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中国中央テレビ「東方時空」より(no.4)~チベットの反乱

1959年3月、チベットの少数の上層分裂分子はやがては失う天国を守ろうと、横暴にも武装反乱を起こした。チベット地方政府は、中央政府と結んだチベット平和解放の取り決めを公然と破棄し「チベット独立」を宣言した。当時ラサに駐在していた中央政府代表代理はダライラマに何度も連絡し、チベット地方政府が即座に武装反乱をとめるように要求した。がダライはチベット地方政府の主要な役人とともにラサから逃げ出した。この後7000名の武装反乱分子がラサで解放軍に向けて全面進攻した。当時の大貴族、大農奴主であった拉魯・次旺多吉は、同集団の利益を守るため横暴にもチベット軍の総司令に就任するも反乱の勃発から2日もたたずに平定されてしまった。たった2日反乱軍の総司令となった拉魯・次旺多吉は平定にあたった人民解放軍に投降した。反乱は失敗しダライはこのときから亡命の生涯を送る。
反乱が平定されるとともに、多くの農奴の民主改革実施に対する呼び声はとても強かった。


拉魯・次旺多吉:古い制度がもたらしたものは抑圧と搾取であり、チベット人民はよしとしなかった。

1959年6月28日、チベット自治区準備委員会は会議を開きチベットで民主改革を進める決議が採択された。少数の者が発動した反乱が、ついには当時チベット総人口の95%を占めていた多くの農奴の運命を前倒しで、しかも徹底的に変えることになった。
チベットではすざましい勢いで民主改革が進められた。一方、反乱に失敗してインドに亡命したダライラマは中央政府の彼に対する寛容で粘り強い忠告をもかえりみず、おおっぴらに「チベット独立国家」を鼓吹し、所謂「チベット亡命政府」をつくり武装力を再建、チベットでの騒乱活動を何度も策動した。

司会:反乱失敗後、ダライは亡命生活に入った。彼は所謂「チベット亡命政府」を組織した。この「チベット亡命政府」とはどんな構成、趣旨と目的をもつのか?
引き続き拉巴平措氏につなぎます。

拉巴平措:彼らの言い方ではガシャ政府という。このガシャ政府はそもそも1959年の反乱以後、中華人民共和国国務院によって廃止された旧地方政府だ。旧チベット地方政府のメンバーが、この亡命政府の基本的なメンバーだ。

司会:亡命初期、ダライはどんなことをしたのか?

拉巴平措:まず彼は力を集めた、追随者を結集した。そして国際的な呼びかけを行った。
特に当時わが国が国連で議席を回復していない中、国連に対して国際的な声援と支持をよびかけるよう働きかけた。

司会:当時、チベットの武装反乱とダライの「チベット亡命政府」は国際的な反中勢力の支持を得たのでしょうか?

拉巴平措:もちろん反中勢力の支持はあった。

アメリカ国務省は1950年12月20日、イギリスの駐米大使に備忘録を手渡し、トルーマン政府のチベットの地位に対する政策の変化をはっきりと表した。備忘録には、アメリカは、中国がチベットに対する主権を有するという主張をしっかりと記憶し、アメリカ政府はこの主張に対しこれまで疑念を示していない、としながらも次のようにも言う。もしもしかるべき発展があればチベットがひとつの独立した「国」であることを考慮する、と。1954年アメリカの中央情報局はチベット族から特務をつのり、台湾で訓練し、彼らをチベットに戻らせ、テロや面倒を起こすようにした。この特務の実際の組織者はダライの2人の兄、晋美土登諾布と嘉楽頓珠で、晋美土登諾布自身もこの訓練を受けている。後にアメリカはまたコロラド州でも170人の康巴遊撃隊を訓練した。アメリカ人は武器を国境からこっそりとはこびこんだり、空中から投下する等の方法で、これら特務がチベットについてすぐに活動できるようにした。これらの者はすぐにチベットで役割を発揮した。彼ら自ら中央政府派遣の現地駐在機関や部隊を襲撃するほかに、反乱組織である四水六崗、反乱武装衛教軍 をつくり、人々を扇動した。
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