ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

丹波国大山荘 東寺百合文書より (歴博)

2016-04-17 16:51:26 | 古文書
昨年,世界記憶遺産に登録された東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)の中から,
複製とはいえ,大山荘の古文書が歴博の「歴史工房」に展示されていました。

まず,今回の古文書は,東寺百合文書ヒ函一七号

京都府立総合資料館のホームページを検索してください。
そして,「東寺百合文書WEB」をクイック
「函から」をクイックして
ヒ函一七号をさがして,クイック

「函/番号ヒ函/17/文書名丹波国大山庄地頭中沢基員請文」
が出てきました。

これが,歴博に展示されていた古文書です。

次に,大山荘
丹波国大山荘は,現在の篠山市の一部
東寺領です。

阿部猛・佐藤和彦編『人物でたどる日本荘園史』の中の
高橋敏子「鎌倉期の地頭領主制 ー丹波国大山荘と中沢基員」によると,
中沢氏が地頭としてこの地にやってきたのは,承久の乱以後,
承久の乱の勲功として,恩補されたらしい。

で,この古文書は,東寺と地頭との間で,下地中分が行われたことについての古文書。
高橋氏が言うには,
別の古文書(教王護國寺文書1-194)などの史料から読み解くと,
面積の上では,地頭方は領家方の5倍以上を有する中分であったそうです。
おまけに,
歴博の解説プリントには,この古文書の内容について,こう書いています。
「今後は東寺方の土地について地頭は一切関与しないことなどが記されています。
 鎌倉後期には,頻発した地頭と荘園領主の争いを解決するために, 
 こうした下地中分が幕府の主導によって盛んに行われました。」

しかし,
この永仁3年(1295年)の古文書以後も,
地頭の押領はおさまらず,応長年間(1311~12)には,東寺が地頭方を訴えて,相論を起こしているそうです。
(前述,高橋氏の論文による)


歴博には,この古文書の他,
「函/番号や函/26/文書名丹波国大山庄内検取帳」
も展示しています。
こちらは,百姓請に関する古文書です。


久しぶりに
高校日本史の教科書に出てくる
「下地中分」「百姓請」の実物(複製とはいえ)を見た気分です。


なお,東寺百合文書や東寺百合文書の世界遺産登録については,
朝日新聞2015年10月10日の記事「世界遺産に「東寺百合文書」「抑留・引き揚げ記録」」などをご覧ください。

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