『赤ちゃんポスト』渦巻く賛否
事情があって親が育てられない新生児を受け入れる、いわゆる赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」を、熊本市の慈恵病院が設置する計画を進めている。ドイツではすでに導入しているが、実現すれば、国内初となる。子どもの命を守る試みか、安易な育児放棄を招く結果となるのか。同病院にも賛否両論の意見が多数寄せられているという。設置の狙いは何か。同病院の蓮田太二理事長(70)に聞いた。
「誤解されやすいが、こうのとりのゆりかごは、あくまで赤ちゃんの生命を守るための緊急避難の手段。ゆりかごに置いた後でも、母親が名乗り出て了解すれば、里親の元に行くのも早い。赤ちゃんさえ無事なら、母親にも冷静に考える時間ができる」
三年がかりで構想を温めてきたカトリック系の慈恵病院理事長の蓮田氏は、その狙いをずばりこう話す。
若すぎる。結婚していない。お金がない-。赤ちゃんを育てられない事情は、さまざまである。同病院では五年前、必ずしも望まない妊娠に悩む女性から相談を受ける「妊娠かっとう相談窓口」を設置。どうしても育てられないという場合は、出産の前後から里親の候補者を引き合わせ、円滑に特別養子縁組をさせる試みを続けてきた。
それがゆりかごにつながったのは、熊本県内でも新生児置き去り事件が何件も発生したことだ。蓮田氏は「赤ちゃんは社会の宝。その生命だけは守らねば」と決意。多くの保育園や病院が新生児を匿名で預かり、里親の窓口になっているドイツを視察するなどして、構想を練ってきた。
すでに警察や市役所などに何度も足を運び、近く保健所に病院の一部を用途変更する許可を申請する段階にまで来た。では、ゆりかごのシステムはどういうものか。
■目立たぬ所に保育器を設置
ゆりかごは人目につきにくい病院東側に扉(縦四十五センチ、横六十五センチ)をつくり、内部には適温に保たれた保育器を設置する。ここに赤ちゃんが置かれると、待機中の看護師のブザーが鳴って駆けつける。
扉の前と保育器には母親にあてて「秘密は必ず守る。とにかく病院を信じてまず相談を」という内容のお知らせと手紙も置く予定だ。母親が名乗り出て、自ら育てるか、親権放棄して里親に引き取ってもらうかを決めてもらう。これが大原則。名乗り出てくれない場合は、警察や市役所、児童相談所などと連絡を取った上で施設に引き渡す。
現実には、赤ちゃんを置いた母親が名乗り出る可能性は決して高くなさそうだが、蓮田氏はこのステップを非常に重視している。同病院ではこれまでに数件、妊娠相談の一環で、母親が育てられないと親権放棄に同意し、生後間もない赤ちゃんを里親に引き渡したことがあった。その時の経験が大きい。
「真の親が分からないということは親権放棄の同意も不明確になる。里親の元に行くにしても非常に時間がかかり、あまりうまくいかない。同意があれば、赤ちゃんが退院する生後五日目くらいには引き渡せる。里親には泊まり込みで育児教育も受けてもらったが、その喜びようはかぐや姫の物語のようで、里親の本当の子どものようになれる。愛情の持ち方がまるで違う」
構想は今月九日に報道され、その後、賛否両論を合わせメール六十通、電話は田尻由貴子看護部長が受けただけで二十件を超えた。
「赤ちゃんのごみ箱を作るつもりなのか」「子どもを捨てられると安易に喜ぶ若者を増やす」「中途半端に助ければ、かえって不幸を招く」
捨て子を容認、助長するとの反対論も多いが、「よく勇気をふるって決断してくれた」「支援させてほしい」と募金も数多く寄せられているという。
蓮田氏は「ドイツでも賛否両論ある。まして前例のない日本でいろいろな反応が出るのは当然。とにかく医療の原点は生命の尊さにあり、この構想は実現しなければいけないという気持ちに変わりはない」。
では、ゆりかごに収容された後の赤ちゃんの法的位置付けはどうなるのか。
熊本県子ども家庭福祉室によると、現行法では「捨て子」の場合、発見者が警察などを通じて二十四時間以内に市町村長に連絡。同時に児童相談所に通告する。市町村長は二週間以内に赤ちゃんの名前をつけて戸籍をつくる。児相は乳児院などへの入所措置を決める。
また、母親が判明した場合でも、児相が乳児の状況や家庭環境などを踏まえて、乳児院など施設入所の措置をとるのが多いという。
吉田勝也・同室長は「置いていった母親が保護責任者遺棄罪に問われないのか、という問題もある」と話す。その上で「効果や是非については何とも言えない。推移を見守りたい」。
病院から施設の用途変更の許可申請相談を受け、熊本市は「どの法律に触れるのか否かも分からないので、どうすればいいかを検討している」。
子どもをゆりかごに入れた親は保護責任者遺棄罪に問われないのか。筑波大学の土本武司名誉教授(刑法)は「赤ちゃんが生存するために適切な措置をする病院に置いてくるので、通常、発見されないような山に捨てるなどとは違い、同罪には当たらないと考えられる」。
その上で「今回の設置が法的に認められ、全国の病院にゆりかごができたら、苦労しても育てるという通常あるべき努力を放棄してしまう可能性がある」と懸念も示す。
現在、里親約百数十組が登録し、これまでに約二百九十件の特別養子縁組をしている岡山県医師会の「岡山県ベビー救済協会」の堀章一郎理事長は「母親が名乗り出なければ協会では特別養子縁組はできない。熊本のゆりかごでは、母親は名乗り出ないことが多いのではないか。結局、病院で受け入れただけで、後は行政による施設行きになるだろう。また、諸外国のように後ろ盾がないので、経済的にも病院が単独で運営していくのは大変だろう」と指摘する。
■先行ドイツはすでに80施設
「養子と里親を考える会」代表で、お茶の水女子大の湯沢雍彦名誉教授(法社会学)によると、ドイツでは六年前から「赤ちゃんポスト」がスタート。現在、八十近くの施設があるという。背景には「設置前年に遺棄された約四十人の子どもの半数が亡くなったことがある」という。
ドイツでは乳児を保護した後、里親に八週間預け、その間に養子縁組を探すシステムになっているという。「日本でも、子どもがほしい親はたくさんいる。児相はもっと積極的に養子縁組を進めるべきだ。まず赤ちゃんの命を救うという点で、今回の取り組みは評価している」と話す。
厚生労働省によると、二〇〇〇年までの統計で、日本では年間二百人前後の「捨て子」があるという。
お茶の水女子大子ども発達教育研究センターの榊原洋一教授は「育児放棄など虐待も少しずつ増加。年間五十人の子どもが虐待で命を失っている。育児力が十分ない若い夫婦も一定程度いる」と指摘しながらも、「育児支援の一つとしての試みとして賛成する」と評価する。
そして、こう指摘する。「ぎりぎりまで踏ん張り、最後は病院に置けるということが、親の心の余裕につながる可能性もある。日本に根付くかどうかは分からないが、始める前から反対すべきではない」
<デスクメモ> 世の中にはさまざまな事情があって子育てができない親がいる一方、子どもに恵まれない親もいる。その窓口役として両者を結ぶ選択肢が広がることは歓迎だ。ドイツでは母子の救済につながった事例もあると聞く。セーフティーネットのひとつの在り方として、こうした試みがあってもいいのではないか。
(2006年11月 東京新聞より)
「赤ちゃんポスト」拡大に慎重論 厚労相・少子化担当相
保護者が育てられない新生児を預かる「赤ちゃんポスト」について、柳沢厚生労働相は23日の閣議後会見で、「失われなくてもいい小さい命が生後継続できるという非常にありがたい面がある一方、子どもを他に委ねてしまうのを助長する懸念がないのか」などと述べ、今後拡大することについては慎重な姿勢を示した。
また、高市少子化・男女共同参画担当相も、赤ちゃんポストの設置が人工中絶や遺棄により失われる命を救うことにつながるとしながらも、「無責任に子どもを捨ててしまうというようなことが促進される結果になっては元も子もない。議論を深める必要がある」と懸念を示した。
赤ちゃんポストは、熊本市の慈恵病院が設置を市に申請。厚労省は22日、同市に安全や健康への配慮を要望しつつ「法律に違反しない」として設置を認める見解を示した。ただ、柳沢厚労相は「今度のことは法律的な検討をした」として政策的に推進する意図はないことも強調。「もともとが非常に難しい問題。熊本の状況を慎重に見ていくという姿勢が必要だ」と述べた。
(2007年02月23日 朝日新聞より)
とても解決の糸口が見つかりにくい問題だと思う。「赤ちゃんポストに預けられた赤ちゃんを育てられる環境の整備」・・・「赤ちゃんポストができた事で、避妊をせず赤ちゃんを産み、赤ちゃんポストに預ける人達が増えるのではないか?」など、本当に慎重に導入を考えなければならない問題だと思う。
事情があって親が育てられない新生児を受け入れる、いわゆる赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」を、熊本市の慈恵病院が設置する計画を進めている。ドイツではすでに導入しているが、実現すれば、国内初となる。子どもの命を守る試みか、安易な育児放棄を招く結果となるのか。同病院にも賛否両論の意見が多数寄せられているという。設置の狙いは何か。同病院の蓮田太二理事長(70)に聞いた。
「誤解されやすいが、こうのとりのゆりかごは、あくまで赤ちゃんの生命を守るための緊急避難の手段。ゆりかごに置いた後でも、母親が名乗り出て了解すれば、里親の元に行くのも早い。赤ちゃんさえ無事なら、母親にも冷静に考える時間ができる」
三年がかりで構想を温めてきたカトリック系の慈恵病院理事長の蓮田氏は、その狙いをずばりこう話す。
若すぎる。結婚していない。お金がない-。赤ちゃんを育てられない事情は、さまざまである。同病院では五年前、必ずしも望まない妊娠に悩む女性から相談を受ける「妊娠かっとう相談窓口」を設置。どうしても育てられないという場合は、出産の前後から里親の候補者を引き合わせ、円滑に特別養子縁組をさせる試みを続けてきた。
それがゆりかごにつながったのは、熊本県内でも新生児置き去り事件が何件も発生したことだ。蓮田氏は「赤ちゃんは社会の宝。その生命だけは守らねば」と決意。多くの保育園や病院が新生児を匿名で預かり、里親の窓口になっているドイツを視察するなどして、構想を練ってきた。
すでに警察や市役所などに何度も足を運び、近く保健所に病院の一部を用途変更する許可を申請する段階にまで来た。では、ゆりかごのシステムはどういうものか。
■目立たぬ所に保育器を設置
ゆりかごは人目につきにくい病院東側に扉(縦四十五センチ、横六十五センチ)をつくり、内部には適温に保たれた保育器を設置する。ここに赤ちゃんが置かれると、待機中の看護師のブザーが鳴って駆けつける。
扉の前と保育器には母親にあてて「秘密は必ず守る。とにかく病院を信じてまず相談を」という内容のお知らせと手紙も置く予定だ。母親が名乗り出て、自ら育てるか、親権放棄して里親に引き取ってもらうかを決めてもらう。これが大原則。名乗り出てくれない場合は、警察や市役所、児童相談所などと連絡を取った上で施設に引き渡す。
現実には、赤ちゃんを置いた母親が名乗り出る可能性は決して高くなさそうだが、蓮田氏はこのステップを非常に重視している。同病院ではこれまでに数件、妊娠相談の一環で、母親が育てられないと親権放棄に同意し、生後間もない赤ちゃんを里親に引き渡したことがあった。その時の経験が大きい。
「真の親が分からないということは親権放棄の同意も不明確になる。里親の元に行くにしても非常に時間がかかり、あまりうまくいかない。同意があれば、赤ちゃんが退院する生後五日目くらいには引き渡せる。里親には泊まり込みで育児教育も受けてもらったが、その喜びようはかぐや姫の物語のようで、里親の本当の子どものようになれる。愛情の持ち方がまるで違う」
構想は今月九日に報道され、その後、賛否両論を合わせメール六十通、電話は田尻由貴子看護部長が受けただけで二十件を超えた。
