ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

網干ロマン街道:大覚寺・西方寺

2017-11-24 13:49:20 | 日記 地域
2016年12月3日ATSUブログより一部抜粋(「  」の部分)

「安土桃山時代の当麻曼荼羅はとても大きく,
 最近,修復されたとかで,綺麗でした。」
→(今年もありました。市の文化財に指定されたそうです。
  当麻曼荼羅は左の枠にどうやったら極楽に行けるかを尋ねているシーン,
  右枠に極楽のシーンが描かれているそうです。
  隣には,観心十界図がありました。
  こちらは,六道などを描いており,極楽の当麻曼荼羅と好対照。
  大覚寺のウインドブレーカーを着た方が,
  法然さんの考えは,当麻曼荼羅の方だと言っていたのが心に残りました。)


(信長・秀吉・家康の禁制は,今年は展示はありませんでした。写真と解説のみでした。)

「どれも,網干に対して宛てたもので,
 網干に侵攻した軍勢が,網干の村人に乱暴狼藉をしてはいけない,などなど,
 といった内容で,
 網干の村人に対して出された安堵状となるわけです。」

「信長の禁制は朱印状です。
 あの有名な「天下布武」の朱印が押されています。
 天正4年(1576年)です。」(→これは網干あてです。)

「秀吉の禁制は,花押です。
 天正8年(1580年)のもので,「筑前守」となっています。」(→網干郷あてです。)

「家康の禁制は,家康の名前ではなく,
 「本多弥八郎」となっています。
 本多正信のことだそうです。
 慶長5年9月25日と書かれています。
 なんと,関ケ原の戦いの10日後です。(→網干三ケ村あてです。)

ちなみに,禁制(きんぜい)とは

禁制は元来,掟や禁制を告示するために作成された文書形式で,
鎌倉幕府・室町幕府が発出しており,
文書の発出,木札に記して掲示の場合がある。
戦国時代に至ると
寺社や町が戦争被害を避けるため,大名や武将に保護を求めて代価を払って申請,
これに応じて禁制が発出される場合が多くなる。
大覚寺の禁制はこの時期の禁制である。
江戸時代に至ると
制札(せいさつ)高札と呼ばれる木札の掲示が主となる。

と説明がありました。

やっぱり,本物の信長・秀吉・家康の禁制が見たかったです。


次に西方寺
大覚寺同様,浄土宗西山禅林寺派の寺院で,総本山は京都・永観堂です。

とても,むちゃくちゃ,素晴らしく・・・紅葉が綺麗でした。

だれもいないので帰ろうとした時,
ご住職が来てくださり,
涅槃図を見せてくださいました。

全くの間近,30センチ?(いや10センチ?)のところで涅槃図を見ることができ,
おまけにマンツーマンでお話が聞けて,感動でした。
江戸時代初めのころの涅槃図だそうですが,
とても線が細く,絵が細かく,人間も鬼も動物も
象とか麒麟とか,不吉と言われる猫も悲しんでいました。
筋肉隆々の鬼も
もちろん弟子や菩薩も悲しんでいました。
でも,お母様の摩耶夫人がお釈迦様を迎えに来ています。

ご住職のお話では,
平安時代ぐらいまでは,こんなにたくさんの人や動物たちに囲まれていなかったそうです。
鎌倉時代以降,周りが増え,
江戸時代にはもっと増えたそうです。

また,インドから始まって,
中国では,こういう涅槃図は壁画となって残っているそうです。
斑鳩寺でも,むちゃくちゃ大きな涅槃図を見たことがありますが,
ご住職は
大きな絵はどうしても雑になってねえ。
とのこと。
小さくても,ほんとに素晴らしい涅槃図でした。
最近,修復したそうです。

大覚寺も素晴らしいですが,
小さなお寺の小さな涅槃図でしたが,
今日,一番の感動でした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« JMOOC「妖怪の世界を探る ~... | トップ | JMOOC「妖怪の世界を探る ~... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記 地域」カテゴリの最新記事