破壊された広島の街が壁一面に拡がっていました。
河川だけはきれいだ。焼きつくされた広島。1945年 (昭和20) までの死者は約14万人と書かれている。
ちょっと読めないでしょうが、こう書いてある「御幸橋には大火傷を負って逃れてきた負傷者が群がっていた。カメラを構えたが、シャッターがきれない。20分ほどためらい、やっとの思いで、一枚目のシャッターをきった」
「助けて」「水をください」動く気力もない母親の胸にすがる幼児。「目を開けて、目を開けて」子供の名前を呼び続ける半狂乱の母親。
頭髪は焼けちぢれ、顔、腕、背、足のいたるところの火ぶくれが破れ、火傷の皮膚がボロぎれのように垂れ下がる。頬に涙が伝い、ファインダーを通す情景がうるんだ。
絵と写真が並んでた。どこを見て歩いてもその悲惨さに言葉がありません。ロシアの総攻撃が始まるだろうともいわれているウクライナの首都キエフ。「ウクライナを攻撃してはいない」とのたまうロシア。世界に耳を貸さないプーチン。焼け野原にならないことを祈るばかりだ。
「人影の石」この写真はよく紹介されています。銀行入り口の階段に腰かけていた人が、原爆の強烈な熱線によって、その腰かけていた部分が影のように黒くなっているのだそうです。
亡くなられた方々とその衣装など。コメントが一言ずつ。写真すらない方もいらっしゃる。
あの「原爆の子の像」のモデルとなったとされる少女の一生が語られていました。佐々木禎子さんの誕生は1943年(昭和18)。2歳の時爆心地から1.6kmの自宅で被爆。外傷もなかった彼女は6年生まで元気な女の子。しかし白血病を発症、わずか8ヵ月の闘病生活で12歳9か月という若い命を閉じるのでした。「生きたい」との願いを込めて折り続けた千羽鶴は1300羽以上だったともいわれているそうです。
彼女の歴史の最後の紹介はこれだったかもしれない。写真は1958年5月5日(昭和33)除幕式の時の様子。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽ともいわれているとのことです。
東館に向かう途中に外を眺めました。修学旅行生がグループに分かれてグリーンのユニホームを着たガイドさんのお話を聞いているようです。
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