武 順子(Take Junko) ひとり語りのひとりごと

わがままな朗読家の我がままなひとりごと。「縁側の猫を枕に日向ぼこ」…猫が好き。詩を書く人でもあります。

『刺青』を再び読みました

2006年01月29日 07時02分05秒 | Weblog
東京広尾のお寺で、『刺青』を読みました。研究会です。

講評をいただきました。

・まだ、地の文で、声を作ってしまうところがある。
・清吉が、知的過ぎである。
・女が、豹変したのはいいが、年増になってしまった。

この3点でした。
少しずつでも変化しているぞ、という手ごたえが、自分自身の中にもあります。
これからも、時々読んでいきます。

近松などの、長いものを読んでいると、30分かからない短編が、とても楽に読めます。

朗読というと、短編を探してしまいがちですが、どんどん長いものを読んでみるべき!と考えます。

昨日師匠は、石川淳の『八幡縁起』を読みました。
長い。しかし、ちっとも飽きることなく聞くことができました。
2時間近く。
素晴しいです。昨日は、初演でしたが、これからどんどん変化するのです。私の、少しずつの変化、とはスケールが違います。

ある程度で安定した、安心できる読みを、普通の方はお好みかもしれません。
○○節と言って、自分の形を作ってしまい、流れるように語ると、美しいし、聞いていて安心もするかもしれないのですが、私は、我が師匠の破天荒な語りが好きです。出来にむらがあるように言われてしまうことがありますが、むら、というよりも、変化、なのではないかと考えます。
では、いつ完成するのか、と問われそうです。
完成は、ありえないのではないかと、私は思います。
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捨てること

2006年01月27日 17時08分12秒 | Weblog
風邪を引くと、掃除がしたくなります。

朦朧とした頭で、捨てる作業が始まります。

捨てるのが怖くて。捨ててしまったら、記憶もなくなる。
でも、そこに、大切そうにしまってあったモノが、どういうものなのかが、最近思い出せなくなった。

だから、というのでもないけれど、捨てることにする。
冷静な時には、捨てられない。発熱した日、生理の前の頭に膜が張られる数日間、死ぬかもしれないと考えた日、さあ明日からがんばるぞと決意した日…そんな日には、捨てることが出来る。

頼りない記憶を、ものの存在に頼って、溜め込んでいるのが、冷静でない日には、とても、いやになります。

それでも、まだまだ家の中には、物があふれています。

テーマを決めると、抵抗なく捨てることが出来ますね。

数年前まで理事をしていた生協の莫大な量の資料も、このあいだ捨てました。せっかく学んだ知識までが、なくなってしまうようで恐ろしいと感じました。苦しい思いをして読んだ経営の本やら数字の羅列の資料やら。
名残で関わっている生協の中の会の資料を、今日は、捨てました。やめてしまいたいのだけれども、なかなか抜けることが出来ず、まず、関係のものを捨てる作業から、始めようと考えました。きっと、辞める。決意を込めて。

きっと、どこかで役立つ記憶は、残るでしょう。そう信じます。

次のステップに進むために、捨てねばならないものは、まだまだ、あるはずです。

次は…

さてさて、今考えねばならないことは、明日の本番のことでしょ?
準備をしなくては!!
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また!! 風邪引きです

2006年01月26日 20時09分27秒 | Weblog
お待たせしました!

3日ほど前から、節々に痛みを感じていたのですが、今日、見事に熱が出ました。

辛くて苦しいのだけれど、食欲だけは、衰えない。食べなくちゃ、と思い食べています。

明後日は、広尾のお寺で本番です。
『刺青』を読むので、紬を着ようかと思っていましたが、服にしようかと迷っています。…いえいえ!気合を入れるためにも、着物を着ましょう。

気合だ!気合だ! って、カラ気合?

その時になれば、しゃきっと、出来ると思います。たぶん。

ああ、集中力がない!! 頭の中が、ぐしゃりんぐしゃりんと、まわっているようです。

おやすみなさ~い
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タイトルを変更しました

2006年01月21日 19時48分02秒 | Weblog
「かたりべ」という言葉が、何か違うぞ、と感じていました。

今日の一日中の雪で、予定がひとつキャンセルになったことですし、と、思い切って変えてみました。

「ひとり語り」これが、私のしたいこと、していること。
私のしている朗読は、一般の朗読とはだいぶ違う。どちらかというと、語りのよう。
文学作品は、必ず台本を用意する。作者への敬意だと思います。技術的な稚拙さのための読み違い、解釈違いは許していただきたいし、それをなくすべく努めているのですが、意図的に言葉を変えるようなことは、したくありません。いくらでも推敲できてしまうような作品には、あまり興味が湧きません。読み込むうちに、興味が削がれてしまうことも、あります。何とか賞受賞作品といいながらも、これじゃあ、意味が通じないじゃないか、という表現もあります。全体の内容が、それをカバーしてしまうほど優れているのでしょうけれどね。…なんて私が言うのは、あまりにもおこがましいのですが。

とにもかくにも、台本を置くのですから、これでは語りと言えないよ!という方が多いのですが、語りにしてしまいたい。その作品を、伝えたい。だから、読み、語る。

かつての師である故山内雅人先生は、劇読(ドラマチックリーディング)と言っていらした。まさにそのとおりなのだけれども、この劇読という言葉は、あまり好きでない。
表現読みという言葉などもあるようですが、これはちょっと違うような気がします。

というわけで、語り。ひとりで語るから、「ひとり語り」です。

なんだか、また、何を言っているのかわからない文章になりましたね。
でも、きりがないので、この辺でおしまい。とりあえず、タイトル変更の言い訳めいたご挨拶です。

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謡いの稽古

2006年01月21日 17時11分47秒 | Weblog
謡の稽古がありました。

『田村』の中、

「さぞな名にし負ふ。花乃都の春乃空。げに時めけるよそほひ青楊の影緑にて。風長閑なる。音羽の瀧の白糸乃。繰り返し返しても面白やありがたやな。地主権現乃花の色も殊なり 
たゞ頼め。標茅が原のさしも草 我世乃中に。あらん限りハの御誓願。濁らじものを清水乃。緑もさすや青柳の。げにも枯れたる木なりとも。花桜木のよそほい何処乃春もおし並めて。のどけき影ハ有明の。天も花に酔へりや。面白の春べやあら面白の春べや」

美しいこの情景を、童子のように舞うことの出来る日が、果たして来るのでしょうか。

師は、来週から再びフランスへ行きます。
夏過ぎに戻られるまでに、『田村』を覚えますと、約束しました。この約束を違えないよう、努力します。努力したいと思います。

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