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チベットは中国の一部である~ダライ集団は「チベット独立」をいかにしてでっち上げているか

                                              葉川寧

 1954年ダライラマはパンチェンとともに、北京で行われた第一次全国人民代表大会に参加した。中華人民共和国の憲法を採択したこの会議で、ダライラマは全国人民代表大会の常務委員会の副委員長にも選ばれている。その時のダライラマの映像 は中国の各種メディアで見ることができる。そして1959年のインド亡命。チベットの平和解放初期 のダライラマを評してジキルとハイドのようだ、という人もいる。中国の国会である常務委員会の副委員長の職務から「トンコ」したダライラマは、アメリカの情報機関から資金援助を受け、日本のオウム真理教などともつながりながら「チベット独立」をでっち上げている。
 湯川れいこをはじめとする一部文化人がいかにダライを「亡命平和主義者」と美化しようとチベットは独立の国であったことなど一度もない。
 以下では、ダライを「法王」と仰ぐ「ダライ法王庁」の紹介を見ながらダライ集団がいかにして「チベット独立国」をでっちあげているかを見てみることにする。
(ダライ集団の文章は赤番号1~6を参考にされたい)


 まず、1、2の段落ではチベットという言葉が6個でてくる。政治的概念の「チベット」であり、特に段落ではこの「チベット」は人のように心配するものとして表現されてもいる。

1.注目に値するのは段落である。ここで突然「チベット政府」なるものが出現する。それまでの段落では、全て「チベット」という言葉であったもの が、ここでは突然「政府」に変えられている。これが「チベット独立」の正当化トリックその1である。

2.また、特に「中国の越権行為」としているが、これがトリックその2である。何故1,2の段落で「チベット」、「清」としているのをわざわざ「チベット政府」「中国」と変えて使っているのか。「チベット政府」はすでにあったものとでっち上げ、「中国」はけしからん、という印象を読者に植え付けるためである。

3.段落は「チベット政府」の主権を「証明」するくだりだ。
「チベットの主権」の根拠は、イギリスが「チベット」と単独で不平等条約「ラサ」を結んだ。だから「チベット」の主権が証明されるというのだ。
 事実はどうであったのか。清朝は理藩院を置き、チベットはそこの管轄に置かれていた。清朝は「アンバン」と呼ばれる大臣を「チベット」に派遣していた。「チベット」は「清朝」の主権下にあったことは紛れもない事実である。「ラサ条約」について言えば、これは主権を損なうもの、ということで清朝の大臣は署名を拒否、結局「ラサ条約」は無効になってしまった。しかし、ダライ集団はこの無効になったことについては語らない。意図的にかたっていないのである。これが「「チベット独立」トリックその3である。

4.段落にくると段落で述べた、「チベット」の主権なるものが自己撞着をおこしている。今一度段落の青色部分段落の青色部分に注意してみよう。何故イギリスは、「チベット」を蚊帳の外において「清」と条約交渉、締結をしているのか。「チベット」が依然として清朝の主権下にあったからである。語るに落ちるとはこのことである。しかし段落に入ると「チベットは独立国」なる言葉がこれまた突然に出てくる。清のチベットに対する主権はいかに言辞を弄しても否定できない。そこでダライ集団が持ち出すのが「宗主権」である。ここがみそである。
そもそも「宗主権」とは、帝国主義者が他国の主権を否定するために作り出したものである。清朝が署名しなかったことで「ラサ条約」がおじゃんになった、ということは上述の項目で見たことである。やがて起こる辛亥革命の胎動の中、イギリス帝国主義が清朝の弱体化のすきに乗じて作り上げたのが清朝の「チベット」への「宗主権」なるものである。しかしその時でさえ、イギリスの相手は「清」であり、「清」は依然として主権国家であり、「チベット」はその主権下にあったのである。いかにして「チベット」を「清朝」の主権から切り離すか。英領インドの北部はロシアとの争奪の地である。いかにしてイギリス帝国の領土拡大を進めるか。「ラサ条約」は「清朝」の拒否にあい無効になっている。イギリスは手法を変えた。「チベット」が「清朝」の支配下にないことを既成事実化することがそれである。
イギリスはどうしたのか。ロシアとの間で「英露協商」を締結、清朝の「チベット」に対する主権を「宗主権」なるものに改竄したのだ。そして、ダライ集団はイギリスとロシアの二つの帝国主義が世界で最初に使った言葉「宗主権」をもって、「チベット」を「独立国」とまで言い切っている。しかしそれでも「清朝」の主権は「チベット」に駐在する総督「アンバン」という形で存在していた。このゆるぎない史実をいかに抹殺するか。

