「卵と壁」を超える瞬間
――村上春樹『1Q84』を読む
越川芳明
1
村上春樹のエルサレム賞受賞と受賞式出席でのスピーチがマスメディアを賑わせたのは、まだ記憶に新しい。村上の英語スピーチは、「さすが世界のムラカミ!」という単純で好意的なものから、「どうせだったら、卵を壁に投げつけるパフォーマンスぐらい見せてほしかった」という皮肉なものまで、日本人の間でいろいろな反応を引き起こした。
しかし、私にとっては「卵と壁」をめぐる「文学的な表現」が一人歩きしていた印象が強い。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
そう村上は受賞の席で言った。
私が初めにテレビや新聞などのニュースでその言葉を聞いたとき一番奇異に感じたのは、マスメディアが揃って、その文学的な表現を、村上によるイスラエル政府批判と受けとっていたことだ。報道関係者は、イスラエル軍によるガザ攻撃に言及しているとして、壁がイスラエル軍で、卵がパレスチナ市民、という単純な構図を思い描いたのだ。
だが、私はそう受け取らなかった。そうした文学的(多義的/曖昧)な表現では、壁というのは、過激なシオニストたちにだけでなく、イスラム原理主義者にもなりうる。その場合、卵は自爆テロの犠牲になるイスラエル市民をさす。さらに言えば、その表現は、硬直した原理主義一般に対する批判にもなりうる。つまり、「世界のムラカミ」は「私は原理主義が嫌いです」みたいな、分かりきったことしか言っていないのではないか。
そのときの私の直観では、村上はパレスチナ市民の味方であることを表明したのではない。だから、イスラエル政府があらかじめ村上のスピーチ原稿を読んだとしても、手直しを要求するまでもなかった。
立野正裕は、私の知るかぎり、村上の受賞スピーチに対して最も苛烈で正鵠(せいこく)を射た発言を行なっている。立野は、ある雑誌に載せたエッセイの中で、「暴力を前にしてあえて自らを卵になぞらえてみせる人間の声が、少しも伝わってこない。これを日本の報道のように、ガザ攻撃批判と言うのは笑止である」と、断言する。
さらに、村上やソンタグなどの文学者をふくむ有名人を利用する権力システム(それはイスラエル政府にかぎらない)への批判を行なう藤永茂の言葉、「異端的な発言が許されるのは、それを赦しておくことが『言論自由社会』のイメージに貢献する限りにおいてであって、もし実害が生じて、全体の勘定がマイナスになれば、即刻停止ということになる筈です」という言葉を援用しながら、立野は次のように述べるーー。
「村上が事前に送った原稿が削除や手直しを要求されなかったのは当然だろう。壁と卵をめぐる村上の言葉は前もって検閲するまでもまかったのだ。なぜなら、まさにこういうふうに中辛くらいの味付けで語ってほしい、と「壁」が願ったとおりに「卵」はしゃべって来たにすぎないのだから」(『社会評論』一五七号、二〇〇九年)
立野の言いたいことは、たとえ村上の発言がどんなに「文学的」な表現でなされたとしても、村上はイスラエル政府によって「政治的」に利用されてしまったということだ。村上のほうも、ノーベル賞への布石としてエルサレム賞受賞を利用した。両者にとって、「世界のイスラエル」と「世界のムラカミ」を宣伝するいいチャンスだった、と。
2
村上春樹の『1Q84』は、一九九五年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教をモデルにした寓話として読める。一九七九年に山梨の山中に宗教法人化した「さきがけ」という団体と、その教祖とも呼ぶべきリーダーが出てくる。(ちなみに、オウムの宗教法人化は一九八九年だ)。
そうした宗教カルト団体は、当然のごとく原理主義的な存在だが、小説の主人公の一人、青豆という名の三十歳になる女性は、そうした原理主義的な存在への嫌悪感を隠さない。
都内の公立図書館へ行き、新聞の縮刷版で一九八一年に起こった事件を調べているうちに、「エジプトのサダト大統領暗殺」の記事を発見して、宗教がらみの原理主義者たちに対して「一貫して強い嫌悪感」を抱く。「そういった連中の偏狭な世界観や、思い上がった優越感や、他人に対する無神経な押しつけのことを考えただけで、怒りがこみ上げてくる」のだった。
その少しあとでも、原理主義者は唾棄すべきものとして、「便秘」と比べられる。「便秘は青豆がこの世界でもっとも嫌悪するものごとのひとつだった。家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たちと同じくらい」
なぜか? なぜそれほどまでに青豆は原理主義者に嫌悪感を抱くのか?