「赤ちゃんのごみ箱を作るつもりなのか」「子どもを捨てられると安易に喜ぶ若者を増やす」「中途半端に助ければ、かえって不幸を招く」
捨て子を容認、助長するとの反対論も多いが、「よく勇気をふるって決断してくれた」「支援させてほしい」と募金も数多く寄せられているという。
蓮田氏は「ドイツでも賛否両論ある。まして前例のない日本でいろいろな反応が出るのは当然。とにかく医療の原点は生命の尊さにあり、この構想は実現しなければいけないという気持ちに変わりはない」。
では、ゆりかごに収容された後の赤ちゃんの法的位置付けはどうなるのか。
熊本県子ども家庭福祉室によると、現行法では「捨て子」の場合、発見者が警察などを通じて二十四時間以内に市町村長に連絡。同時に児童相談所に通告する。市町村長は二週間以内に赤ちゃんの名前をつけて戸籍をつくる。児相は乳児院などへの入所措置を決める。
また、母親が判明した場合でも、児相が乳児の状況や家庭環境などを踏まえて、乳児院など施設入所の措置をとるのが多いという。
吉田勝也・同室長は「置いていった母親が保護責任者遺棄罪に問われないのか、という問題もある」と話す。その上で「効果や是非については何とも言えない。推移を見守りたい」。
病院から施設の用途変更の許可申請相談を受け、熊本市は「どの法律に触れるのか否かも分からないので、どうすればいいかを検討している」。
子どもをゆりかごに入れた親は保護責任者遺棄罪に問われないのか。筑波大学の土本武司名誉教授(刑法)は「赤ちゃんが生存するために適切な措置をする病院に置いてくるので、通常、発見されないような山に捨てるなどとは違い、同罪には当たらないと考えられる」。
その上で「今回の設置が法的に認められ、全国の病院にゆりかごができたら、苦労しても育てるという通常あるべき努力を放棄してしまう可能性がある」と懸念も示す。
現在、里親約百数十組が登録し、これまでに約二百九十件の特別養子縁組をしている岡山県医師会の「岡山県ベビー救済協会」の堀章一郎理事長は「母親が名乗り出なければ協会では特別養子縁組はできない。熊本のゆりかごでは、母親は名乗り出ないことが多いのではないか。結局、病院で受け入れただけで、後は行政による施設行きになるだろう。また、諸外国のように後ろ盾がないので、経済的にも病院が単独で運営していくのは大変だろう」と指摘する。
■先行ドイツはすでに80施設
「養子と里親を考える会」代表で、お茶の水女子大の湯沢雍彦名誉教授(法社会学)によると、ドイツでは六年前から「赤ちゃんポスト」がスタート。現在、八十近くの施設があるという。背景には「設置前年に遺棄された約四十人の子どもの半数が亡くなったことがある」という。
ドイツでは乳児を保護した後、里親に八週間預け、その間に養子縁組を探すシステムになっているという。「日本でも、子どもがほしい親はたくさんいる。児相はもっと積極的に養子縁組を進めるべきだ。まず赤ちゃんの命を救うという点で、今回の取り組みは評価している」と話す。
厚生労働省によると、二〇〇〇年までの統計で、日本では年間二百人前後の「捨て子」があるという。
お茶の水女子大子ども発達教育研究センターの榊原洋一教授は「育児放棄など虐待も少しずつ増加。年間五十人の子どもが虐待で命を失っている。育児力が十分ない若い夫婦も一定程度いる」と指摘しながらも、「育児支援の一つとしての試みとして賛成する」と評価する。
そして、こう指摘する。「ぎりぎりまで踏ん張り、最後は病院に置けるということが、親の心の余裕につながる可能性もある。日本に根付くかどうかは分からないが、始める前から反対すべきではない」
<デスクメモ> 世の中にはさまざまな事情があって子育てができない親がいる一方、子どもに恵まれない親もいる。その窓口役として両者を結ぶ選択肢が広がることは歓迎だ。ドイツでは母子の救済につながった事例もあると聞く。セーフティーネットのひとつの在り方として、こうした試みがあってもいいのではないか。
(2006年11月 東京新聞より)
「赤ちゃんポスト」拡大に慎重論 厚労相・少子化担当相
保護者が育てられない新生児を預かる「赤ちゃんポスト」について、柳沢厚生労働相は23日の閣議後会見で、「失われなくてもいい小さい命が生後継続できるという非常にありがたい面がある一方、子どもを他に委ねてしまうのを助長する懸念がないのか」などと述べ、今後拡大することについては慎重な姿勢を示した。
また、高市少子化・男女共同参画担当相も、赤ちゃんポストの設置が人工中絶や遺棄により失われる命を救うことにつながるとしながらも、「無責任に子どもを捨ててしまうというようなことが促進される結果になっては元も子もない。議論を深める必要がある」と懸念を示した。
赤ちゃんポストは、熊本市の慈恵病院が設置を市に申請。厚労省は22日、同市に安全や健康への配慮を要望しつつ「法律に違反しない」として設置を認める見解を示した。ただ、柳沢厚労相は「今度のことは法律的な検討をした」として政策的に推進する意図はないことも強調。「もともとが非常に難しい問題。熊本の状況を慎重に見ていくという姿勢が必要だ」と述べた。
(2007年02月23日 朝日新聞より)
とても解決の糸口が見つかりにくい問題だと思う。「赤ちゃんポストに預けられた赤ちゃんを育てられる環境の整備」・・・「赤ちゃんポストができた事で、避妊をせず赤ちゃんを産み、赤ちゃんポストに預ける人達が増えるのではないか?」など、本当に慎重に導入を考えなければならない問題だと思う。
クリニクラウン(CliniClowns)は、主に入院中の小児の病室を訪れ、遊びやコミュニケーションなどを通じて心のケアをする専門家。日本では『臨床道化師』と和訳されている。
概要
先進地はオランダで、『クリニック』(診療所)と『クラウン』(道化師)とを掛け合わせた合成語として主にヨーロッパで使われる。北米ではホスピタルクラウン(HospitalClown)またはクラウンドクター(ClownDoctor)と呼ばれる活動も存在する。ケアリングクラウン(CareingClown)という名称が使われることもあるが、これには老人ホーム・被災地・難民キャンプ・刑務所など医療現場以外での活動も含まれる事がある。
クリニクラウンに要求されるのはすぐれた表現力だけに留まらず、看護・衛生などの病院内で活動するための基礎知識、罹病の不安や不自由な生活への不満または社会から隔てられた環境に身を置く寂しさなどといった患者の心を把握するための心理学知識などを持たなければならない。コミュニケーションの仕方も、演技者と観客といった隔たりを置かない身近な友人として患者と接するようなかかわりをする必要がある。また病室ならではのスペースの狭さや家族への配慮などにも心がけなければならない。
そのような難しい場での活動ではあるが、クリニクラウンの来訪は患者だけにとどまらず、その家族・医療従事者・関係者たちの心理にも良い影響を与えることが出来る。一緒に笑い楽しんだ患者と医療従事者との関係をより良いものにする効果は、体験した医師や看護師からも数多く報告されている。
発祥~アメリカでの活動
バージニア州の医師ハンター・アダムス(通称パッチ・アダムス)が、医学生当時から注目していた心と身体の間にある密接な関係を活用する方法として笑いの効果を治癒に生かそうと考え、1960年代末に始めたといわれている。1998年には、アダムス医師の半生がロビン・ウィリアムス主演により映画化された。これが認知に大きく寄与し、影響はアメリカだけにとどまらず世界中に広がった。
1986年にはニューヨークを拠点とするビッグアップルサーカス所属のマイケル・クリステンセンが病院から依頼を受けてパフォーマンスを披露した際、病気に苦しむ人こそ笑いが必要と痛感し、クラウンドクターと呼ばれる専門家の育成を本格的に開始した。彼らは全米で活動し、治癒と笑いとの関連を世間一般に認識せしめた。やがて、クラウンドクターの中にはヨーロッパやオーストラリアに渡って同様の活動をする者も現れ、その概念が国際的に拡大する端緒となった。
オランダでの活動
オランダに伝わったクラウンドクター活動は、やがて小児を対象としたクリニクラウンへと発展し、1992年には国民の寄付を中心としたクリニクラウン財団が設立され、最も先進的な取り組みを展開するに至った。募金による年間活動資金は600万ユーロ(約8億5千万円)に及び、所属する約60人のクラウンは職業のとしての地位を確立することが出来ている。
派遣先は長期入院の小児病院に留まらず、短期や外傷入院にまで対象を拡げ、さらには在宅治療をする小児のためにインターネットを利用した活動も行っている。また、積極的に国際展開にも当たり、ルーマニアでの団体設立や、日本のクリニクラウン組織の設立協力などを行っている。
日本での活動
アメリカでの実績や映画「パッチ・アダムス」上映などにより、日本でもクラウンの活動は小規模ながら始まり、病院単位での研究会など草の根のアクションは立ち上がっていた。
本格的に始まる機運は、2003年初頭、事故で娘が入院した日本在住オランダ人夫妻の「なぜ日本の小児病院にはクリニクラウンがいないの?」という彼らにとっては至極素朴な疑問が契機になった。この質問を受けたオランダ総領事館がクリニクラウン財団に要請して始まったオランダ人クラウンの派遣が少しずつ医療の場に浸透していった。
2005年6月にはクリニクラウン財団と提携して日本クリニクラウン協会(Japan CliniClowns Association)が大阪市に設立され、国内でのクリニクラウン養成が本格的に開始された。二度の公開オーディションには、演劇やテーマパークで働いた経験者ら約120人の応募者が集い、合格者は臨床現場での研修を重ねて医療知識を吸収し、かつ児童心理や保健衛生などの習得にも努めた。2006年3月1日、日本人初のクリニクラウンとなる男女4人が認定試験に合格し、大阪府母子保健総合医療センター(大阪府和泉市)などで本格的な活動を開始している。
現在、募金のみで成り立つ日本クリニクラウン協会の運営は決して潤沢ではない。オランダのクリニクラウン財団は企業からの支援を制限するほどだが、未だ人口に膾炙していない日本での活動には、賛同者の支援を得るための広報活動に力点を置かなければならない段階にある。http://www.cliniclowns.jp/
Amazon.co.jp
1969年、生きる道を見失っていたアダムスは、自ら精神病院に入院した。しかし立ち直った彼は精神科医を目指し、ヴァージニア大学医学部に入学した。そして「笑い」を重視した療法を考え出す。
実話をもとにした感動のドラマ。町医者として12年間、15万人を越える患者を無料診療したハンター・アダムスを描いている。主役のアダムスにはロビン・ウィリアムスが扮し、「笑い」で心を治療するアダムスの精神をみごとに具現化した。笑いと優しさの伝染力が、時には病気の憂うつに勝る。そんな「パッチ」アダムスの「葛藤する時代」を克明に描いてゆく。アダムスが恋をする女学生役のモニカ・ポッターの清楚な美しさと、学友を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンにも注目したい。(アルジオン北村)
「笑い」と「看護」の両面から患者をサポートする。できそうでなかなか難しい仕事だと思う。でも、とても「笑い」は「患者の免疫力を高める」ので、素晴らしい活動だ。
概要
先進地はオランダで、『クリニック』(診療所)と『クラウン』(道化師)とを掛け合わせた合成語として主にヨーロッパで使われる。北米ではホスピタルクラウン(HospitalClown)またはクラウンドクター(ClownDoctor)と呼ばれる活動も存在する。ケアリングクラウン(CareingClown)という名称が使われることもあるが、これには老人ホーム・被災地・難民キャンプ・刑務所など医療現場以外での活動も含まれる事がある。
