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《大阪城こま犬観光大使》活動開始

=== 華僑報に載った投稿記事です。===

《大阪城こま犬観光大使》活動開始
                           大阪城狛犬会 伊関 要


大坂城のこま犬の正しい由来を書いた説明板の設置を求める署名はこちらから

 恒例の花見会、華僑総会の皆さまは大阪城のこま犬前で集合されます。毎年、私もお招きを頂きこま犬前でその由来や思いをお話させて頂いています。

 大阪城のこま犬は中国侵略戦争時の日本軍による略奪文化財でした(1937年)。こま犬返還と侵略の戒めのための複製建立を求め私たち日本の市民が声を上げました(1983年)。中国はその声に応え「こま犬返還の申し出は日本人民の友誼の気持ちの表れである」として、こま犬を改めて“友好の証”として大阪市に寄贈してくれたのでした(1984年)。大阪城のこま犬はその文化財的価値もさることながら、“略奪文化財”から“友好の証”に生まれ変わったという歴史的経緯にこそ貴重な観光資源としての真価があります。《大阪城こま犬観光大使》はこま犬の存在を内外に伝える平和の使者として活動を開始しました。具体的には、吉村洋文大阪市長宛の「大阪城のこま犬の正しい由来を書いた説明板設置を求めるインターネット署名(http://oosakajokomainu.net/)」のPRです。のぼり旗をおし立てそろいのはっぴに身を包み月に一度大阪城にくり出します。2018年は日中平和友好条約締結40周年の記念すべき年で折しも犬年です。このことを踏まえて、こま犬前でのイベントなども企画していきたいと考えています。


大坂城のこま犬の正しい由来を書いた説明板の設置を求める署名はこちらから

 ところで、昨年暮12/7の毎日新聞朝刊に大阪城のこま犬が大きく取り上げられました。「大阪城のこま犬の正しい由来を書いた説明板設置を求めるインターネット署名(http://oosakajokomainu.net/)」の紹介と併せて佛教大非常勤講師の塚崎先生の取材記事がありました。提供を受けた当時の新聞記事などの史料から略奪されてきたこま犬が戦意高揚に利用された経緯がわかります。長くなりますがその部分を12/7毎日新聞から引用します。「(こま犬の写真が載った)1938年4月の大阪朝日新聞で、同社が兵庫県西宮市で開いた『支那事変聖戦博覧会』でこま犬の展示が人気を集めていることを伝えていた。写真の記事の前日には、こま犬は天津市政府の門前にあり、37年7月、日本軍の空爆による風圧で転がったが無傷で助かったという記事もある。38年10月の大阪毎日新聞は『大阪城に新名物』と、こま犬が大阪城内に置かれたことを伝えた。大阪陸軍兵器支廠の正門前に据えられたのだった。こま犬はその後、山里丸付近に移された。40年に戦争資料館『大阪国防館』ができ、その前に置かれたのだ。大阪国防館開館に当たり、紹介記事が40年3月の大毎小学生新聞にある。『まづ国を護れ/国防知識が一目で得られる』という見出し。飛行機の模型やパノラマなどで近代戦を示す部屋、満州事変からの遺影や遺品、靖国神社に参拝する天皇・皇后の写真を掲げた部屋、兵器を展示した部屋などがあったようだ。つまり、国に忠義を尽くして勇敢に戦い、死ねば美化されると教える施設だった。話はそれるが、この記事の前文に『国防の鉄壁は、平和を招く扇』とある。近年似たような理屈をよく聞く。国防館は2年で閉館。当時、大阪城は砲兵工廠などがあり、軍事機密を守るため、市民の自由な出入りも禁じられたからだ。」


大坂城のこま犬の正しい由来を書いた説明板の設置を求める署名はこちらから

 このように、大阪城のこま犬は多くの史実を私たちに教えてくれます。歴史を映す鏡です。こま犬が映し出す史実からくみ取るべき教訓とは何でしょう。それは、日本の国民、市民が、二度と侵略戦争の過ちを犯さないよう日本政府を監視、コントロールすることです。そのためにも、歴史の隠蔽や歪曲を見逃すことはできません。これが「大阪城のこま犬の正しい由来を書いた説明板設置を求める」運動の本旨です。かつての侵略戦争をおし止められなかった日本人としての責任を果たすべく取り組んで行きたいと思います。

大坂城のこま犬の正しい由来を書いた説明板の設置を求める署名はこちらから


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