宗教カルト団体「さきがけ」が壁だとすると、果たして、青豆は、ちょうどイスラエルで村上が英語でカッコよくタンカを切ったように、壁につぶされる卵の側に立つ人間なのだろうか。
だが、青豆をめぐる物語は、それほど単純ではない。
少しまわり道をしよう。この小説は、青豆と、彼女と対になる同年齢の主人公、川奈天吾を中心にして、家族の絆や精神的なよすがを失った現代日本人の内面を追いかける新しいタイプの<時代小説>のおもむきを持つ。
広告代理店の台頭やワープロの普及に象徴される、後期資本主義(情報・消費主義)の到来を彷彿とさせる一九八〇年代半ばを背景に、その市民生活を逐一描写しながら進む。だから、村上文学の意匠としてというより、そうした時代精神の反映として、ファッションや料理、音楽、文学、映画の比喩や言及が交えて語られるのは、小説の内的欲求といえよう。
だが、この小説はなぜこれほど長くなければならないのか。
これまでの新聞や雑誌での絶賛の嵐にもかかわらず、私にはこの小説は冗漫に感じられる。一つには、たとえばピーター・ケアリー『ケリー・ギャングの真実の歴史』やオルハム・パムク『雪』と違い、この小説は比喩やアナロジーやメタファーがばらばらに一人歩きしていて、有機的な機能を果たしていない。まるで一つひとつの筋肉の鍛え方は素晴らしくても、全体的には均整のとれていないボディビルダーの体を見ているように、ちぐはぐな印象を受ける。
さらに、重要なことに、小説を読み進めるうちに次第に明らかになるように、主人公の秘密の開示にあたって、あまりに驚きが少なすぎる。だから心地よいのだ、という読者もいるだろう。最初に謎かけがあり、次第にその謎が解けていくミステリの語り形式の、それが醍醐味だ、と。
だが、この小説では、主人公の内面の秘密まで、後づけの説明でたいていのことは分かってしまう。だから、後づけの説明に触れることは、この小説に礼儀を欠くことになる。しかし、後づけの説明、すなわち粗筋を語って興味がそがれ、主人公の内面まで分かってしまうとすれば、そのようなものが果たして小説といえるのか。ライトノベルとどう違うのか。
3
そろそろ青豆と原理主義的な存在をめぐる話に戻ろう。読者にとって驚きの少ない物語展開の中で、ほとんど唯一といってよいくらいの驚きのシーンが<Book2>の半ばに訪れる。
それについて語る前に、いくつかの基本的なことについて触れておこう。
まず、青豆自身が原理主義的な精神を抱えた人間だったということだ。彼女はいわば、内に壁を抱えた卵だった。単なる卵でも単なる壁でもない、複雑な内面を持つ人間だった。
彼女の出自には、エホバの証人を思わせる「証人会」というキリスト教の原理主義団体がかかわっている。両親が輸血拒否や国家祭事の拒否をはじめ、過激な信仰による戒律を守り、彼女も十歳までその信仰に基づいた生活を送らされてきた。十歳のときに、信仰と決別したとはいえ、それが体に染みついている。
だから、青豆の原理主義者への批判は、自己批判の色合いを帯びている。だが、あるときまでは、彼女はそれに気づかない。われわれ読者も。そのあるときというのが、<Book2>の半ばなのだ。
青豆は元来、武闘派である。現在はスポーツクラブのインストラクターをしているが、中高、大学とソフトボール部に属していた。友人らしき者はいないが、生涯でただ一人、親友と呼べる女性がいた。その名を大塚環といい、彼女は同じ高校のソフトボール部に属していた。大塚環は大学のサークルの先輩に無理やり強姦されるが、彼女に代わって、青豆はその男の先輩に個人的な制裁を加えた。先輩のアパートの部屋をバットで完全に破壊した。その後、大塚環が不幸な結婚をして、家庭内暴力から自殺に追い込まれたときには、彼女に代わって元夫に制裁を加え、特製のアイスピックで死に至らしめる。そこにあるのは「弱者のため」という論理であり、正しいことをしたという感慨しかない。