クリニクラウンに要求されるのはすぐれた表現力だけに留まらず、看護・衛生などの病院内で活動するための基礎知識、罹病の不安や不自由な生活への不満または社会から隔てられた環境に身を置く寂しさなどといった患者の心を把握するための心理学知識などを持たなければならない。コミュニケーションの仕方も、演技者と観客といった隔たりを置かない身近な友人として患者と接するようなかかわりをする必要がある。また病室ならではのスペースの狭さや家族への配慮などにも心がけなければならない。
そのような難しい場での活動ではあるが、クリニクラウンの来訪は患者だけにとどまらず、その家族・医療従事者・関係者たちの心理にも良い影響を与えることが出来る。一緒に笑い楽しんだ患者と医療従事者との関係をより良いものにする効果は、体験した医師や看護師からも数多く報告されている。
発祥~アメリカでの活動
バージニア州の医師ハンター・アダムス(通称パッチ・アダムス)が、医学生当時から注目していた心と身体の間にある密接な関係を活用する方法として笑いの効果を治癒に生かそうと考え、1960年代末に始めたといわれている。1998年には、アダムス医師の半生がロビン・ウィリアムス主演により映画化された。これが認知に大きく寄与し、影響はアメリカだけにとどまらず世界中に広がった。
1986年にはニューヨークを拠点とするビッグアップルサーカス所属のマイケル・クリステンセンが病院から依頼を受けてパフォーマンスを披露した際、病気に苦しむ人こそ笑いが必要と痛感し、クラウンドクターと呼ばれる専門家の育成を本格的に開始した。彼らは全米で活動し、治癒と笑いとの関連を世間一般に認識せしめた。やがて、クラウンドクターの中にはヨーロッパやオーストラリアに渡って同様の活動をする者も現れ、その概念が国際的に拡大する端緒となった。
オランダでの活動
オランダに伝わったクラウンドクター活動は、やがて小児を対象としたクリニクラウンへと発展し、1992年には国民の寄付を中心としたクリニクラウン財団が設立され、最も先進的な取り組みを展開するに至った。募金による年間活動資金は600万ユーロ(約8億5千万円)に及び、所属する約60人のクラウンは職業のとしての地位を確立することが出来ている。
派遣先は長期入院の小児病院に留まらず、短期や外傷入院にまで対象を拡げ、さらには在宅治療をする小児のためにインターネットを利用した活動も行っている。また、積極的に国際展開にも当たり、ルーマニアでの団体設立や、日本のクリニクラウン組織の設立協力などを行っている。
日本での活動
アメリカでの実績や映画「パッチ・アダムス」上映などにより、日本でもクラウンの活動は小規模ながら始まり、病院単位での研究会など草の根のアクションは立ち上がっていた。
本格的に始まる機運は、2003年初頭、事故で娘が入院した日本在住オランダ人夫妻の「なぜ日本の小児病院にはクリニクラウンがいないの?」という彼らにとっては至極素朴な疑問が契機になった。この質問を受けたオランダ総領事館がクリニクラウン財団に要請して始まったオランダ人クラウンの派遣が少しずつ医療の場に浸透していった。
2005年6月にはクリニクラウン財団と提携して日本クリニクラウン協会(Japan CliniClowns Association)が大阪市に設立され、国内でのクリニクラウン養成が本格的に開始された。二度の公開オーディションには、演劇やテーマパークで働いた経験者ら約120人の応募者が集い、合格者は臨床現場での研修を重ねて医療知識を吸収し、かつ児童心理や保健衛生などの習得にも努めた。2006年3月1日、日本人初のクリニクラウンとなる男女4人が認定試験に合格し、大阪府母子保健総合医療センター(大阪府和泉市)などで本格的な活動を開始している。
現在、募金のみで成り立つ日本クリニクラウン協会の運営は決して潤沢ではない。オランダのクリニクラウン財団は企業からの支援を制限するほどだが、未だ人口に膾炙していない日本での活動には、賛同者の支援を得るための広報活動に力点を置かなければならない段階にある。http://www.cliniclowns.jp/
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1969年、生きる道を見失っていたアダムスは、自ら精神病院に入院した。しかし立ち直った彼は精神科医を目指し、ヴァージニア大学医学部に入学した。そして「笑い」を重視した療法を考え出す。
実話をもとにした感動のドラマ。町医者として12年間、15万人を越える患者を無料診療したハンター・アダムスを描いている。主役のアダムスにはロビン・ウィリアムスが扮し、「笑い」で心を治療するアダムスの精神をみごとに具現化した。笑いと優しさの伝染力が、時には病気の憂うつに勝る。そんな「パッチ」アダムスの「葛藤する時代」を克明に描いてゆく。アダムスが恋をする女学生役のモニカ・ポッターの清楚な美しさと、学友を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンにも注目したい。(アルジオン北村)
「笑い」と「看護」の両面から患者をサポートする。できそうでなかなか難しい仕事だと思う。でも、とても「笑い」は「患者の免疫力を高める」ので、素晴らしい活動だ。
義足ボクサーがデビュー戦判定勝ち
比でプロ転向の土山 日本も規則見直しか
【バレンシア(フィリピン・ブキッドノン州)共同】右脚のすねの位置から下が義足のため、日本でプロボクサーの資格を得られずフィリピンでプロになった長崎市出身の土山直純さん(23)スーパーライト級=が17日(2006年6月)、同国ブキッドノン州(ミンダナオ島)で4ラウンドのデビュー戦を行った。相手はプロ2戦目のフィリピン人ボクサー(19)で、判定勝ちした。
土山さんは「結果を母親に知らせたい。(今まで支援してくれた人に)5%くらい恩返しができたかな。不細工な試合で申し訳ないが、次はもっと練習していい試合をします」と話した。
日本ボクシングコミッション(JBC)は、義足使用者にプロ資格を認めない現行規則の見直しの可能性もあるとして、土山さんのケースを注目している。
土山さんは先天的に右脚の発育が悪く幼児期から義足を使用しているが、高校時代にボクシングを始め、九州大会で3位になった実績がある。昨年5月にフィリピンのジムに入り、今年2月、プロスポーツを統括する同国政府機関からプロ資格を認められた。
デビュー戦で負けると資格が取り消され、勝てば通常の選手同様、1年ごとに資格を更新できるとの条件付きという。
「週刊文春」のグラビアに載っていた。ハンデがあっても、それを乗り越えようとする強い意志に敬服する。自分自身も考えさせられる。
比でプロ転向の土山 日本も規則見直しか
【バレンシア(フィリピン・ブキッドノン州)共同】右脚のすねの位置から下が義足のため、日本でプロボクサーの資格を得られずフィリピンでプロになった長崎市出身の土山直純さん(23)スーパーライト級=が17日(2006年6月)、同国ブキッドノン州(ミンダナオ島)で4ラウンドのデビュー戦を行った。相手はプロ2戦目のフィリピン人ボクサー(19)で、判定勝ちした。
土山さんは「結果を母親に知らせたい。(今まで支援してくれた人に)5%くらい恩返しができたかな。不細工な試合で申し訳ないが、次はもっと練習していい試合をします」と話した。
日本ボクシングコミッション(JBC)は、義足使用者にプロ資格を認めない現行規則の見直しの可能性もあるとして、土山さんのケースを注目している。
土山さんは先天的に右脚の発育が悪く幼児期から義足を使用しているが、高校時代にボクシングを始め、九州大会で3位になった実績がある。昨年5月にフィリピンのジムに入り、今年2月、プロスポーツを統括する同国政府機関からプロ資格を認められた。
デビュー戦で負けると資格が取り消され、勝てば通常の選手同様、1年ごとに資格を更新できるとの条件付きという。
「週刊文春」のグラビアに載っていた。ハンデがあっても、それを乗り越えようとする強い意志に敬服する。自分自身も考えさせられる。
猟銃・闘牛新潮社このアイテムの詳細を見る |
内容(「BOOK」データベースより)
ひとりの男の十三年間にわたる不倫の恋を、妻・愛人・愛人の娘の三通の手紙によって浮彫りにした恋愛心理小説『猟銃』。社運を賭した闘牛大会の実現に奔走する中年の新聞記者の情熱と、その行動の裏側にひそむ孤独な心情を、敗戦直後の混乱した世相のなかに描く芥川賞受賞作の『闘牛』。無名だった著者の名を一躍高からしめた初期の代表作2編の他『比良のシャクナゲ』を収録。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
井上 靖
1907‐1991。旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。’51年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(’57年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(’69年)、「孔子」での野間文芸賞(’89年)など受賞作多数。’76年文化勲章を受章した。
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昔、課題図書で「天平の甍」を読んだ時、難しい本やなぁ~と正直思った。でも、「闘牛」は読んでみたい。
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自分だけの街がつくれる都市育成シミュレーションゲームがDSに登場。プレイヤーは市長となって、タッチペンで何もない土地に街をつくり、資金管理や公害・治安対策などの仕事をこなして、街を繁栄させていこう。全国区47都道府県の名城や、クリスマスやUFOといった手軽なミニゲームイベントも入っている。ゲーム内にあるボーナス施設を獲得すると、ユーザー同士による手紙や、身所持のランドマークの交換ができるようになる。
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往年の名作「シムシティ」がDSに!!しかも舞台は日本!
以前にプレイしたことのある方やシミュレーションゲームが好きな方におすすめ一品です。
あなたが市長となって資金管理、公害・治安対策をアドバイザーと共にこなし、街を発展させよう。
都市育成シュミレーションゲームと聞いて、難しそうと思っているあなた、心配ご無用!
今作は、アドバイザーを5名用意。簡単な質問に答えて、あなたにぴったりのアドバイザーを選びましょう。
また、アドバイザーはアドバイスをくれるだけではなく、雑談もでき、楽しく街づくりのお手伝いをしてくれます。
より市長気分を味わえる要素として、タッチペンを使って重要書類にサインをするというアクションを追加。
また、日本全国47都道府県にある、お城を1つずつ用意し、自分の街にプレイヤーの出身都道府県の
お城を建てることもできるようになり、今まで以上にシムシティを身近に感じることができるでしょう。
すれ違い通信を使ってお城を交換も・・・
ゲーム内にあるをボーナス施設を獲得するとユーザーどうしによる手紙の交換ができ、
同時に未所持のランドマークも交換可能。お城の他にもたくさんの隠しランドマークを用意。
さらに、たくさんのミニゲームも搭載。
知らない間に、DSソフトにも面白いものが出ている。「ひきこもり」が多くならなければいいが・・・
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「TSUTAYA」のカードとか「携帯電話」とか、彼がアートディレクションをしたものが身近にあった事を初めて知った。すごい才能だと思う。
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出版社/著者からの内容紹介
楽しいはずの山。けれど危険に遭遇することもある…。山を愛する人すべてに捧ぐ、山岳救助物語!!
