Photo by Ume氏
里の友人から電話が入り「折角新米をっ持っていったけれど不在で、犬もいなかった」と言ってきた。彼はHALの死を知らなかったようで、驚いていた。体調の優れない身でありながら、丹精込めて作った尊い米だから有難く頂戴することにして、帰ったら連絡すると言っておいた。
家を空けていると、こんなこともある。食料も少なくなってきたことだしきょうか明日、一度山を下りよう。
ここで暮らしていても、人との接触がないということではない。むしろ冬の間里にいて、炬燵に囚われている時の方が人と会わずにいる日が長く、多いかも知れない。だから孤独とか、寂しさは住む場所によって特に変わるわけではないし、それをあまり意識していない。ただ、今は往復2時間半の通勤時間がないこともあり、身体は楽だが、生活にアクセントのようなものがなくなってしまい、毎日同じような味付けの物ばかり食べているような、そんな気のする日々になってしまっている。
今は秋真っ盛りで、気掛かりな残留牛のことさえなければここでの生活に不満なぞあるわけがない、と普段は思っている。むしろ喜んでいるかも知れない。それにもかかわらずこんな暮らしを続けていると、あまりにも日々が平明・単純になり過ぎて、却ってそのことが不安の種になってくる。どうしてもチラリチラリと嫌な翳が差す。いつもなら姿を見せないのだが、それが見えてくる。
長旅の中で蓄積された疲労であればそれを癒すことができても、この疲労は、人生の長旅のうちに少しづつ忍び寄った疲労なので、癒すのは無理だろう。受け入れるしかない。
そういった意味では、あの牛たちには感謝すべきかも分からない。彼女らに翻弄され、その行動に一喜一憂しながら、その間は癒しようのない疲労など忘れていられるからだ。昨日も、薬物を使って牛の行動を制御しようとした案は、射手を依頼しようとした人に断られてしまって暗礁に乗り上げた。次なる策がないまま、日ばかりが過ぎていきそうだ。
今朝も霧が深い。牛の調教と根気の要る草刈り、きょうは喜となるか憂となるか。本日はこの辺で。