一方、麻布の「柳屋敷」に住む老婦人もまた、いわば、壁によってつぶされる卵の側に立つといった受賞スピーチの村上に近い立場にいるといえるかもしれない。老婦人は、原理主義的な宗教カルト団体のメンバーに対して、「人格や判断能力を持ち合わせていない人々です」と、断じて憚らない。
老婦人は家庭内暴力の犠牲になっている女性や子供たちに緊急避難所としてアパートを開放し、青豆には私怨からではなく、「もっと広汎な正義のために」と、家庭内暴力をふるう「卑劣な男たち」の殺人を依頼する。だが、その社会正義への揺るぎない信念は、青豆の言葉を借りれば、老婦人が取り憑かれている「狂気に似た何か」(あるいは、「正しい偏見」)を思わせる。
老婦人は青豆に対して、仕事のあとに、必ず「あなたは間違いなく正しいことをしました」と、ねぎらいの言葉をかける。ここでは、老婦人にとっても青豆にとっても、正義と悪の境界はあきらかだ。まるで、藤田まことの『必殺仕置き人』を見ているように。
4
私が驚きといったのは、そうした卵=正義、壁=悪といった単純な構図が崩れる瞬間が訪れるからだ。
老婦人が最後に青豆に制裁を依頼する対象となるのがカルト集団のリーダーと目される男だ。老婦人が得た情報によれば、この男は、老婦人のシェルターに脱出してきた、子宮を破壊された少女つばめをはじめ、四人の初潮前の少女をレイプしているらしかった。老婦人にとって、このリーダーは「歪んだ性的嗜好を持つ変質者」であり、この世から抹殺すべき悪だった。
都内の一流ホテルに出向いた青豆が目にした男は四十代後半から五十代前半で、巨体だった。一通り筋肉マッサージをほどこし、いつもの作業に取りかかろうとしたが、青豆はアイスピックの最後ひと突きができない。
その男が青豆に語ったところでは、月に一、二度全身の筋肉が硬直し、麻痺状態になる。その奇病は教団では、恩寵/神聖な証と見なされ、その間、勃起したかれと十代の少女たちが後継者を生むために交わる儀式が行なわれている。それが巫女の務めである。交わりはリーダーの肉体を滅びへと向かわせるが、教団はそれを「恩寵」の代償であると考える。だから、ただの世俗的な意味でのレイプではない、と。
リーダーの男は安楽な死を待ち望む。青豆が殺しにきたのも知っている。青豆はアイスピックのひと突きができない。この男がただの原理主義者でないから。おそらく青豆は自らの内なる原理主義に気づいたから。その男の中に自分の姿を見たのだ。
最終的に、青豆はこのカルト団体のリーダーを死に至らしめることになるが、自分が老婦人のいうように「正しいことをした」と納得できない。
「世界のムラカミ」は、イスラエルで多義的な「卵と壁」のメタファーを使って日本のマスコミ煙に巻いたが、この本の著者である村上春樹は、この<驚きのシーン>で、カルト団体のリーダーに象徴されるカリスマに引きつけられる空虚な現代日本人の姿を描いて、「卵と壁」の単純な構図を超えたのだ。
(『村上春樹『1Q84』をどう読むか』河出書房新社、2009年、199-203頁)
――村上春樹『1Q84』を読む
越川芳明
1
村上春樹のエルサレム賞受賞と受賞式出席でのスピーチがマスメディアを賑わせたのは、まだ記憶に新しい。村上の英語スピーチは、「さすが世界のムラカミ!」という単純で好意的なものから、「どうせだったら、卵を壁に投げつけるパフォーマンスぐらい見せてほしかった」という皮肉なものまで、日本人の間でいろいろな反応を引き起こした。
しかし、私にとっては「卵と壁」をめぐる「文学的な表現」が一人歩きしていた印象が強い。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
そう村上は受賞の席で言った。