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僕は「山登り」はしないが、「登山」の「素晴らしさ」と「山の怖さ」を教えてくれるマンガ。主人公の「三歩」の明るさもこのマンガの魅力を高めている。
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内容(「BOOK」データベースより)
日本人の性愛の歴史。裸体はそれ自身がエロティックではない。文脈、プロトコル(通信条件、読みの規範)に応じて、まったく違った意味をもつ。江戸末から現代までの日本人の性愛の歴史をプロトコルの変遷として、文学、医学書から漫画、歌謡曲などのマス・カルチャーのなかに跡づける。
色男の研究角川学芸出版このアイテムの詳細を見る |
出版社/著者からの内容紹介
「もてる男」とは? まじめに追求してみました
歴史上どんな男がもてたのか、もてる男の条件とは、もてたいがために洋の東西を問わずどんな努力がなされたかなどなど。新進気鋭の研究者が十数年の色男研究の成果をまじめにわかりやすく解説しました。
高校時代、彼は「天才」と呼ばれていた。いつも汚い体操服を着ていたというイメージ。勉強をしている風でもないのに、学年トップクラス。東大に楽々と合格した。「努力家」や「秀才」ではない。「天才」なのである。彼が「色男」に関して本を書くとは思ってもいなかった。送ってくれた二冊を読んでみた。難しい。参考文献にも、「英語やロシア語の本」がある。驚くべき幅広い知識で書かれているのだが、「凡人」(大学時代「優」が4つ)の僕にとっては正直難解な本だった。もし、本を売りたいというのが目的ならば、この「本の売れない時代」、かなり分かりやすくリライトしないと売れないと思う。彼からはメールでどうやったら売れるかという相談を受けているのだが・・・困っている。今、本を購読する人は「短い時間で読めて、話題にできる本」を好む。だから、二時間程度で読める「新書」がブームなのである。普通のサラリーマン・OLの目線に降りて来て、イラストや図を分かりやすくする為にふんだんに使い、リライトする事が大事かなぁ~と思う。なおかつ、「本の題名」が大切。「さおだけ屋はなぜ儲かるか?」とか、本屋の店頭に積まれていて、手が伸びてしまうタイトルにすべきである。せっかく送って貰ったのに、こんな辛口のアドバイスしかできないが勘弁してネ。
恋愛(れんあい)は、人間が他者に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情で、又、その感情に基づいた一連の恋慕に満ちた態度や行動を伴うものである。仏語のamour、英語のloveの翻訳語。広辞苑では「男女が互いに相手をこいしたうこと」と定義されている。
概要
結婚は一種の契約であるため、客観性や第三者による検証可能性があり、また社会制度を構築する上で重要な要素であるのに比して、恋愛は閉鎖された二者間関係に特有の現象であり、検証可能性に乏しい。そこで婚姻や家族間の愛については正しいあり方としての社会規範が法・宗教・モラルにおいて確立されてきたのに比して、恋愛については、文化により、また個人により各々解釈が異なり、国語辞典においてすらそれぞれの定義を突き合わせると矛盾しているような、様々な解釈がなされてきた。三省堂国語辞典は、『一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること。』と定義している。恋愛の感情的側面を重視し、恋愛がすなわち性愛であるとはとらえていない(プラトニック・ラブを認める余地がある記述である)。また独自の記述で定評のある『新明解国語辞典(第5版)』では、「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」と表現した(この記述では性愛の側面を重視しており、また一方的な片思いでも恋愛は成り立つと解釈できる)。これが第6版になると、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」と改訂され、性愛についての記述は削除された。いずれにしても、国語辞典では異性愛を前提とした記述がされていることが多い(新潮現代国語辞典、広辞苑なども異性間、男女間の関係や感情を恋愛としている)。
ただし、恋愛においても時代によってモラル的な歯止めや社会的な制約がないわけではない。純愛を扱った作品では、二人の間の関係と家族や社会との葛藤が扱われることがしばしばある。
恋愛はまた、古来より多くの芸術、娯楽作品で扱われる主題である。ビートルズの全楽曲の歌詞を見ても"I"の次に"Love"が多い。海外はもちろん、現代の日本においても少女漫画、歌謡曲、などでも恋愛を扱うものが多い。
中世ドイツでは、今日一般的な恋愛関係による婚姻(恋愛婚)は9世紀に教会により非合法とされたので婚姻において氏や家が重要であった。
スタンダールの「恋愛論」
スタンダールの分類によれば、恋愛には4種類あるとする。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛(「恋愛論」大岡昇平:訳)。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなれば(肉体的恋愛)から恋愛を始める。また恋は心のなかで、感嘆、自問、希望、恋の発生、第一の結晶作用、疑惑、第二の結晶作用という7階梯をたどるとする(同上)。あらゆる恋愛は6つの気質に起因し、多血質(フランス人)、胆汁質(スペイン人)、憂鬱質(ドイツ人)、粘液質(オランダ人)、神経質、力士質の、それぞれの影響が恋愛の諸相に関与するとする。なお、スタンダール自身は恋愛論の序文(1826年)において、「この本は成功しなかった」と述べており、論の展開は「必ずしも理由がなくはかない」と告白している。
日本の恋愛
恋愛という言語は1847年 - 1848年にメドハーストによる『英華辞典』にみられるのが最古である。ただし定着は遅れ、北村門太郎(後の北村透谷)も明治20年(1887年)にはラブと表記している。
歴史
日本では、古くから恋は和歌や文学の主要な題材であり、万葉集の相聞歌や古今集などでの恋歌、物語文学でも伊勢物語や源氏物語などに貴族の恋模様を描いたものが多く見られる。古代においては男女どちらからでも求愛ができ、女性は男性からの求愛を待たなくとも恋愛感情と自らの意志によって結婚相手を選び求められたと考えられている(出典:『結婚式-幸せを創る儀式』NHKブックス)。
中世頃には、仏教の戒律のひとつとして女犯に関するもの(不淫戒)の影響が確認され、とくに男性社会の側から恋愛を危険視する(あるいは距離を置く)べき対象としてとらえる傾向が生じた。権門体勢を維持する手段として男性が賦役・租税の対象とされる一方、女性を財産ととらえ、交換や贈与の対象とする傾向が確認され、社会秩序を破綻させる可能性のある恋愛を否定的にとらえる傾向が生じた。この傾向は江戸時代の儒教文化にも受け継がれ、女大学にみられる恋愛を限定的にとらえる倫理観や、家族制度・社会規範に対する献身を称揚する文化に継承された。一方で近松門左衛門の世話物にみられる義理、信義、家督の継承や世間の風評、カネの圧力などに抵抗する情念としての恋愛を称揚する文化は民衆に広く受け入れられ続けていた。
明治時代には中流階級では家制度による親が結婚相手を決めるお見合い結婚が多かった。明治から大正にかけて、文化人を中心としてロマン主義の影響もあって、恋愛結婚が理想的なものと喧伝され、大正時代には恋愛結婚に憧れる女性と、保守的な親との間で葛藤がおこることもあった。(加藤秀一『恋愛結婚は何をもたらしたか』ちくま書房)
高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でも出来る・すべきものだという風潮が広がった。又、1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気の日本では恋愛で消費行動が重視される傾向があったとされ、「この時(イベント)にデートするならばここ(流行の店など)」「何度目のデートならどこにいく」というようなマニュアル的な恋愛が女性誌や男性向け情報誌、トレンディドラマなどで盛んにもてはやされた。
現代では、親の意向にのみ基づいたお見合い結婚は減少し、夫婦の間の愛情や、本人の意向を重視する恋愛結婚が大多数となった(リクルート「結婚トレンド調査2006」)。
「恋愛」という言葉の語源と「どう説明するか?」が知りたくて調べてみた。ちなみに、「恋愛」と「結婚」は違う。私見。
概要
結婚は一種の契約であるため、客観性や第三者による検証可能性があり、また社会制度を構築する上で重要な要素であるのに比して、恋愛は閉鎖された二者間関係に特有の現象であり、検証可能性に乏しい。そこで婚姻や家族間の愛については正しいあり方としての社会規範が法・宗教・モラルにおいて確立されてきたのに比して、恋愛については、文化により、また個人により各々解釈が異なり、国語辞典においてすらそれぞれの定義を突き合わせると矛盾しているような、様々な解釈がなされてきた。三省堂国語辞典は、『一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること。』と定義している。恋愛の感情的側面を重視し、恋愛がすなわち性愛であるとはとらえていない(プラトニック・ラブを認める余地がある記述である)。また独自の記述で定評のある『新明解国語辞典(第5版)』では、「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」と表現した(この記述では性愛の側面を重視しており、また一方的な片思いでも恋愛は成り立つと解釈できる)。これが第6版になると、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」と改訂され、性愛についての記述は削除された。いずれにしても、国語辞典では異性愛を前提とした記述がされていることが多い(新潮現代国語辞典、広辞苑なども異性間、男女間の関係や感情を恋愛としている)。
ただし、恋愛においても時代によってモラル的な歯止めや社会的な制約がないわけではない。純愛を扱った作品では、二人の間の関係と家族や社会との葛藤が扱われることがしばしばある。
恋愛はまた、古来より多くの芸術、娯楽作品で扱われる主題である。ビートルズの全楽曲の歌詞を見ても"I"の次に"Love"が多い。海外はもちろん、現代の日本においても少女漫画、歌謡曲、などでも恋愛を扱うものが多い。
中世ドイツでは、今日一般的な恋愛関係による婚姻(恋愛婚)は9世紀に教会により非合法とされたので婚姻において氏や家が重要であった。
スタンダールの「恋愛論」
スタンダールの分類によれば、恋愛には4種類あるとする。情熱的恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛(「恋愛論」大岡昇平:訳)。どんなに干からびた不幸な性格の男でも、十六歳にもなれば(肉体的恋愛)から恋愛を始める。また恋は心のなかで、感嘆、自問、希望、恋の発生、第一の結晶作用、疑惑、第二の結晶作用という7階梯をたどるとする(同上)。あらゆる恋愛は6つの気質に起因し、多血質(フランス人)、胆汁質(スペイン人)、憂鬱質(ドイツ人)、粘液質(オランダ人)、神経質、力士質の、それぞれの影響が恋愛の諸相に関与するとする。なお、スタンダール自身は恋愛論の序文(1826年)において、「この本は成功しなかった」と述べており、論の展開は「必ずしも理由がなくはかない」と告白している。
日本の恋愛
恋愛という言語は1847年 - 1848年にメドハーストによる『英華辞典』にみられるのが最古である。ただし定着は遅れ、北村門太郎(後の北村透谷)も明治20年(1887年)にはラブと表記している。
歴史
日本では、古くから恋は和歌や文学の主要な題材であり、万葉集の相聞歌や古今集などでの恋歌、物語文学でも伊勢物語や源氏物語などに貴族の恋模様を描いたものが多く見られる。古代においては男女どちらからでも求愛ができ、女性は男性からの求愛を待たなくとも恋愛感情と自らの意志によって結婚相手を選び求められたと考えられている(出典:『結婚式-幸せを創る儀式』NHKブックス)。
中世頃には、仏教の戒律のひとつとして女犯に関するもの(不淫戒)の影響が確認され、とくに男性社会の側から恋愛を危険視する(あるいは距離を置く)べき対象としてとらえる傾向が生じた。権門体勢を維持する手段として男性が賦役・租税の対象とされる一方、女性を財産ととらえ、交換や贈与の対象とする傾向が確認され、社会秩序を破綻させる可能性のある恋愛を否定的にとらえる傾向が生じた。この傾向は江戸時代の儒教文化にも受け継がれ、女大学にみられる恋愛を限定的にとらえる倫理観や、家族制度・社会規範に対する献身を称揚する文化に継承された。一方で近松門左衛門の世話物にみられる義理、信義、家督の継承や世間の風評、カネの圧力などに抵抗する情念としての恋愛を称揚する文化は民衆に広く受け入れられ続けていた。
明治時代には中流階級では家制度による親が結婚相手を決めるお見合い結婚が多かった。明治から大正にかけて、文化人を中心としてロマン主義の影響もあって、恋愛結婚が理想的なものと喧伝され、大正時代には恋愛結婚に憧れる女性と、保守的な親との間で葛藤がおこることもあった。(加藤秀一『恋愛結婚は何をもたらしたか』ちくま書房)
高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でも出来る・すべきものだという風潮が広がった。又、1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気の日本では恋愛で消費行動が重視される傾向があったとされ、「この時(イベント)にデートするならばここ(流行の店など)」「何度目のデートならどこにいく」というようなマニュアル的な恋愛が女性誌や男性向け情報誌、トレンディドラマなどで盛んにもてはやされた。
現代では、親の意向にのみ基づいたお見合い結婚は減少し、夫婦の間の愛情や、本人の意向を重視する恋愛結婚が大多数となった(リクルート「結婚トレンド調査2006」)。
「恋愛」という言葉の語源と「どう説明するか?」が知りたくて調べてみた。ちなみに、「恋愛」と「結婚」は違う。私見。
日本テレワーク株式会社(にほんテレワーク、英名:JAPAN TELEVISION WORKSHOP CO.,LTD.)は、テレビ番組の制作プロダクションで、フジテレビジョンの関連企業である。テレビ番組の制作だけではなく、他にもCMやビデオの制作も手掛ける。
概要
1976年(昭和51年)8月20日、社内プロダクション制度が敷かれたフジテレビで「ひらけ!ポンキッキ」と「第三の眼」を担当していた制作担当社員ら17名が独立して設立した。担当した番組はそのままフジテレビから日本テレワークに制作が委託され、初代の社長にはフジテレビ編成局長だった武田信敬が就任した。現在も、現フジテレビ代表取締役社長の村上光一が取締役として在籍するなど、両社の関係は強い。
また、「ひらけ!ポンキッキ」の番組キャラクターガチャピンのモデルとされる野田宏一郎は、創立時からの中心メンバーで1984年から社長を長く務めた。SF作家、翻訳家の野田昌宏としての顔も持つ野田の関係で、SF作家の小松左京、地球物理学者の竹内均が設立と同時に顧問に就任。竹内が編集長を務めた科学雑誌「ニュートン」のテレビ版「ニュートン・スペシャル」などの科学番組を制作。初期の日本テレワークの特色としてきた。
テレ東「教えて! ウルトラ実験隊」捏造で打ち切り問題に関与。また、同社が制作したフジテレビ系の情報番組「発掘!あるある大事典II」で、納豆のダイエット効果を示す実験データを捏造した問題で、社長の古矢直義は、2007年1月23日に引責辞任を明らかにした。 しかしその後も、データ捏造や意図的な番組制作を行っていたことが関係者の証言やその後の調査などから相次いで発覚している。
やらせ・捏造問題・放送事故・放送不祥事
近年、日本テレワークではコンプライアンスを軽視した番組制作がたびたび行われ、その後やらせ・捏造の発覚により番組自体が打ち切られる例も出ている。
「教えて!ウルトラ実験隊」における問題
テレビ東京系列で放送された「教えて!ウルトラ実験隊」では、花粉症対策を扱った2005年1月25日放送分で、花粉症の最新治療法「舌下減感作療法」での臨床実験で事実を歪曲して、虚偽の臨床結果を放送したことが発覚し、番組が打ち切られた。
「発掘!あるある大事典」における問題
関西テレビ制作、フジテレビ系列で放送されていた「発掘!あるある大事典II」では、日本テレワークが制作を請け負った2007年1月7日放送分「食べてヤセる!!! 食材Xの新事実」で取り上げられた納豆ダイエットにおいて、実際には行っていない実験結果や大学教授の翻訳コメントなどを改ざん、内容を捏造して放送し、納豆にダイエット効果が見られるような内容を放送したことが発覚した。関西テレビでは同放送の内容捏造を認め、2007年1月21日分の放送を休止し、関西テレビのアナウンサーによる説明と謝罪を冒頭5分間放送し、後ろに続いている関西テレビ・フジテレビの共同制作の番組「スタ☆メン」を残りの55分拡大して放送した。また、30年来この枠の単独スポンサーだった花王がスポンサー撤退を発表、番組打ち切りが明らかになり、総務省も処分を検討すると報道された。
さらに、「発掘!あるある大事典」1998年10月25日放送のレタスの催眠作用を探った番組においても、マウスを用いた実験結果を捏造していたことが明らかになった。 また、2006年2月19日に放送された「衝撃! 味噌汁でヤセる?!」では、発酵した大豆を研究している米国人学者の発言を捏造していた疑いが極めて濃いことが朝日新聞(2007年1月29日)で報道された。
1月22日になって日本テレワークのウェブサイトの内容が、この件に対する「お詫び」の謝罪文のみのページに差し替えられ、「必要な企業広報のみ掲載いたします」としながら、所在地や電話番号・メールアドレスなど基本的な企業情報を含む、一切のコンテンツが閲覧出来なくなっている。
そして問題発覚当時の社長・古矢直義及び当時の専務・古賀憲一がこの捏造の件で役職を辞任、代表取締役から代表権のない取締役へ降格した。(2007年1月23日、日本テレワークのウェブサイトに、役員異動に関する文書が掲載された)
また、これに伴い2007年1月31日限りで、加盟していた全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)から退会する事を発表した。
主な制作番組
現在
フジテレビ系
こたえてちょーだい!
