久しぶりに山の本を読んでいる。たくさんの人の山行体験が綴られていて、似たような山に対する想い、感動、苦痛、恐怖などなど、忘れていた記憶が少し甦ってきた。
今もこうして山の中に暮らしているのに、その違いは唐辛子と胡椒ほどもあるだろうか。いや、もっとあるかも知れないし、そうでないかも知れない。どちらも大切にして、比較するのは止すことにする。
週末からきょうまで、キャンプ場や小屋は普段よりかも賑わった。そして皆がきょう帰っていき、またしばらくは一人の暮らしに戻る。
そうなると、寂しくないかとか、心細くないかと訊かれるが、そんなことはないといつも応えている。自分のことではなく、この境遇に他人を置いて想像すれば、そういう問いも分かるが、自分にとっては実際寂しくも、心細くもない。
里に下って一晩暮らせばまた違った気になるが、今ここにいてあの誰もいない家にいる自分を想像すると、その方が、うらぶれた他人のように思える。
同じように、76歳というのは確かに高齢、それも「後期」が付くというのに、普段はそうは思わずに暮らしている。これも、他の人を見て、その歳でそんなことをして大丈夫かと心配し、その姿や行動を自分と重ねて自重することならままある。
しかしそれよりか、年齢を意識するときは例えばまだこんな斜面を若い人よりか元気に登ることができるぞと前向きになって、喜んでいるときの方が多い。
結構生きたぞという余裕もあるし、昨年、今年と親しかった者と幽明を異にしたことで、あっちの世界への拒否感が薄れつつあるのかも知れない。
待てまて、そのときになったら見苦しい振る舞いをするかも分からない。こんなことを口走るよりか、先のことは分からないと、そう言っておいた方が無難だろう。
NHさん、通信拝読しました。第3牧区のある大沢山は古い富士見の小冊子には「小入笠」と誤記されているものがありました。そういう類の過ちは他にも散見され、気付いたときは、ここでも触れるようにしています。
今後、高遠総合支所と富士見町との連携はさらに良くなっていくと思いますから、こういう間違いは少なくなると思います。
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本日はこの辺で。