私が初めにテレビや新聞などのニュースでその言葉を聞いたとき一番奇異に感じたのは、マスメディアが揃って、その文学的な表現を、村上によるイスラエル政府批判と受けとっていたことだ。報道関係者は、イスラエル軍によるガザ攻撃に言及しているとして、壁がイスラエル軍で、卵がパレスチナ市民、という単純な構図を思い描いたのだ。
だが、私はそう受け取らなかった。そうした文学的(多義的/曖昧)な表現では、壁というのは、過激なシオニストたちにだけでなく、イスラム原理主義者にもなりうる。その場合、卵は自爆テロの犠牲になるイスラエル市民をさす。さらに言えば、その表現は、硬直した原理主義一般に対する批判にもなりうる。つまり、「世界のムラカミ」は「私は原理主義が嫌いです」みたいな、分かりきったことしか言っていないのではないか。
そのときの私の直観では、村上はパレスチナ市民の味方であることを表明したのではない。だから、イスラエル政府があらかじめ村上のスピーチ原稿を読んだとしても、手直しを要求するまでもなかった。
立野正裕は、私の知るかぎり、村上の受賞スピーチに対して最も苛烈で正鵠(せいこく)を射た発言を行なっている。立野は、ある雑誌に載せたエッセイの中で、「暴力を前にしてあえて自らを卵になぞらえてみせる人間の声が、少しも伝わってこない。これを日本の報道のように、ガザ攻撃批判と言うのは笑止である」と、断言する。
さらに、村上やソンタグなどの文学者をふくむ有名人を利用する権力システム(それはイスラエル政府にかぎらない)への批判を行なう藤永茂の言葉、「異端的な発言が許されるのは、それを赦しておくことが『言論自由社会』のイメージに貢献する限りにおいてであって、もし実害が生じて、全体の勘定がマイナスになれば、即刻停止ということになる筈です」という言葉を援用しながら、立野は次のように述べるーー。
「村上が事前に送った原稿が削除や手直しを要求されなかったのは当然だろう。壁と卵をめぐる村上の言葉は前もって検閲するまでもまかったのだ。なぜなら、まさにこういうふうに中辛くらいの味付けで語ってほしい、と「壁」が願ったとおりに「卵」はしゃべって来たにすぎないのだから」(『社会評論』一五七号、二〇〇九年)
立野の言いたいことは、たとえ村上の発言がどんなに「文学的」な表現でなされたとしても、村上はイスラエル政府によって「政治的」に利用されてしまったということだ。村上のほうも、ノーベル賞への布石としてエルサレム賞受賞を利用した。両者にとって、「世界のイスラエル」と「世界のムラカミ」を宣伝するいいチャンスだった、と。
2
村上春樹の『1Q84』は、一九九五年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教をモデルにした寓話として読める。一九七九年に山梨の山中に宗教法人化した「さきがけ」という団体と、その教祖とも呼ぶべきリーダーが出てくる。(ちなみに、オウムの宗教法人化は一九八九年だ)。
そうした宗教カルト団体は、当然のごとく原理主義的な存在だが、小説の主人公の一人、青豆という名の三十歳になる女性は、そうした原理主義的な存在への嫌悪感を隠さない。
都内の公立図書館へ行き、新聞の縮刷版で一九八一年に起こった事件を調べているうちに、「エジプトのサダト大統領暗殺」の記事を発見して、宗教がらみの原理主義者たちに対して「一貫して強い嫌悪感」を抱く。「そういった連中の偏狭な世界観や、思い上がった優越感や、他人に対する無神経な押しつけのことを考えただけで、怒りがこみ上げてくる」のだった。
その少しあとでも、原理主義者は唾棄すべきものとして、「便秘」と比べられる。「便秘は青豆がこの世界でもっとも嫌悪するものごとのひとつだった。家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たちと同じくらい」
なぜか? なぜそれほどまでに青豆は原理主義者に嫌悪感を抱くのか?
宗教カルト団体「さきがけ」が壁だとすると、果たして、青豆は、ちょうどイスラエルで村上が英語でカッコよくタンカを切ったように、壁につぶされる卵の側に立つ人間なのだろうか。
だが、青豆をめぐる物語は、それほど単純ではない。
少しまわり道をしよう。この小説は、青豆と、彼女と対になる同年齢の主人公、川奈天吾を中心にして、家族の絆や精神的なよすがを失った現代日本人の内面を追いかける新しいタイプの<時代小説>のおもむきを持つ。
広告代理店の台頭やワープロの普及に象徴される、後期資本主義(情報・消費主義)の到来を彷彿とさせる一九八〇年代半ばを背景に、その市民生活を逐一描写しながら進む。だから、村上文学の意匠としてというより、そうした時代精神の反映として、ファッションや料理、音楽、文学、映画の比喩や言及が交えて語られるのは、小説の内的欲求といえよう。
だが、この小説はなぜこれほど長くなければならないのか。
これまでの新聞や雑誌での絶賛の嵐にもかかわらず、私にはこの小説は冗漫に感じられる。一つには、たとえばピーター・ケアリー『ケリー・ギャングの真実の歴史』やオルハム・パムク『雪』と違い、この小説は比喩やアナロジーやメタファーがばらばらに一人歩きしていて、有機的な機能を果たしていない。まるで一つひとつの筋肉の鍛え方は素晴らしくても、全体的には均整のとれていないボディビルダーの体を見ているように、ちぐはぐな印象を受ける。
さらに、重要なことに、小説を読み進めるうちに次第に明らかになるように、主人公の秘密の開示にあたって、あまりに驚きが少なすぎる。だから心地よいのだ、という読者もいるだろう。最初に謎かけがあり、次第にその謎が解けていくミステリの語り形式の、それが醍醐味だ、と。
だが、この小説では、主人公の内面の秘密まで、後づけの説明でたいていのことは分かってしまう。だから、後づけの説明に触れることは、この小説に礼儀を欠くことになる。しかし、後づけの説明、すなわち粗筋を語って興味がそがれ、主人公の内面まで分かってしまうとすれば、そのようなものが果たして小説といえるのか。ライトノベルとどう違うのか。
3
そろそろ青豆と原理主義的な存在をめぐる話に戻ろう。読者にとって驚きの少ない物語展開の中で、ほとんど唯一といってよいくらいの驚きのシーンが<Book2>の半ばに訪れる。
それについて語る前に、いくつかの基本的なことについて触れておこう。
まず、青豆自身が原理主義的な精神を抱えた人間だったということだ。彼女はいわば、内に壁を抱えた卵だった。単なる卵でも単なる壁でもない、複雑な内面を持つ人間だった。
彼女の出自には、エホバの証人を思わせる「証人会」というキリスト教の原理主義団体がかかわっている。両親が輸血拒否や国家祭事の拒否をはじめ、過激な信仰による戒律を守り、彼女も十歳までその信仰に基づいた生活を送らされてきた。十歳のときに、信仰と決別したとはいえ、それが体に染みついている。
だから、青豆の原理主義者への批判は、自己批判の色合いを帯びている。だが、あるときまでは、彼女はそれに気づかない。われわれ読者も。そのあるときというのが、<Book2>の半ばなのだ。
青豆は元来、武闘派である。現在はスポーツクラブのインストラクターをしているが、中高、大学とソフトボール部に属していた。友人らしき者はいないが、生涯でただ一人、親友と呼べる女性がいた。その名を大塚環といい、彼女は同じ高校のソフトボール部に属していた。大塚環は大学のサークルの先輩に無理やり強姦されるが、彼女に代わって、青豆はその男の先輩に個人的な制裁を加えた。先輩のアパートの部屋をバットで完全に破壊した。その後、大塚環が不幸な結婚をして、家庭内暴力から自殺に追い込まれたときには、彼女に代わって元夫に制裁を加え、特製のアイスピックで死に至らしめる。そこにあるのは「弱者のため」という論理であり、正しいことをしたという感慨しかない。
一方、麻布の「柳屋敷」に住む老婦人もまた、いわば、壁によってつぶされる卵の側に立つといった受賞スピーチの村上に近い立場にいるといえるかもしれない。老婦人は、原理主義的な宗教カルト団体のメンバーに対して、「人格や判断能力を持ち合わせていない人々です」と、断じて憚らない。
老婦人は家庭内暴力の犠牲になっている女性や子供たちに緊急避難所としてアパートを開放し、青豆には私怨からではなく、「もっと広汎な正義のために」と、家庭内暴力をふるう「卑劣な男たち」の殺人を依頼する。だが、その社会正義への揺るぎない信念は、青豆の言葉を借りれば、老婦人が取り憑かれている「狂気に似た何か」(あるいは、「正しい偏見」)を思わせる。