ひるこた!~昼もこたえてちょーだい!~
クイズ$ミリオネア
トリビアの泉 ~素晴らしきムダ知識~
ネプリーグ
幸せって何だっけ~カズカズの宝話~
椎名誠のでっかい旅!
金色☆メダル
江原啓之スペシャル 天国からの手紙
テレビ美術館
アスリートの食卓(BSフジ)
日本テレビ系
こころの歌(BS日本)
TBS系
情熱大陸(毎日放送制作)
テレビ朝日系
報道STATION(特集コーナー)
素敵な宇宙船地球号
M-1グランプリ(ABCテレビ制作)
明石家ジャパン(ABCテレビ制作)
合格!日本語ボーダーライン(ABCテレビ制作)
悠遊!オフタイム(BS朝日)
プレシャス&コンシャス(BS朝日)
その他
直行便TV(ディノス)
これまで放送された制作番組
フジテレビ系
テレビ美術館
ひらけ!ポンキッキ
出たMONOシリーズ
出たMONO勝負⇒出たMONO☆7716
風まかせ 新諸国漫遊記
料理の鉄人
カノッサの屈辱
ジョーダンじゃない!?
どうーなってるの?!
郁恵・井森のお料理BAN!BAN!
コレって変ですか~!?
恋ボーイ恋ガール
ネプチューンの力シリーズ
力の限りゴーゴゴー!!⇒力あわせてゴーゴゴー!!
アナドレナリン
東京天使
父ごはん
ハンマープライス(関西テレビ制作)
発掘!あるある大事典(関西テレビ制作)
発掘!あるある大事典II(関西テレビ制作)
史上最大のオークションショー(BSフジ)
通販大王(BSフジ)
携帯電話の歴史で復活・伊武雅刀
日本テレビ系
Time21
巨泉のこんなものいらない!?
スーパーテレビ情報最前線
冒険!CHEERS!!
テレビ朝日系
そんなに私が悪いのか!?
親知らずバラエティー!!天使の仮面(ABC制作)
得するテレビ(ABC制作)
新★得するテレビ ホンジャマカな日曜日(ABC制作)
現代進行形TV イマジン!(ABC制作)
プラチナスタイル(BS朝日)
テレビ東京系
解決!クスリになるテレビ
教えて!ウルトラ実験隊
NHK
世界の教科書クイズ2002(NHK BS2)
「日本テレワーク」の確か、社長をしていた野田宏一郎は翻訳家でもあり、子供の頃、アイザック・アシモフのSF小説「銀河帝国の滅亡」を野田さんの翻訳で読んだ記憶がある。もちろん、子供向けの本で、あとがきに、訳者の野田さんが大人になったら、「銀河帝国の滅亡」の壮大な物語を読んで欲しい、とコメントされていたのが印象的だった。
概要
1976年(昭和51年)8月20日、社内プロダクション制度が敷かれたフジテレビで「ひらけ!ポンキッキ」と「第三の眼」を担当していた制作担当社員ら17名が独立して設立した。担当した番組はそのままフジテレビから日本テレワークに制作が委託され、初代の社長にはフジテレビ編成局長だった武田信敬が就任した。現在も、現フジテレビ代表取締役社長の村上光一が取締役として在籍するなど、両社の関係は強い。
また、「ひらけ!ポンキッキ」の番組キャラクターガチャピンのモデルとされる野田宏一郎は、創立時からの中心メンバーで1984年から社長を長く務めた。SF作家、翻訳家の野田昌宏としての顔も持つ野田の関係で、SF作家の小松左京、地球物理学者の竹内均が設立と同時に顧問に就任。竹内が編集長を務めた科学雑誌「ニュートン」のテレビ版「ニュートン・スペシャル」などの科学番組を制作。初期の日本テレワークの特色としてきた。
テレ東「教えて! ウルトラ実験隊」捏造で打ち切り問題に関与。また、同社が制作したフジテレビ系の情報番組「発掘!あるある大事典II」で、納豆のダイエット効果を示す実験データを捏造した問題で、社長の古矢直義は、2007年1月23日に引責辞任を明らかにした。 しかしその後も、データ捏造や意図的な番組制作を行っていたことが関係者の証言やその後の調査などから相次いで発覚している。
やらせ・捏造問題・放送事故・放送不祥事
近年、日本テレワークではコンプライアンスを軽視した番組制作がたびたび行われ、その後やらせ・捏造の発覚により番組自体が打ち切られる例も出ている。
「教えて!ウルトラ実験隊」における問題
テレビ東京系列で放送された「教えて!ウルトラ実験隊」では、花粉症対策を扱った2005年1月25日放送分で、花粉症の最新治療法「舌下減感作療法」での臨床実験で事実を歪曲して、虚偽の臨床結果を放送したことが発覚し、番組が打ち切られた。
「発掘!あるある大事典」における問題
関西テレビ制作、フジテレビ系列で放送されていた「発掘!あるある大事典II」では、日本テレワークが制作を請け負った2007年1月7日放送分「食べてヤセる!!! 食材Xの新事実」で取り上げられた納豆ダイエットにおいて、実際には行っていない実験結果や大学教授の翻訳コメントなどを改ざん、内容を捏造して放送し、納豆にダイエット効果が見られるような内容を放送したことが発覚した。関西テレビでは同放送の内容捏造を認め、2007年1月21日分の放送を休止し、関西テレビのアナウンサーによる説明と謝罪を冒頭5分間放送し、後ろに続いている関西テレビ・フジテレビの共同制作の番組「スタ☆メン」を残りの55分拡大して放送した。また、30年来この枠の単独スポンサーだった花王がスポンサー撤退を発表、番組打ち切りが明らかになり、総務省も処分を検討すると報道された。
さらに、「発掘!あるある大事典」1998年10月25日放送のレタスの催眠作用を探った番組においても、マウスを用いた実験結果を捏造していたことが明らかになった。 また、2006年2月19日に放送された「衝撃! 味噌汁でヤセる?!」では、発酵した大豆を研究している米国人学者の発言を捏造していた疑いが極めて濃いことが朝日新聞(2007年1月29日)で報道された。
1月22日になって日本テレワークのウェブサイトの内容が、この件に対する「お詫び」の謝罪文のみのページに差し替えられ、「必要な企業広報のみ掲載いたします」としながら、所在地や電話番号・メールアドレスなど基本的な企業情報を含む、一切のコンテンツが閲覧出来なくなっている。
そして問題発覚当時の社長・古矢直義及び当時の専務・古賀憲一がこの捏造の件で役職を辞任、代表取締役から代表権のない取締役へ降格した。(2007年1月23日、日本テレワークのウェブサイトに、役員異動に関する文書が掲載された)
また、これに伴い2007年1月31日限りで、加盟していた全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)から退会する事を発表した。
主な制作番組
現在
フジテレビ系
こたえてちょーだい!
ひるこた!~昼もこたえてちょーだい!~
クイズ$ミリオネア
トリビアの泉 ~素晴らしきムダ知識~
ネプリーグ
幸せって何だっけ~カズカズの宝話~
椎名誠のでっかい旅!
金色☆メダル
江原啓之スペシャル 天国からの手紙
テレビ美術館
アスリートの食卓(BSフジ)
日本テレビ系
こころの歌(BS日本)
TBS系
情熱大陸(毎日放送制作)
テレビ朝日系
報道STATION(特集コーナー)
素敵な宇宙船地球号
M-1グランプリ(ABCテレビ制作)
明石家ジャパン(ABCテレビ制作)
合格!日本語ボーダーライン(ABCテレビ制作)
悠遊!オフタイム(BS朝日)
プレシャス&コンシャス(BS朝日)
その他
直行便TV(ディノス)
これまで放送された制作番組
フジテレビ系
テレビ美術館
ひらけ!ポンキッキ
出たMONOシリーズ
出たMONO勝負⇒出たMONO☆7716
風まかせ 新諸国漫遊記
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巨泉のこんなものいらない!?
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テレビ朝日系
そんなに私が悪いのか!?
