武 順子(Take Junko) ひとり語りのひとりごと

わがままな朗読家の我がままなひとりごと。「縁側の猫を枕に日向ぼこ」…猫が好き。詩を書く人でもあります。

さてさて次は…

2007年04月27日 21時23分01秒 | Weblog
賢治の『注文の多い料理店』です。

どんなふうに料理しようか。

知らぬ間に料理されてしまうかもしれない。

「知らぬ間に」料理され、飲み込まれてしまうかもしれない。

世の中の、とても親切な顔を持つ人々に。

自分の意思とは別の、大きな流れに、飲まれてしまうかもしれない。

少しずつ、知らぬ間に、無意識に、自らの手で自分を料理し、恐ろしい誰かさんの手でむしりとられ、こりこりと、音をたてて…
いえ、ほんの一瞬の間に…飲み込まれつつあるかもしれない。

意識の外側にある意識が、運命を大きく変えるような道を造っている。わざわざ、無意識に。

もうすでに、その道のほうへと、転がり始めているのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとり語りの会 報告

2007年04月27日 08時23分42秒 | Weblog
おととい、賢治を読む「ひとり語り」の会が無事終わりました。
2回目は、もちろんお客様は少なくなったけれど、でも、前回いらした方が、また来てくださったのは、嬉しかったです。
何度も聴いてくれる友人もいる。少しずつだけれど成長しているのを、見続けてくれていると思うと励みにもなります。
『よだかの星』を半年後には、どんなふうに読んでいるのだろう。自分でも楽しみになっています。

今回、『よだかの星』を聴いて、涙ぐんだかたが、二人ほどいらした。どちらの方も、なにか、重いものを抱えている方のようで、、、涙ぐんだことで、気持ちが軽やかになってくださったろうかと気になりました。

公演後のおしゃべりも、充実したような気がします。
私は、この、公演後の交流、というのが、何よりも苦手で、時には、本番よりも緊張するのです。
友人が、リードしてくれたから、かな。感謝です。

***

あまり、報告を書くことってなかった。
無事終了したら、もうあとを振り返るのもいやだった。
語りが終わったら、さっさと消えてしまいたかった。
でもね、大切なことって、「そのあと」にあるのかもしれないって、最近ようやく考えることができるようになった。

進歩かも!!

***

さて、ぼちぼちと…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

負けないぞっ!

2007年04月25日 21時14分06秒 | Weblog
先日の青天の霹靂に続いて、娘の足の故障(靱帯部分切断)、私の頭痛肩こり歯痛と、霹靂も、何度も来ると、辟易してしまう、なあんて、冗談を言っている場合じゃなくて、今日は本番。

肩こりが激しくなって、娘が整形外科からもらってきた湿布薬を1枚もらいました。
お医者の湿布は、やはりよく効くんです。今朝は、娘のおかげで、少し楽になりました。

ねね!この文章を読んだ方々は、上の「靱帯部分切断」を「靱帯の部分切断」と読みました? 私は靱帯部分がぶちっと切れてしまったと思い、大慌て。夫に散々馬鹿にされたのだけれど、読点を省略しないでほしい。優しくないよなあ…

こんなことは、しょっちゅうあります。
前後の文章から考えればすぐにわかるのに、恐ろしい読み方をしていること。早とちりは、だいの得意です。なんて…今日は、だいじょうぶかなあ。もいちど読みなおそうっと。不安になってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青天の霹靂

2007年04月23日 21時09分32秒 | Weblog
夫の身辺に起こった、青天の霹靂。

ふたりで、笑うしかなかった。

しばし笑い転げて、そのうちに、じわじわと、苦しみに変わってきた。怒りになってきた。

でもなお、苦笑している。

20年以上も連れ添っていて、こんな時に、どうしてあげたらいいのか、わからない。

青天はね、晴天じゃないんだね、などと言って、知らなかったぁと、おどけてみせて……口を慎まなきゃ、いけないぞと、自分に言い聞かせている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しみと喜びについて

2007年04月23日 16時12分36秒 | Weblog
昨日、Nさんという方の個展に行きました。
すぐ身近かにある草花を、とても素直に絵に描いている方です。
以前から、もっとゆっくりと話をしたいね、と言っていましたが、ようやく実現しました。あっという間に2時間半が経ちました。2時間半は、ゆっくりではない、と思いつつお開きにしました。

絵画にしても語りにしても、悩むところは、あまり変わらないのかなあ。何を表現しようとしても、同じところで悩むのかもしれないなあ。
お金にならないようなこと、共感者が少なかろうこと、そんなことに魅せられてしまった人が、持つ悩み、というのかなあ。

妻や子を食べさせなくてはならない。そのためには、不本意なこともしなければならない、という話。不本意だけれども、ゆるすことのできる、ぎりぎりのところで折り合いをつける、のだそうです。「ゆるす」は「許す」ではない、「恕す」という字を書くのだ、ということでした。そこから、悲しみの話になって行きました。

「まだ、言葉のなかったころ、一人の女がいて、乳飲み子に乳を含ませようとした。しかし、子が、動かない。息をしない。喪失の悲しみ。こんなところが、悲しみの始まり」という話をきいていて、、、
愛するものを失った悲しみと同時に、乳飲み子が口に含むべき乳が張って、さぞかし、痛くて、苦しかっただろうと、想像しました。こればかりは、経験したものでなければわからない苦しみで、あの、のたうちまわるほどの痛み、乳を吸ってくれさえすれば、軽くなるはずの、幸福と正反対の苦しみです。

女に生まれて、妊娠出産を経験したことで知った、誕生・出会いの喜びと、痛みをともなう喪失と悲しみ。

ひとつひとつの経験を、語りの中で、どのように生かすことができるのだろうか。言葉の裏側を表現できるような、ひとこと言葉を発しただけで、その背後にある膨大な物語を感じさせるような語り手になりたいと願うのは、無理な話だろうか。
そんなことを考えるのは、傲慢なのだろうか。100年早い、のだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする