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書評 コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』

2010年04月20日 | 小説
血塗られた戦争空間としての「西部」を描く
コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』
越川芳明

 十九世紀半ばの米国南西部を舞台にした小説だ。かつてのハリウッドの西部劇は、たいていこの時代の西部を扱っているが、この小説は映画でロマンチックに描かれた西部を、アメリカ人と先住民とメキシコ人の三すくみの「殺戮」や「強奪」に血塗られた戦争空間として書き直しをおこなっているという意味で、「歴史修正小説」(リンダ・ハッチョン)と呼んでもよいだろう。
 十九世紀半ばといえば、米国が政治的混迷をきわめるメキシコに乗じて戦争を仕掛け、メキシコ領土の北半分をぶんどった「米墨戦争」が思い出されるが、主人公の「少年」がテネシー州の小屋から西に向かって放浪を始めるのが、まさしく戦争真っただ中の一八四七年だ。それ以降、ヨーロッパの列強から世界覇権を奪い取るために米国の仕掛ける様々な戦争を思い起こせば、この時代の西部を扱うということには、この国の本質(好戦性)の原点を抉るという意義があったのだ。
 「少年」は、社会の底辺に暮らすプアホワイト(貧乏白人)だ。出産時に母が亡くなり、読み書きができずに、不潔な体にほとんど着の身着のままで、「見境のない暴力への嗜好をすでに宿している」。小説の中で最後まで固有名を与えられておらず匿名であり、十四歳にしてすでに父のもとを離れる。「孤児」としての主人公は『白鯨』のイシュメイルや『ハックルベリーフィンの冒険』のハックなど、アメリカ文学の専売特許だが、直感と本能のおもむくままに自己の才能(銃撃ち、馬の足跡を読む力など)だけを恃む「少年」の姿は、世界制覇に挑む米国の写し絵と映る。
 「少年」は、主体的な視点人物として、米国に編入されたばかりの西部の歴史を生きる。彼はテキサスでアメリカの非正規軍に徴用される。だが、非正規軍とは名ばかりで、要するに体のいい盗賊である。メキシコへ行って、土地やモノをぶんどるだけだから。メキシコ北部で逮捕されるが、運よく釈放され、次に入るのは、テキサスのお尋ね者グラントン将軍に率いられた荒くれ集団で、アパッチ族をターゲットにした頭皮狩り隊だ。
 アパッチ族頭皮狩り隊の中で、アメリカの「荒野」を体現する人物はホールデン判事だ。二メートルを越す巨体でありながら、顔を見れば禿髪で眉も睫もなく、手は子供のように小さい。ほら吹きの名人としてキリスト教の伝道師を罠にかけたりする一方、植物学者や考古学者として、砂漠に残る遺物をノートに克明に記録したり、誰も知らない数々の外国語を自由に操って皆を驚かせる。「自然を裸にすることで初めて人間はこの地球の宗主になれる」とうそぶき、人知や科学への過剰な思い入れを抱きながら、ゲーム感覚で人間を殺すことを躊躇わない。この判事のような、一見魅力的でカリスマ的な「超人」の造形にも、米国が仕掛ける「戦争」への批判が込められていると言える。
 最後に、見逃してならないのは、南西部の「砂漠」をはじめとする大自然の描写だ。ただの小説の背景というより、むしろ、小説の真の主人公かもしれない。小説は、一八七八年に「少年」が四十五歳なったところで終わっている。その頃、彼はテキサス北部でバッファローが絶滅するところを目撃する。皮を取るために、八〇〇万頭もの死骸がころがっていたという記述があり、一部であれ自然を破壊し尽くす人間の暴力はとどまるところを知らない。だが、「正午(メリディアン)が夜の始まりである」をはじめ、物語の中に何度か差し挟まれるタイトルに引っかけた逆説的な言い回しが示唆するように、血(ブラッド)まみれの絶頂(メリディアン)だった時、すでに米国の凋落が始まっていたのだ。
(『週刊読書人』2010年4月16日号)
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