親知らずバラエティー!!天使の仮面(ABC制作)
得するテレビ(ABC制作)
新★得するテレビ ホンジャマカな日曜日(ABC制作)
現代進行形TV イマジン!(ABC制作)
プラチナスタイル(BS朝日)
テレビ東京系
解決!クスリになるテレビ
教えて!ウルトラ実験隊
NHK
世界の教科書クイズ2002(NHK BS2)
「日本テレワーク」の確か、社長をしていた野田宏一郎は翻訳家でもあり、子供の頃、アイザック・アシモフのSF小説「銀河帝国の滅亡」を野田さんの翻訳で読んだ記憶がある。もちろん、子供向けの本で、あとがきに、訳者の野田さんが大人になったら、「銀河帝国の滅亡」の壮大な物語を読んで欲しい、とコメントされていたのが印象的だった。
テレワーク(Telework)とは、勤労形態の一種で、情報通信機器等を活用し時間や場所に制約されず、柔軟に仕事する働き方をいう。テレワークの形態により在宅ワーク、モバイルワークなどに分類され、またテレワークする人により、給与所得者などの雇用型テレワーカー、小規模事業者や自営業者などの自営型テレワーカーに分類される。テレワークは、交通渋滞や大気汚染などの大都市問題や地域活性化、少子高齢化などの社会課題解決の手段として有効であると期待されており、経営者や労働者それぞれにとってもメリットがあるとされ、世界各国にテレワークの研究や普及促進する団体が存在する。
2003年3月発表の国土交通省テレワーク実態調査によると、2002年10月現在日本には雇用型テレワーカー311万人、自営型テレワーカー97万人、合計408万人のテレワーカーがいる。2003年7月策定の「eJAPAN戦略Ⅱ」によると、2010年に日本の労働人口の2割をテレワーカーにする目標をかかげている。
但し、研究者の間ではテレワークにも固有の問題があることも指摘されている。その中には、次のようなものがある。
就労時間を尺度とする賃金の適用が容易ではないこと
仕事と家庭が隣接、重複している面があるために経費の算定が困難な場合があること
テレワーカーはしばしば家事や子育てと仕事の切り換えが難しく、集中が困難な場合があること
実際に上司などと顔を合わせて働く機会が少ないため、信頼の醸成などが難しく、昇進に不利である可能性が考えられること
確かに、これだけインターネットが発達してきたら、在宅で仕事もできると思う。「忘年会」「新年会」「歓送迎会」等の飲み会が無くなるのは残念だが・・・
2003年3月発表の国土交通省テレワーク実態調査によると、2002年10月現在日本には雇用型テレワーカー311万人、自営型テレワーカー97万人、合計408万人のテレワーカーがいる。2003年7月策定の「eJAPAN戦略Ⅱ」によると、2010年に日本の労働人口の2割をテレワーカーにする目標をかかげている。
但し、研究者の間ではテレワークにも固有の問題があることも指摘されている。その中には、次のようなものがある。
就労時間を尺度とする賃金の適用が容易ではないこと
仕事と家庭が隣接、重複している面があるために経費の算定が困難な場合があること
テレワーカーはしばしば家事や子育てと仕事の切り換えが難しく、集中が困難な場合があること
実際に上司などと顔を合わせて働く機会が少ないため、信頼の醸成などが難しく、昇進に不利である可能性が考えられること
確かに、これだけインターネットが発達してきたら、在宅で仕事もできると思う。「忘年会」「新年会」「歓送迎会」等の飲み会が無くなるのは残念だが・・・
世界中から高い評価を得て、いまや国家的なプロジェクトにも取り上げられる日本のマンガ・アニメーション。京都精華大学マンガ学部はこの新しいかたちの芸術・エンタテインメント表現を総合的に学ぶことのできる、日本の大学で初めての学部です。カートゥーン、ストーリーマンガ、アニメーションと、マンガのあらゆる表現スタイルをカバーし、作家・クリエイターはもちろん、編集者、プロデューサー、研究者の育成も視野に入れた教育を行なっています。
指導にあたるのは、第一線で活躍する現役のマンガ家、大手出版社の元編集長、世界的に注目を集めるアニメクリエイターたち。しかも、その活動領域は大学内にとどまらず、企業や自治体との連携によるマンガ制作、現役マンガ家のアシスタント体験、国際展覧会への出品など、きわめて実践的で広がりのあるものです。
ここには、次代のマンガ文化の担い手を生みだす最高の環境がそろっています。
イギリスで生まれた一枚もののユーモア絵画・カートゥーンを学ぶマンガ学科カートゥーンコース、いまや日本のエンタテインメントの中核となっているコミックのつくり手になるためのマンガ学科ストーリーマンガコース、世界的な評価を受けているアニメーションのすべてを体系的に学ぶアニメーション学科。マンガ学部の学科・コース編成は、マンガが持つあらゆる表現スタイルをカバーするものです。また、マンガ学部にはもうひとつ、マンガプロデュース学科が置かれ、編集、原作、プロデュース、批評という観点から、マンガ文化を学ぶこともできます。
そして、これらの学科・コースの間では、マンガプロデュースの学生の企画・原作を、ストーリーマンガの学生がマンガ化する、あるいは共同でコミック誌を編集・刊行するというように、さまざまなかたちのコラボレーションも行なわれ、他大学にはない立体的で実践的なマンガ教育が展開されています。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/education/manga/index.html
今や、日本のマンガ・アニメションは「日本から世界に発信される大きな、そして貴重な『文化』」であると僕は思う。それにしても、「ギャグマンガ家」に多く自殺者が出るのはどうしてだろう。やはり、「多くの人を笑わせるギャグ」を量産する事は物凄くたいへんな事なのだと思う。僕の敬愛する赤塚不二夫さんも聞くところによると、意識不明で3年、ベッドの上にいる状態らしい。
出版社 / 著者からの内容紹介
●登場人物/小山(自分の美貌を自慢するOL。自分の写真を配るのが趣味)。小池(ゾウが大好きで不思議な行動をするOL)。小松(よく課長に叱られる、ドジで甘い物が好物なOL)。強い妻(息子が泣こうが信念を曲げず、何ごとにも動じない妻)。呪いの女(すべてが裏目に出てしまい、些細な事に恨みを感じる女)。●本巻の特徴/「○○な女」とつけられたタイトルに思わず納得。女性ならではの行動やさりげない心理が鋭い視点で描かれる。後半には、その後中心キャラクターとなる小山、小池、小松といったOLたちが登場。巻頭とカバー内側には、小山、小池、小松の3人のキャラクターがよくわかる書き下ろしの小ネタ「女それぞれ」を掲載。また「恋人の有無」「現在の貯蓄額」など、現在のOLたちの気になるアンケート調査も収録されている。
<ご注意>希少本ですので、「在庫あり」の場合でもs-book.comのみの販売となりますことをご了承ください。また、ご注文できた場合でもお手配できない場合や、装丁等が汚れていたり、交換等も難しくなります。
出版社/著者からの内容紹介
日本ギャグマンガ界不滅の金字塔、赤塚不二夫の『天才バカボン』が文庫にてコンプリート!!実験期のハチャメチャさもコンパクトに再現して、現在最も手軽に手に入る日本マンガ界の“歴史的事件”。
内容(「BOOK」データベースより)
1992年5月、高層住宅の11階から飛び降り自殺し、24年の短い生涯を閉じた“カルト漫画家”山田花子。死後六年を経過した現在も“信者”とも言える熱狂的なファンを増やし続けている彼女が、死の前日まで記していた日記が存在した。テレビ、新聞、雑誌などを賑わせた「自殺直前日記」が、完全版となって登場!96年刊行版に、新たに発見された「日記」の未発表部分を追加した完全版!読者からの手紙も併せて収録。
内容(「BOOK」データベースより)
不思議な日常生活を綴ったファン必読のイラスト&エッセイ集。
指導にあたるのは、第一線で活躍する現役のマンガ家、大手出版社の元編集長、世界的に注目を集めるアニメクリエイターたち。しかも、その活動領域は大学内にとどまらず、企業や自治体との連携によるマンガ制作、現役マンガ家のアシスタント体験、国際展覧会への出品など、きわめて実践的で広がりのあるものです。
ここには、次代のマンガ文化の担い手を生みだす最高の環境がそろっています。
イギリスで生まれた一枚もののユーモア絵画・カートゥーンを学ぶマンガ学科カートゥーンコース、いまや日本のエンタテインメントの中核となっているコミックのつくり手になるためのマンガ学科ストーリーマンガコース、世界的な評価を受けているアニメーションのすべてを体系的に学ぶアニメーション学科。マンガ学部の学科・コース編成は、マンガが持つあらゆる表現スタイルをカバーするものです。また、マンガ学部にはもうひとつ、マンガプロデュース学科が置かれ、編集、原作、プロデュース、批評という観点から、マンガ文化を学ぶこともできます。
そして、これらの学科・コースの間では、マンガプロデュースの学生の企画・原作を、ストーリーマンガの学生がマンガ化する、あるいは共同でコミック誌を編集・刊行するというように、さまざまなかたちのコラボレーションも行なわれ、他大学にはない立体的で実践的なマンガ教育が展開されています。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/education/manga/index.html
今や、日本のマンガ・アニメションは「日本から世界に発信される大きな、そして貴重な『文化』」であると僕は思う。それにしても、「ギャグマンガ家」に多く自殺者が出るのはどうしてだろう。やはり、「多くの人を笑わせるギャグ」を量産する事は物凄くたいへんな事なのだと思う。僕の敬愛する赤塚不二夫さんも聞くところによると、意識不明で3年、ベッドの上にいる状態らしい。
マカロニほうれん荘 1 (1)秋田書店このアイテムの詳細を見る |
まさちゅーせっつ (1)小学館このアイテムの詳細を見る |
出版社 / 著者からの内容紹介
●登場人物/小山(自分の美貌を自慢するOL。自分の写真を配るのが趣味)。小池(ゾウが大好きで不思議な行動をするOL)。小松(よく課長に叱られる、ドジで甘い物が好物なOL)。強い妻(息子が泣こうが信念を曲げず、何ごとにも動じない妻)。呪いの女(すべてが裏目に出てしまい、些細な事に恨みを感じる女)。●本巻の特徴/「○○な女」とつけられたタイトルに思わず納得。女性ならではの行動やさりげない心理が鋭い視点で描かれる。後半には、その後中心キャラクターとなる小山、小池、小松といったOLたちが登場。巻頭とカバー内側には、小山、小池、小松の3人のキャラクターがよくわかる書き下ろしの小ネタ「女それぞれ」を掲載。また「恋人の有無」「現在の貯蓄額」など、現在のOLたちの気になるアンケート調査も収録されている。
<ご注意>希少本ですので、「在庫あり」の場合でもs-book.comのみの販売となりますことをご了承ください。また、ご注文できた場合でもお手配できない場合や、装丁等が汚れていたり、交換等も難しくなります。
天才バカボン (1)竹書房このアイテムの詳細を見る |
出版社/著者からの内容紹介
日本ギャグマンガ界不滅の金字塔、赤塚不二夫の『天才バカボン』が文庫にてコンプリート!!実験期のハチャメチャさもコンパクトに再現して、現在最も手軽に手に入る日本マンガ界の“歴史的事件”。
自殺直前日記 完全版太田出版このアイテムの詳細を見る |
内容(「BOOK」データベースより)
1992年5月、高層住宅の11階から飛び降り自殺し、24年の短い生涯を閉じた“カルト漫画家”山田花子。死後六年を経過した現在も“信者”とも言える熱狂的なファンを増やし続けている彼女が、死の前日まで記していた日記が存在した。テレビ、新聞、雑誌などを賑わせた「自殺直前日記」が、完全版となって登場!96年刊行版に、新たに発見された「日記」の未発表部分を追加した完全版!読者からの手紙も併せて収録。
ぢるぢる日記二見書房このアイテムの詳細を見る |
内容(「BOOK」データベースより)
不思議な日常生活を綴ったファン必読のイラスト&エッセイ集。
石原 慎太郎(いしはら しんたろう(旧字体で『石原愼太郎』とも表記されるが、本項ではよく知られている新字体の表記を使用する)、昭和7年(1932年)9月30日 - )は、日本の政治家、小説家。自民党員。現東京都知事、元衆議院議員、元参議院議員。第34回芥川賞受賞作家、現同賞審査委員。戸塚ヨットスクールを支援する会会長。新しい歴史教科書をつくる会に賛同するなど、右派・新保守主義的政治家の代表として知られる。
日本の著名な歌手兼俳優の石原裕次郎の実兄という知名度、強い個性とリーダーシップというイメージから人気が高く、1999年の東京都知事選では有力候補を押さえて大差で当選し、続く2003年の都知事選では史上最高の得票率を得て再選、現在二期目である。主な支援団体は霊友会。
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。一橋大学在学中の1956年、『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞、文壇デビューを果たす。
1968年に参議院議員に初当選、1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選する(以後連続8回当選)。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬するも落選。その後1976年福田内閣で環境庁長官を、1987年竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補した(海部俊樹に敗れる)。1995年、議員辞職。
1999年、再度、都知事選に出馬。立候補を表明するのが有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。2003年には308万票(得票率史上最高)を得て再選を果たした。2006年5月15日「8都県市首脳会議」後の報道陣との質疑で三選出馬を正式に表明した。自民党の推薦を受けていたが、2007年2月22日突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と推薦を辞退することを表明した。
家族は妻と4男(伸晃・良純・宏高・延啓)がいる。趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング。
人物像
政治的には新保守主義的スタンスをとる。石原の持ち味とされる、毅然とも倣岸ともとれる態度や、斟酌ぬきの大胆な発言は時に多くの支持を得る一方、近隣諸国の民族・文化を殊更に否定、ないし揶揄する発言が非難を浴びたり、時としてその発言がきっかけとなって訴訟にまで発展するなど、常に要職の地位にありながら舌禍に発展すること枚挙に暇がない。フランスではオーストリアの極右になぞらえて「日本のハイダー」と報じられたことがある。
江藤淳が石原の人物評として遺した「無意識過剰」なる端的なフレーズは、石原本人も「言い得て妙」であるとして、現在では自己の性格を表す際に石原自らが頻繁に用いるところともなっている。その一方で、反石原陣営においては、これまでに石原が惹き起こした数々の舌禍事件を揶揄する際のフレーズとして、この「無意識過剰」がしばしば常套的に用いられることがある。
外国人について
アジア系在日外国人やフランス人、及びそれらの文化を否定・揶揄する発言をしばしば行ううため、フランス語教育関係者は会見を行い猛反発したこともある。2005年の国連人権委員会では特別報告者のディエヌから「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか、説明を求めたい」と苦言を呈されている。また自分の言動に関しては、どんなに非難されても基本的には謝罪をしない。
ジェンダー・性の問題について
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。 男尊女卑の観点をうかがわせる「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」という発言をし、裁判に発展している。(いわゆるババァ発言事件)
性の問題については「太陽の季節」などの小説で奔放な性を描き、自著で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行うなど自身は自由な性行為を行っており、都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示していて、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない。なおベトナム買春問題に付いては当時相次いでいた買春ツアーと同じ性的搾取ではないかというフェミニストもいる。
都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行うが、「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億もの都税を投入した新銀行東京の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。一方で、都財政に数千・数百億の損失をもたらすこととなった政策(新銀行東京設立や臨海副都心開発など)や、中途半端な段階のまま進行がみられなかったり断念した政策(横田基地返還、カジノ構想など)も多い。
