所、位置が拡散してしまいクマササの繁茂を許してしまう。理想としては多くの人が歩き、踏み固められ、さらに自然と道幅も拡がっていけばいいだろうが、この古道を知る人や訪れる人は少ない。早晩消えてしまう可能性だってないとは言えない。

 伊那市の市報を見れば、市内のいろいろな場所地域で様々な活動が行われているようだが、およそ「入笠」の文字を目にすることはない。
 かたや、入笠へ来る人は徒歩や車でなく、すべからくゴンドラを利用してもらいたいはずの富士見町でも、道路や登山道の整備はよく行われていて、沢入、入笠湿原、入笠山登山口には水洗トイレまである。考えさせられる。
 御所平の地が遠く宗良親王や北条時行に繋がると言っても、もはや歴史の片隅に追いやられ、忘れられてしまったのだろうか。
 
 先日、11月になったら山梨から「甲州と信州を結ぶ最短の道だ」と言って、また10人ほどの人がこの古道を往復したいとする書置きがあった。これで3度目になるだろう。北原のお師匠亡き後は、法華道にとっては貴重な、有難い人々だ。
 そうそう、お師匠が切り開いた山道と並行するように、わずかだが古い昔からの道が分かり、そこを去年草刈りしておいたら、それなりの山道に還っていた。

 赤羽さん通信多謝、山本さん調べてみます。
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