鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

長崎原爆の日

2013-08-09 16:35:59 | 思いつくまま

  きょう8月9日は長崎原爆の日ですが、6日の広島原爆の日に因んで書かせていただきます。

 6日の朝日新聞の記事です。

 

 ここで「原爆の子」のことが語られています。  小島純也さんの記事が中心ですが、最後の方に『はだしのゲン』の作者中沢啓治さんにも触れています。 この記事で初めて知りました、『原爆の子』のなかに中沢啓治さんも載っているということを。

 それで奥の倉庫を探しました。 思っていたよりも早く見つかりました。 この本です。

 初版は昭和26年です。

  持っているのは、昭和43年第24刷 です。

 昭和43年というと私が大学生の時です。 今でも覚えています、読みながら泣きに泣いたことを。 もう涙が止まりませんでした。 止めることができませんでした。 本を読んでこんなにも泣けて泣けてどうしようもなかった本はこの本が初めてです。 その後もこの本のような強烈な印象をもった本には出会っていません。

 本の最後の方のあとがきの前のページに感想?みたいな文章が書かれていました。しかもローマ字でです。 ローマ字というと有名なのは石川啄木の、その名も「ローマ字日記」(岩波文庫)でしょうか。 桑原武夫が推薦の言葉を書いていたように記憶しています。別にそれを真似したわけではないのでしょうが、日本語ではなく、ローマ字にしなくてはならなかったくらいに深い強い感動を覚えてしまったからなのでしょう。

 こんなことが書かれていました。

 … Gizendeha Gomakashideha nainoka?  Donanda  Oreha Iikagenda mada mada Jikomanzokuda  Jikogiman sosite Amae ・・・

 『はだしのゲン』の愛読者でもあり、子どもたちにも伝えてきたつもりですが、「原爆の子」のどこに中沢啓治さんの手記が載っているのか探しました。 何回も何回も全頁をめくったのですがその名前が出てきません。  この本は目次がありません。 長い長い”序”があって、すぐにー廣島の少年少女のうったえーが続きます。 だから全頁を見てみないとどこに掲載されているのか分かりません。

 そのうち、あっそうか、もしかして”序”に引用されているのかもと思いまして、長田新さんの”序”を見ていくとありました、27ページです。

 

 部分的な拡大です。

 

 これは編者の長田新さんが「私は原爆投下の瞬間に忽ち地獄と化した惨状を、はっきり読者の目の前に浮かびださせる意図で、八時十五分直前の様子を、当時満三・四・五・六歳の子供達や、当時小学一・二・三年であった子供達の手記に聞いてみよう。」という考えで、”序”に取り上げているものです。

 そして新聞記事の小島純也さんです。 生後10カ月で母が病死。5歳の時に原爆で父、祖父母を失い、孤児となり、叔父夫婦に引き取られた小島さん。 小学6年の時に書いた作文が本に先行して雑誌「世界」に掲載されたのが叔父夫婦には気に入らなかった。『不幸』という文字があったから。

 『遠足の弁当にはみそを塗った麦ごはんしか与えられず、隠れて食べた。運動会も一人ぼっち。天井裏で寝起きさせられ、鉛筆も衣服も小遣いももらえなかった。』

 小島純也さんの手記を掲載させていただきます。

 

 ≪ もう原子ばくだんから六年たっています。ぼくは、今は満十一歳です。いよいよ大きくなり、元気に勉強して、あそんでいます。

 ぼくは小さいときから、お母さんはおられなくても、おばあさんやお父さんに大きくしてもらいました。

 ぼくは五歳のとき、原子ばくだんにあいました。原子ばくだんのとき、お父さんは、やくしょにいっておられました。そのとき、どくをすわれたものですから、いなかにこられたときは、もう、からだに、はんてんをいっぱいこさえて、死なれました。ぼくは、お父さんが、とてもとても、かわいそうでなりませんでした。ぼくはなんともいえない感じでした。ぼくは、それから、おやがおらなくなって、不幸です。

 今では、こんなに大きくなりました。ぼくは、お父さんやお母さんに、かんしゃしています。もう原子ばくだんから、六年たっています。原子ばくだんのまえは、幸福であったが、今ごろは不幸になってしまいました。でも、ぼくは、うちに家におらしてもらうだけ、まだ幸福です。なかなか、お父さんお母さんがおらないと、不幸なことだと頭にうかべています。

 いよいよ小学校の六年になって、大きくなりました。原子ばくだんで、ぼくは、ゆくえふめいにならなくてよかったと思います。中には、ゆくえふめいになった人もいるでしょう。

 それから、ぼくを大きくしてもらったおばあさんは、昭和三十三年にしなれたのです。お父さんや、お母さんが、おられなくなってから、約四年というものは、おばあさんにそだててもらったのです。ぼくは、おばあさんに、ありがとうといいます。

 やさしいお父さん、お母さんが、おられなくなってからというものは、不幸なものです。おやも、きょうだいも、おらないから、さびしいものです。ぼくは、お父さんがなくなったときは、りょうがんから、なみだが、ぽろぽろこぼれました。そのきもちで、お父さんお母さんにかんしゃしよります。ぼくがすることを、お父さん、お母さんが、みなみよってんだ、とおもって、なんでも、しよります。

 ぼくを三月にうんで、十一月に死なれたのだから、お母さんをみたことがりません。お母さんや、お父さんを、もう一回だけでもよいから、みたいのだが、もう二どと、ふたたび、みられないでしょう。 ≫

 今月に「原爆の子」の続編というのか、「『原爆の子』その後」が発売されるということです。 本の泉社発行  A5版256ページ  定価税込1575円 ということです。

 その本の中に、小島さんは 【いいんです、貧乏でも。わたしなりのプライドはもっています。弱い立場の人の気持ちは少しはわかるつもりです】 と書いているそうです。

 {原爆孤児として生きる私も無念だが、私を残して亡くなった父たちこそ無念だったと思う。父の代弁者のつもりで書きました。}

                        犠牲になられた皆様方に  合掌


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