就任から2007年まで週に2・3日ペースの登庁で、午後からの出勤も多い。知事公館は利用していない(民間に貸し付け)。自身や特別秘書らが飲食代として使った知事交際費の総額が7年間で約1615万円に達したり、四男をめぐる問題などの疑惑もある。
首都機能移転には強硬に反対している。
首都大学東京・新銀行東京・大江戸線・心の東京革命など、作家の感覚からネーミングを提案している。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊とその後の景気低迷の影響による都税収入の落ち込み、鈴木俊一元知事以来の臨海副都心開発の失敗などにより2006年度末に17兆円を突破しており、都民一人当たりの負債額は約140万円と共に全国最多である。特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を強行している。
都知事として二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とし、知事二期目は東京オリンピック誘致をテコにした大型開発拡大の姿勢を強めている。
臨海副都心開発
鈴木俊一元知事以来の第三セクターによるバブル崩壊後のお台場の臨海副都心開発計画は大赤字を出して行き詰まっていたが、石原知事は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター三社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらにはビルの都による借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年まで)も費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年5月12日には東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発の3社の第三セクターは財政破たんし、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
評価
メリハリの効いた予算編成という見方もある一方で、福祉の削減・弱者切り捨ての傾向、土建屋主導の予算編成であるという批判もある。
十分な準備・調査をせず他人に耳を貸さない強引な手法が仇になることが少なくなく、その政治手法には疑問の声もある。
二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約としているが、2008年北京オリンピックのすぐ後にまたアジアが選定される可能性は今までのオリンピック史からもほとんど有り得ないので、単なるゼネコン票対策の税金の無駄遣いだと批判を受けている。
側近であった浜渦武生を東京都副知事に据えた際に専横を許してしまったこと、内規を越えた高額な外遊費を使っても全く悪びれないこと(→都政の私物化問題)、四男で画家の石原延啓に東京都の仕事を回したこと(直接口利きをしたことも2006年12月16日のテレビ生出演で認めた)など、公私混同あるいは身内厚遇(縁故採用)の傾向も否めず、常に論争の種となっている。
首都大学東京開学に関して旧都立大関係者から批判を受けている。
東京都の職員のみならず国の職員や東京都民からも「石原都政となってからは周囲に目を配らず、上ばかり見て仕事をする人間が増えた」という声があり、権力構造が強化され組織がより硬直化・官僚主義化したとされる。
国民的人気に裏打ちされた巨大な集票力や、親米保守系企業グループであるフジサンケイグループのバックアップを背景とした強力な指導力は、短期間での政策実現を可能にする一方で、極端なトップダウン構造でボトムアップの意見集約が機能しないという非民主主義的な弊害も生んでいる。
事業の状況を限らない外形標準課税の導入に関する政府・国会内の議論を活発にし、また地方の財政問題に関する問題意識を高めたとの評価もある。
首都機能移転反対に関して、1990年に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、当時から衆院議員として反対していたと述べたが、新聞社の写真により実は採決で起立し賛成していたことが発覚し、矛盾点を批判された。(→エピソード)
不透明な政策・私物化疑惑
トーキョーワンダーサイト
新進・若手芸術家の育成を図る目的で「トーキョーワンダーサイト」を設立。既成の都文化施設では石原都政下予算を4~5割減らしたのに対し、新しく設立されたトーキョーワンダーサイトは予算が8倍以上増え、現在最も多額の予算を割り当てられている文化施設となっているが、家族や知人を運営に参画させたり事業計画・予算決算が不透明であるなど、公私混同の疑いを指摘されている。
海外出張旅費
2006年11月、「海外出張旅費の支出が条例の規定を大幅に上回る多額であること、それらが私的観光で妻の旅費も公費で負担させていたこと、それと四男が都の外郭団体の委嘱を受けて海外旅行をした」ことがしんぶん赤旗に掲載され、トーキョーワンダーサイトの問題も含め「不明瞭な支出、同族経営」と批判を受ける。定例記者会見でこれに対し「報道は共産党の情報操作によるものだ」と反論。一部の記者から「我々は共産党の尻馬に乗って報道しているわけではない」と応酬された。この件は朝日新聞・東京新聞も疑問を提し続けている。
東京マラソン
石原慎太郎主導で2007年から始まった東京マラソンに関して、石原慎太郎の次男である石原良純はフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。石原良純は今回の出演を依頼される以前に石原慎太郎都知事から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ。」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている。石原都知事の身内からの起用に関して、都知事とフジテレビとの不透明な関係性を批判する声がある。
エピソード
1983年の衆議院議員総選挙の時には東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、その秘書は現行犯逮捕された(いわゆる黒シール事件。政治家の常で、石原本人の関与の有無は明らかとなっておらず秘書のせいだということになっている)。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行うに至っている。
毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか。」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答える。しかし、後に都知事として国旗と国歌を徹底していく。
2001年3月九州新幹線に対し「不良債権」「一握りの政治家の利益誘導」「常識で考えたって採算が合うわけない。文句言っている知事が八代から鹿児島まで毎日毎日,新幹線に乗ったらどうか」「博多から鹿児島まで造るなら分かるが,鹿児島からとりあえず八代まで造ろうとしている」等批判を繰り返すが田中 JR九州社長に「石原都知事が運輸大臣だった時に決まったことで, 自分が決めておきながら批判するのはいかがなものか」といわれてしまう。
ベトナム戦争の「クリスマス停戦(トルース)」をサイゴン市内から一歩も出ずに取材。ベトナムでの経験をきっかけとして政治への参加を考えるようになる。また、現地で買春をしたことを著書『国家なる幻影』で告白した。
2001年11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」に参考人として出席し、1990年11月7日の「国会等の移転に関する決議」への賛否について、「私は終始反対でありました。」と述べ、また「私は金丸さんの割と近くに座っていまして、金丸さんが、おい、石原君、君反対かいと言うから、私は反対ですなと言って座った。」と明言したが、衆議院本会議の起立採決を撮影した新聞写真には起立している石原慎太郎が写っており、嘘を付いているのではないかと特別委の永井委員長から指摘、「大変遺憾なことである」と強く批判を受けた。
年譜
1932年9月30日:兵庫県神戸市須磨区に山下汽船に勤める父・石原潔、母・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜に生まれ旧制宇和島中学(現・宇和島東高校)を中退後山下汽船に入社、店童(商店で言えば丁稚)から出発し関連会社とはいえ重役に出世した人物。母・光子は広島県宮島の出身(出生地は大阪市)。
1934年12月:弟・裕次郎が生まれる。
1936年6月:父・潔が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。
1943年1月:父・潔が小樽支店長となる
1943年2月:父・潔が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。
1945年4月:神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
1949年:1年間、休学する。この頃描いた絵を「ゴーギャンさえも驚愕する名作である」と自賛。公式サイト内では「石原の迸る感受性の果実」と紹介している。
1951年10月:父・潔が脳溢血で急死。元々は京都大学フランス文学科に行くつもりであったが、父の上司の助言により公認会計士を目指し一橋大学を志望する。
1952年4月:一橋大学入学。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いてないと悟り公認会計士になることを断念する。
1955年12月:当時18歳だった石田由美子(広島市己斐町(現・西区己斐)生まれ。後に典子と改名)と結婚。由美子は小泉純一郎と縁戚になる(由美子の従兄弟の子にあたる美枝子が純一郎の実弟・正也と結婚した)。
1956年1月23日:弟・裕次郎の放蕩生活に想を得た『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞。史上最年少受賞(当時)。ベストセラーとなり、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となる。
1956年3月:一橋大学法学部を卒業(法学社会学部に入学した。在学中に学部改組が行われ法学社会学部が法学部と社会学部に分離し、法学部を卒業)。
『太陽の季節』が日活で映画化され、当時無職だった弟・石原裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たす。
1957年4月19日:長男・伸晃が誕生。
1958年:東宝で映画「若い獣」の監督を務める。
1962年1月15日:二男・良純が誕生。
1963年3月:『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
1964年6月19日:三男・宏高が誕生。
1966年:四男・延啓が誕生。
1967年:読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
1968年7月:自由民主党から参議院全国区(当時)に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。
1969年11月:『スパルタ教育』を光文社より出版。 子供はスパルタのように厳しく育てろと説いた。
1972年12月:参議院議員を辞職し衆議院選挙に東京2区から無所属で出馬して当選。後に自由民主党に復党
1973年7月:渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
1975年4月:現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。なおこの落選については公式サイト内では全く触れられていない。
1976年:福田赳夫内閣で環境庁長官に就任。
1983年:自由民主党の派閥、中川派を継いで石原派の代表となる。
1983年:黒シール事件によって新井将敬の選挙活動を妨害し野村秋介より抗議を受ける。
1987年7月17日:弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去(享年52)。
1987年11月:竹下登内閣で運輸大臣に就任。
1989年8月:亀井静香らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
1990年:総選挙で伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
1995年4月:国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明。
1996年:弟の故裕次郎をテーマに『弟』を発表。
1999年4月:再度、都知事選に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「どうも、石原裕次郎の兄です」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
2003年4月:308万票(得票率史上最高)を得て、東京都知事に再選。
2004年:「弟」テレビドラマ化。
2006年5月14日:フジテレビの討論番組「報道2001」に生出演し、「オリンピック招致を言い出した以上、やらないわけにはいかない。それまで体力がもつかなあ」と発言し、2007年4月の都知事選への3選出馬の意向を示した。
2006年12月7日:都議会本会議で2007年の都知事選への出馬を正式表明。
2007年2月16日:記者会見で既に決定している自民党の推薦を受けるつもりのない事を明言。
(Wikipediaより)→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
どこまでが真実か分からないが、パワフルであり、実行力もある。しかし、その発言が強い批判を受けている。経歴・エピソードを読んだ限り、僕が気になったのは、僕と同じ「神戸市須磨区生まれ」という事がいちばん印象に残った。
出版社/著者からの内容紹介
戦後の青春はこの1冊から始まった。ドラマ化で話題の表題作のほか、伝説の名作「乾いた花」全面改稿決定版、あとがき「青春のピュリティ」、「処刑の部屋」、「完全な遊戯」、「ファンキー・ジャンプ」を収録。
日本の著名な歌手兼俳優の石原裕次郎の実兄という知名度、強い個性とリーダーシップというイメージから人気が高く、1999年の東京都知事選では有力候補を押さえて大差で当選し、続く2003年の都知事選では史上最高の得票率を得て再選、現在二期目である。主な支援団体は霊友会。
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。一橋大学在学中の1956年、『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞、文壇デビューを果たす。
1968年に参議院議員に初当選、1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選する(以後連続8回当選)。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬するも落選。その後1976年福田内閣で環境庁長官を、1987年竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補した(海部俊樹に敗れる)。1995年、議員辞職。
1999年、再度、都知事選に出馬。立候補を表明するのが有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。2003年には308万票(得票率史上最高)を得て再選を果たした。2006年5月15日「8都県市首脳会議」後の報道陣との質疑で三選出馬を正式に表明した。自民党の推薦を受けていたが、2007年2月22日突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と推薦を辞退することを表明した。
家族は妻と4男(伸晃・良純・宏高・延啓)がいる。趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング。
人物像
政治的には新保守主義的スタンスをとる。石原の持ち味とされる、毅然とも倣岸ともとれる態度や、斟酌ぬきの大胆な発言は時に多くの支持を得る一方、近隣諸国の民族・文化を殊更に否定、ないし揶揄する発言が非難を浴びたり、時としてその発言がきっかけとなって訴訟にまで発展するなど、常に要職の地位にありながら舌禍に発展すること枚挙に暇がない。フランスではオーストリアの極右になぞらえて「日本のハイダー」と報じられたことがある。