5.段目になるとダライ集団の史実歪曲もいささか乱暴である。帝国主義者の「首領」と西側の書物でさえ表現する「カーゾン卿」を持ち出し「実際のところ、ラサにいた清の2名のアンバンは総督でなく大使なのです」と片付ける。ここまでくると、「チベット」独立のトリックも圧巻というべきである。「アンバンでなく、総督でもなく、大使でしかない」、これが結論である。ダライ集団は、今度はまたぞろ「宗主権」なる言葉をもって、「チベット」が独立国家であった、と結論付けているのだ。


以上1857年から-1911年に限ってみても、ダライ集団の歴史観では「チベット」から「チベット政府」そして「国」「独立国」と文中でどんどんと変えている。これは単に文字面の違いではない。史実の改竄である。「チベット」が「独立国」であったということをデッチあげるために使い分けているのだ。その依拠するところはイギリスを始めとする帝国主義争奪における不平等条約である「ラサ条約」、しかしそれとて「清朝」の拒否にあいおじゃんになった。そこで今度は帝国主義者の「首領」カーゾンを引用し「宗主権」なるものをもって「チベット」独立国をでっちあげている。「チベット独立」を認めてくれるなら平気で下心ある外国勢力(帝国主義者)にも頼る、ダライ集団の本質は以上見た歴史にかぎっても見て取れるではないか。



以下はダライラマ法王 日本代表部事務所の「チベットを知るために」から引用、各段落番号、囲み記号等は葉川がつけている



18世紀の末以降、イギリスはチベットとの通商にますます強い関心を寄せるようになった。以前はラサと強く結びついていたヒマラヤの小国たちが、条約や協定などを通じてことごとく英領インドに従っていく状況を見て、チベットは、イギリスが言い寄るに任(まか)せれば、やがては自分たちも近隣国の二の舞になると心配した。そこでダライ・ラマ13世は独立を貫徹した。この政策は、何よりもロシアの南下を恐れていたイギリスを苛立たせた。チベットがロシアの手中に収まることになれば、中央アジアの勢力バランスが崩れてしまう。


チベットとの有効な話し合いの場がもてずにいたイギリスは、清に近づいた。清に対して、チベットが協調的な態度を取るよう協力してほしいと願い出たのである。イギリスのこの努力は実を結び、チベットに関する条約を盛り込んだ条約が、1890年と1893年の2度にわたり、チベットの知らない間に英清間で取り交わされた。


チベット政府はこれを中国の越権行為だとして拒否したため、1903年には英国軍の侵攻を招くことになる。清はもはやチベットに援軍を派遣することもなく、アンバンのユタイが以前警告したように、チベットが独自に行った判断については、清が責任を負う筋合いはないとした。翌年、イギリスはチベット政府と双務的なラサ条約を結び、英軍は1年も経たずにラサから引き上げた。


ラサ条約の規定は、内政外交の両面にわたり、必然的にチベットの主権を前提としていた。そうでなければ、イギリスが条約に書かれた権限をチベットから委譲してもらうことなどできないはずである。ラサ条約にはチベットと清の独自な関係についての言及がなく、それが結果的に、チベットを条約締結能力のある国として認めたことになった。


[一方、ラサ条約で実質的にチベットの主催を認めたイギリスは、同時に清の取り込みにも力を注ぎ]1906年、清を味方に付ける努力が実り、イギリスは清との間に北京条約を締結した。このとき、チベットはまたもや蚊帳の外だった。この北京条約と1907年の英露協商[チベットに関するイギリスとロシアの協定]では、イギリスがチベットで活動することが一定限度認められ、他方ではチベットに対する清の「宗主権」が承認された。
しかしこういった内容は、チベットにとっても清にとっても受け入れがたいことだった。
1908年、清がチベットにふたたぴ軍を進めると、イギリスはチベットとの通商に関して清と英清条約を結びなおした。なお、このときチベットは、独立国として参加することができなかった。


イギリスが用いた「宗主権」の概念については、インド総督のカーゾン卿が次のように述べている。
チベットに対する清の宗主権というのは、条約上の方便です。
それはたんに政治上の言葉のあやであり、それが支持されてきたのは、両当事国にとって単に都合がよかったからに他なりません。 (中略)
実際のところ、ラサにいた清の2名のアンバンは、総督ではなく大使なのです。


 中国中央テレビの次のページのビデオではダライの全人代での様子、その後の中国各地の参観の様子を見ることができる。http://news.cctv.com/china/20080405/100033.shtml
ダライラマが毛沢東に送った電報など貴重な資料は中国档案館のホームページ
で見ることができる。お勧めです。http://www.saac.gov.cn/pages/front/flashshow.jsp
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