今回の話題は静岡県三島市の 国史跡の 山中城址 撮影日2021. 6. 22日
コロナの渦中であるが、毎日の引き籠り状態ではダメと思い..........行ってきました
山中城址の説明は三島市のHPから拝借して載せましたので宜しく! 以下の説明です。
山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、
小田原に本城をおいた後北条氏によって番城(城主を置かない城)として築城されました。
標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及びます。
城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、
岱崎出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望のもとに見渡すことができます。
なかでも「障子堀」や「畝堀」は後北条氏の城に特徴的な堀の形で、
堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、
上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれています。
現在は、型くずれ防止のために芝生が張られています
「障子堀」「畝堀」が特徴的な緑豊かな史跡公園は、
「日本百名城」にも選定されています。
三島市の箱根道
山中城址の入り口(他にも有るがその内の一つ)
階段下の石畳は箱根旧街道
箱根旧街道は、江戸幕府が整備した三島宿と小田原宿の間を結ぶ街道
障子堀の一部が崩れているので補修中
障子堀
西櫓跡
障子堀
障子堀 本来は芝生などなく土がむき出しだったらしい
本丸堀
北の丸跡
北の丸跡
架け橋
架け橋
本丸跡
本丸跡
通路に木の根が異様に..........
本丸堀
山中城址から眺めたところ
天気が良ければ富士山が見えるはずだが........残念ながら..........
コロナの渦中であるが、毎日の引き籠り状態ではダメと思い..........行ってきました
山中城址の説明は三島市のHPから拝借して載せましたので宜しく! 以下の説明です。
山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、
小田原に本城をおいた後北条氏によって番城(城主を置かない城)として築城されました。
標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及びます。
城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、
岱崎出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望のもとに見渡すことができます。
なかでも「障子堀」や「畝堀」は後北条氏の城に特徴的な堀の形で、
堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、
上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれています。
現在は、型くずれ防止のために芝生が張られています
「障子堀」「畝堀」が特徴的な緑豊かな史跡公園は、
「日本百名城」にも選定されています。
三島市の箱根道
山中城址の入り口(他にも有るがその内の一つ)
階段下の石畳は箱根旧街道
箱根旧街道は、江戸幕府が整備した三島宿と小田原宿の間を結ぶ街道
障子堀の一部が崩れているので補修中
障子堀
西櫓跡
障子堀
障子堀 本来は芝生などなく土がむき出しだったらしい
本丸堀
北の丸跡
北の丸跡
架け橋
架け橋
本丸跡
本丸跡
通路に木の根が異様に..........
本丸堀
山中城址から眺めたところ
天気が良ければ富士山が見えるはずだが........残念ながら..........