江藤淳が石原の人物評として遺した「無意識過剰」なる端的なフレーズは、石原本人も「言い得て妙」であるとして、現在では自己の性格を表す際に石原自らが頻繁に用いるところともなっている。その一方で、反石原陣営においては、これまでに石原が惹き起こした数々の舌禍事件を揶揄する際のフレーズとして、この「無意識過剰」がしばしば常套的に用いられることがある。
外国人について
アジア系在日外国人やフランス人、及びそれらの文化を否定・揶揄する発言をしばしば行ううため、フランス語教育関係者は会見を行い猛反発したこともある。2005年の国連人権委員会では特別報告者のディエヌから「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか、説明を求めたい」と苦言を呈されている。また自分の言動に関しては、どんなに非難されても基本的には謝罪をしない。
ジェンダー・性の問題について
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。 男尊女卑の観点をうかがわせる「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」という発言をし、裁判に発展している。(いわゆるババァ発言事件)
性の問題については「太陽の季節」などの小説で奔放な性を描き、自著で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行うなど自身は自由な性行為を行っており、都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示していて、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない。なおベトナム買春問題に付いては当時相次いでいた買春ツアーと同じ性的搾取ではないかというフェミニストもいる。
都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行うが、「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億もの都税を投入した新銀行東京の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。一方で、都財政に数千・数百億の損失をもたらすこととなった政策(新銀行東京設立や臨海副都心開発など)や、中途半端な段階のまま進行がみられなかったり断念した政策(横田基地返還、カジノ構想など)も多い。
就任から2007年まで週に2・3日ペースの登庁で、午後からの出勤も多い。知事公館は利用していない(民間に貸し付け)。自身や特別秘書らが飲食代として使った知事交際費の総額が7年間で約1615万円に達したり、四男をめぐる問題などの疑惑もある。
首都機能移転には強硬に反対している。
首都大学東京・新銀行東京・大江戸線・心の東京革命など、作家の感覚からネーミングを提案している。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊とその後の景気低迷の影響による都税収入の落ち込み、鈴木俊一元知事以来の臨海副都心開発の失敗などにより2006年度末に17兆円を突破しており、都民一人当たりの負債額は約140万円と共に全国最多である。特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を強行している。
都知事として二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とし、知事二期目は東京オリンピック誘致をテコにした大型開発拡大の姿勢を強めている。
臨海副都心開発
鈴木俊一元知事以来の第三セクターによるバブル崩壊後のお台場の臨海副都心開発計画は大赤字を出して行き詰まっていたが、石原知事は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター三社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらにはビルの都による借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年まで)も費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年5月12日には東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発の3社の第三セクターは財政破たんし、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
評価
メリハリの効いた予算編成という見方もある一方で、福祉の削減・弱者切り捨ての傾向、土建屋主導の予算編成であるという批判もある。
十分な準備・調査をせず他人に耳を貸さない強引な手法が仇になることが少なくなく、その政治手法には疑問の声もある。
二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約としているが、2008年北京オリンピックのすぐ後にまたアジアが選定される可能性は今までのオリンピック史からもほとんど有り得ないので、単なるゼネコン票対策の税金の無駄遣いだと批判を受けている。
側近であった浜渦武生を東京都副知事に据えた際に専横を許してしまったこと、内規を越えた高額な外遊費を使っても全く悪びれないこと(→都政の私物化問題)、四男で画家の石原延啓に東京都の仕事を回したこと(直接口利きをしたことも2006年12月16日のテレビ生出演で認めた)など、公私混同あるいは身内厚遇(縁故採用)の傾向も否めず、常に論争の種となっている。
首都大学東京開学に関して旧都立大関係者から批判を受けている。
東京都の職員のみならず国の職員や東京都民からも「石原都政となってからは周囲に目を配らず、上ばかり見て仕事をする人間が増えた」という声があり、権力構造が強化され組織がより硬直化・官僚主義化したとされる。
国民的人気に裏打ちされた巨大な集票力や、親米保守系企業グループであるフジサンケイグループのバックアップを背景とした強力な指導力は、短期間での政策実現を可能にする一方で、極端なトップダウン構造でボトムアップの意見集約が機能しないという非民主主義的な弊害も生んでいる。
事業の状況を限らない外形標準課税の導入に関する政府・国会内の議論を活発にし、また地方の財政問題に関する問題意識を高めたとの評価もある。
首都機能移転反対に関して、1990年に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、当時から衆院議員として反対していたと述べたが、新聞社の写真により実は採決で起立し賛成していたことが発覚し、矛盾点を批判された。(→エピソード)
不透明な政策・私物化疑惑
トーキョーワンダーサイト
新進・若手芸術家の育成を図る目的で「トーキョーワンダーサイト」を設立。既成の都文化施設では石原都政下予算を4~5割減らしたのに対し、新しく設立されたトーキョーワンダーサイトは予算が8倍以上増え、現在最も多額の予算を割り当てられている文化施設となっているが、家族や知人を運営に参画させたり事業計画・予算決算が不透明であるなど、公私混同の疑いを指摘されている。
海外出張旅費
2006年11月、「海外出張旅費の支出が条例の規定を大幅に上回る多額であること、それらが私的観光で妻の旅費も公費で負担させていたこと、それと四男が都の外郭団体の委嘱を受けて海外旅行をした」ことがしんぶん赤旗に掲載され、トーキョーワンダーサイトの問題も含め「不明瞭な支出、同族経営」と批判を受ける。定例記者会見でこれに対し「報道は共産党の情報操作によるものだ」と反論。一部の記者から「我々は共産党の尻馬に乗って報道しているわけではない」と応酬された。この件は朝日新聞・東京新聞も疑問を提し続けている。
東京マラソン
石原慎太郎主導で2007年から始まった東京マラソンに関して、石原慎太郎の次男である石原良純はフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。石原良純は今回の出演を依頼される以前に石原慎太郎都知事から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ。」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている。石原都知事の身内からの起用に関して、都知事とフジテレビとの不透明な関係性を批判する声がある。
エピソード
1983年の衆議院議員総選挙の時には東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、その秘書は現行犯逮捕された(いわゆる黒シール事件。政治家の常で、石原本人の関与の有無は明らかとなっておらず秘書のせいだということになっている)。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行うに至っている。
毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか。」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答える。しかし、後に都知事として国旗と国歌を徹底していく。
2001年3月九州新幹線に対し「不良債権」「一握りの政治家の利益誘導」「常識で考えたって採算が合うわけない。文句言っている知事が八代から鹿児島まで毎日毎日,新幹線に乗ったらどうか」「博多から鹿児島まで造るなら分かるが,鹿児島からとりあえず八代まで造ろうとしている」等批判を繰り返すが田中 JR九州社長に「石原都知事が運輸大臣だった時に決まったことで, 自分が決めておきながら批判するのはいかがなものか」といわれてしまう。
ベトナム戦争の「クリスマス停戦(トルース)」をサイゴン市内から一歩も出ずに取材。ベトナムでの経験をきっかけとして政治への参加を考えるようになる。また、現地で買春をしたことを著書『国家なる幻影』で告白した。
2001年11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」に参考人として出席し、1990年11月7日の「国会等の移転に関する決議」への賛否について、「私は終始反対でありました。」と述べ、また「私は金丸さんの割と近くに座っていまして、金丸さんが、おい、石原君、君反対かいと言うから、私は反対ですなと言って座った。」と明言したが、衆議院本会議の起立採決を撮影した新聞写真には起立している石原慎太郎が写っており、嘘を付いているのではないかと特別委の永井委員長から指摘、「大変遺憾なことである」と強く批判を受けた。
年譜
1932年9月30日:兵庫県神戸市須磨区に山下汽船に勤める父・石原潔、母・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜に生まれ旧制宇和島中学(現・宇和島東高校)を中退後山下汽船に入社、店童(商店で言えば丁稚)から出発し関連会社とはいえ重役に出世した人物。母・光子は広島県宮島の出身(出生地は大阪市)。
1934年12月:弟・裕次郎が生まれる。
1936年6月:父・潔が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。
1943年1月:父・潔が小樽支店長となる
1943年2月:父・潔が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。
1945年4月:神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
1949年:1年間、休学する。この頃描いた絵を「ゴーギャンさえも驚愕する名作である」と自賛。公式サイト内では「石原の迸る感受性の果実」と紹介している。
1951年10月:父・潔が脳溢血で急死。元々は京都大学フランス文学科に行くつもりであったが、父の上司の助言により公認会計士を目指し一橋大学を志望する。
1952年4月:一橋大学入学。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いてないと悟り公認会計士になることを断念する。
1955年12月:当時18歳だった石田由美子(広島市己斐町(現・西区己斐)生まれ。後に典子と改名)と結婚。由美子は小泉純一郎と縁戚になる(由美子の従兄弟の子にあたる美枝子が純一郎の実弟・正也と結婚した)。
1956年1月23日:弟・裕次郎の放蕩生活に想を得た『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞。史上最年少受賞(当時)。ベストセラーとなり、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となる。
1956年3月:一橋大学法学部を卒業(法学社会学部に入学した。在学中に学部改組が行われ法学社会学部が法学部と社会学部に分離し、法学部を卒業)。
『太陽の季節』が日活で映画化され、当時無職だった弟・石原裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たす。
1957年4月19日:長男・伸晃が誕生。
1958年:東宝で映画「若い獣」の監督を務める。
1962年1月15日:二男・良純が誕生。
1963年3月:『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
1964年6月19日:三男・宏高が誕生。
1966年:四男・延啓が誕生。
1967年:読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
1968年7月:自由民主党から参議院全国区(当時)に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。
1969年11月:『スパルタ教育』を光文社より出版。 子供はスパルタのように厳しく育てろと説いた。
1972年12月:参議院議員を辞職し衆議院選挙に東京2区から無所属で出馬して当選。後に自由民主党に復党
1973年7月:渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
1975年4月:現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。なおこの落選については公式サイト内では全く触れられていない。
1976年:福田赳夫内閣で環境庁長官に就任。
1983年:自由民主党の派閥、中川派を継いで石原派の代表となる。
1983年:黒シール事件によって新井将敬の選挙活動を妨害し野村秋介より抗議を受ける。
1987年7月17日:弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去(享年52)。
1987年11月:竹下登内閣で運輸大臣に就任。
1989年8月:亀井静香らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
1990年:総選挙で伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
1995年4月:国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明。
1996年:弟の故裕次郎をテーマに『弟』を発表。
1999年4月:再度、都知事選に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「どうも、石原裕次郎の兄です」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
2003年4月:308万票(得票率史上最高)を得て、東京都知事に再選。
2004年:「弟」テレビドラマ化。
2006年5月14日:フジテレビの討論番組「報道2001」に生出演し、「オリンピック招致を言い出した以上、やらないわけにはいかない。それまで体力がもつかなあ」と発言し、2007年4月の都知事選への3選出馬の意向を示した。
2006年12月7日:都議会本会議で2007年の都知事選への出馬を正式表明。
2007年2月16日:記者会見で既に決定している自民党の推薦を受けるつもりのない事を明言。
(Wikipediaより)→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
どこまでが真実か分からないが、パワフルであり、実行力もある。しかし、その発言が強い批判を受けている。経歴・エピソードを読んだ限り、僕が気になったのは、僕と同じ「神戸市須磨区生まれ」という事がいちばん印象に残った。
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出版社/著者からの内容紹介
戦後の青春はこの1冊から始まった。ドラマ化で話題の表題作のほか、伝説の名作「乾いた花」全面改稿決定版、あとがき「青春のピュリティ」、「処刑の部屋」、「完全な遊戯」、「ファンキー・ジャンプ」を収録。