老婦人は青豆に対して、仕事のあとに、必ず「あなたは間違いなく正しいことをしました」と、ねぎらいの言葉をかける。ここでは、老婦人にとっても青豆にとっても、正義と悪の境界はあきらかだ。まるで、藤田まことの『必殺仕置き人』を見ているように。
4
私が驚きといったのは、そうした卵=正義、壁=悪といった単純な構図が崩れる瞬間が訪れるからだ。
老婦人が最後に青豆に制裁を依頼する対象となるのがカルト集団のリーダーと目される男だ。老婦人が得た情報によれば、この男は、老婦人のシェルターに脱出してきた、子宮を破壊された少女つばめをはじめ、四人の初潮前の少女をレイプしているらしかった。老婦人にとって、このリーダーは「歪んだ性的嗜好を持つ変質者」であり、この世から抹殺すべき悪だった。
都内の一流ホテルに出向いた青豆が目にした男は四十代後半から五十代前半で、巨体だった。一通り筋肉マッサージをほどこし、いつもの作業に取りかかろうとしたが、青豆はアイスピックの最後ひと突きができない。
その男が青豆に語ったところでは、月に一、二度全身の筋肉が硬直し、麻痺状態になる。その奇病は教団では、恩寵/神聖な証と見なされ、その間、勃起したかれと十代の少女たちが後継者を生むために交わる儀式が行なわれている。それが巫女の務めである。交わりはリーダーの肉体を滅びへと向かわせるが、教団はそれを「恩寵」の代償であると考える。だから、ただの世俗的な意味でのレイプではない、と。
リーダーの男は安楽な死を待ち望む。青豆が殺しにきたのも知っている。青豆はアイスピックのひと突きができない。この男がただの原理主義者でないから。おそらく青豆は自らの内なる原理主義に気づいたから。その男の中に自分の姿を見たのだ。
最終的に、青豆はこのカルト団体のリーダーを死に至らしめることになるが、自分が老婦人のいうように「正しいことをした」と納得できない。
「世界のムラカミ」は、イスラエルで多義的な「卵と壁」のメタファーを使って日本のマスコミ煙に巻いたが、この本の著者である村上春樹は、この<驚きのシーン>で、カルト団体のリーダーに象徴されるカリスマに引きつけられる空虚な現代日本人の姿を描いて、「卵と壁」の単純な構図を超えたのだ。
(『村上春樹『1Q84』をどう読むか』河出書房新社、2009年、199-203頁)
私は明治大学出身のものです。たまたま越川先生のページを見つけて、読ませて頂きました。
立野先生の意見は、流石に先生らしい鋭い批評眼ですね。そう仰られれば確かにそうだ、と思えてしまいます。春樹氏がイスラエルに利用されていたと考えるとは。思ってもみませんでした。事実そうであるならば、ハリウッド並みの茶番ですね。とは言え私はやはり、春樹氏の発言には、単純かつ純粋に感動させられ、今もそれに変わりはないのですが。
「壁」と「卵」。「壁」=「システム」。どのような人でも、結局はこの「壁」に依存するしかないのではないでしょうか。その定められた枠組みの中で、様々な矛盾を感じ、憤りを覚えたとしても、或る程度従順になるよりほかはないのではないかと思います。或いは、自らが「壁=システム」を切り開くか。もしそれを全的に拒み、「システム」からずっぽりと身を放り投げるのならば、ホーソーンの「ウェークフィールド」のように、或いは、上野公園などによくいるホームレスの人たちのように、社会外の宇宙の孤児になるより仕方ないと思います。
春樹氏の言うように、「システム」は、我々の生み出したものであり、だからこそ、疑ってかかるべきだとは思います。しかし、「システム」そのものを悪と見做さずに、「システム」に依存することは大前提として、よりよい「システム」の構築を、人は求めていくべきだと思います(とは言え「システム」とは、結局万人平等は不可能で、必ず少数の有権者がその他多くを搾取するような状態になってしまうのが、会社であれ組織であれ国家であれ、現実ではありますが)。凄く凡百で在り来たりな考えですが、それ以外にやりようはないのではないでしょうか。もっとも、春樹氏の言う「システム」とは、もっと意味深く多義的なものである可能性が高いですが。
働き出してから、学生時のように文学が読めず、まだ1Q84も読んでいません。これも「システム」のせいかもしれませんが、先生の記事を読ませて頂き、学生時代に還りたくなりました。学生には学生の「システム」が存するには違いありませんが、何よりも贅沢な季節でした。明治大学で文学を、たとい齧った程度でも嗜めて、本当に良かったです。
長文・乱筆・若筆ですが、失礼致します。