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中国中央テレビ「東方時空」より(no.3)~ダライ集団の真相

司会:ではもう一方、拉巴平措につなげましょう。拉巴平措氏は現在チベット学研究センターの総幹事で前チベット自治区政府の副主席です。先ごろ拉巴平措氏ら4名のチベット学の専門家は国務委員新聞弁公室が招いた国内外メディアのインタビューを受けられました。拉巴平措氏は旧チベットの農奴の家に生まれ、チベットの平和解放などの一連の出来事を経験され、新チベットの発展と変わりざまをじかに見て来られました。中国社会科学院の博士課程の指導教官もされており、チベットの歴史、宗教、文化を突っ込んで研究されています。拉巴平措さん、「ダライ集団」とは具体的に何を指すのでしょうか、ダライ集団とダライ本人とはどんな関係なのでしょうか?

拉巴平措:ダライ集団は、いわゆる憲法なるものを制定している。この憲法では、元首がダライラマで、ガシャという政府を持っている。ガシャは完全かつ系統だった組織であり、後には亡命政府を支持したり、その指導を支持したりするような「蔵青会」等といった組織をもっている。


司会:公安部門の捜査では「3.14」事件は、所謂ダライ集団が計画し組織的に実施する「チベット人民大蜂起運動」の重要な一部分であることが明らかになったが、この運動の計画の目的は何でしょう?


拉巴平措:この所謂「大蜂起」とは、一定長い時間をかけて入念に計画組織されたものだ。中華民族が長年待ち望んだ北京オリンピックがまさに執り行われようという時、こうした事件を通じて世界的に注目を集め、北京オリンピックの成功を破壊するというのが目的である。しかもこうしたことによってさらには中国政府に圧力をかけ、中央政府との接触 話し合いが実質的な進展を見ない中いくつかの切り札を切り、しかる後には所謂「大蔵区」と「真の自治」を実現し最終的には所謂チベット独立の条件を作り出すことにある。


1950年初期、中央人民政府はチベットの平和解放の方針を公布したがチベットの地方政府の執政者と一部の追随者は中央政府に反対し、チベットの独立をやろうと戦争を準備し解放軍に対抗した。
当時のチベット軍は金沙江に沿って人民解放軍のチベット進軍に対抗したものの、チベット最先鋭を名乗る部隊は全滅し昌都が解放された。
昌都戦役でのチベット軍の敗北がチベット上層に与えたショックは大きく、多くの役人は当時の執政者の摂政 達礼の退位を主張、そこで16歳のダライラマタンツエンジアツオが自ら執政することになった。このときから14世ダライラマの政治的生涯が始まった。

1951年4月、中央人民政府はチベット地方政府とチベットの平和解放についての交渉に入った。5月23日、北京においてチベット平和解放についての『17条の取り決め』 が締結された。
1951年10月、拉魯・次旺多吉はチベットガシャ地方政府の人民解放軍18先遣部隊のラサ入城歓迎式に参加した。チベットに入城した解放軍は拉魯・次旺多吉に深い印象を与えた。

拉魯・次旺多吉:当初、共産党と聞くと我々は怖さを感じたものだった。というのも、それまで我々は外国のデマを沢山耳にしていた。共産党は人を食べる、子供を食べる、と。だから当時は私も本当に怖かった。昌都が解放され、解放軍がチベットに入ってきた。その時になってやっと、解放軍はそれまでに聞いていたのとは違うと思った。彼らは民衆に対しとてもよくしていた。民衆の病気もみてやる、当時は共産党も大変だったのに、それでもできうる限り民衆を救済した。

1955年、拉魯・次旺多吉はチベット青年参観団の団長として、チベット各地の代表50余人からなる団を率い北京の国慶式典に参加、また内地の20あまりの省や区を参観した。祖国の内地での目を見張るばかりの変化は彼らの心に強く残った。北京では毛主席が二回拉魯・次旺多吉等参観団の責任者と会見した。
内地へ行ったことで拉魯・次旺多吉の心は突き動かされた。しかし根本的なところでは彼はチベットでの民主改革の実施を恐れていた。といのも彼の利益は当時のチベットで行われていた封建的な農奴制と一致するものだったからである。

1956年、チベットでは民族区域自治の準備に当たるチベット自治区準備委員会が成立する。
第14世ダライラマが準備委員会の主任委員に就任。中央政府は、チベット上層人士を安定させるため、チベットでは6年間、つまり1962年末までは民主改革を行わないことを決定した。しかしチベット社会に潜在していた民主改革を求める変化はダライラマをトップとする少数の旧チベット地方政府の役人、貴族のパニックを引き起こした。

司会:1951年、ダライラマはチベットの代表として中央人民政府とチベットの平和解放のための『17条の取り決め』が北京で署名している。当時、ダライラマの、中央政府及びチベット
の平和解放についての態度はどうだったのでしょうか。

拉巴平措:この『17条の取り決め』に署名した全権代表は、当時チベト地方の主要な責任者であったダライラマ自らが決定し、派遣しているのだ。しかも調印後にダライラマ自ら、直接毛主席に電報でこの17条の取り決めを支持すると表明している。

司会:当時、ダライラマ及び一部役人や貴族達は民主改革をどうみていたのでしょうか。

拉巴平措: この改革がひとたび始まれば、先ずもってチベットの政教一致の制度がなくなってしまうだろう。なると、彼らの既得権、地位もなくなってしまう。だから変わることを大変恐れ、民主改革がなされるのを恐れた。

司会:当時、中央政府はこうしたチベットの実情を考慮し、6年間は民主改革を行わない、と決定した。しかし、ダライラマをトップとする少数の旧チベット地方政府の役人、貴族はかなり恐れた。そこで彼らのとった対策とは?


拉巴平措:当時中央政府はチベットのそうした情勢にかんがみ、6年間は民主改革をしないと決めた。中央政府が譲歩したのだ。しかしあの人達の言い分は、(民主改革について)私は6年しないのではない、私は永遠に変えない、政教一致の制度は永遠に続けるのだ、というのです。だから最後にはこうした社会制度を永遠に続けるため全面的な武装反乱を発動した。

司会:当時政教一致という制度を改革するということには歴史的にある種の必然性があったのでは?

拉巴平措:というのはそれがチベット社会の生産力をひどく阻害し、生存条件、生存環境が大きく影響されていたからだ。改革は押しとどめられない歴史的に必然的なものだった。

司会:民主改革の実行に対する農奴の叫びは高かった。というのも、それは彼らが代々受け継いだ農奴の身分から抜け出して自分の土地や財産を得ること、自分たちを抑圧してきた農奴主と対等な身分を得ることをも意味した。これも当時いくらかの農奴主たちが一番見たくないことだった。そうして既得権を守るために彼らは破れかぶれで反乱を起こした。
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