尿結石に膀胱炎、そして急性腎炎を繰り返し、ついには拒食症になったニャーにオロオロするうちに、もうひとつの命の話がゆっくりと、そして静かに進行していました。
テンちゃんのことです。末期的な慢性腎不全で「生きているのが不思議」と診断されたのに、その後の輸液で元気復活、今月5日の前回記事では余生を謳歌していると書いたばかり。そう言えば2年前に満身創痍のテンちゃんを保護したときも、別の先生に同じことを言われた。でも、それから奇跡の復活を遂げたのでした。やっぱりテンちゃんには、あの怪獣声でわめきながら店内を見回る姿がよく似合う。
昨秋まだ元気な頃、出荷待ちの花苗をバックにくつろぐテンちゃん(再掲)
ニャーの輸液事故が続いてあたふたしていた頃、テンちゃんにもやはり輸液ができなかった。しかしオシッコ詰まり騒動で緊急を要するニャーを優先させ、テンちゃんの輸液は3日ほど空いてしまった。そのことが関係したのか、テンちゃんの様子がおかしくなった。何も食べなくなって動くことすら億劫がるようになったのです。翌日には何とか在宅輸液を行ったけど状態はさらに悪化して、食べるどころか水を飲むだけで吐き続けた。
あまりにも急な変調振りに慢性腎不全以外の原因を予想し、さらに翌日、昨日になって病院に行きました。しかし先生は診察もせずに「想定内」と頷くばかり。高額の血液検査は自分の方から見合わせた。過去2回の検査でCREもBUNも測定限界を超えている。改善を期待できない限り、測定しても意味がないのです。それに、どんな結果であろうと結論は輸液を続けるしかない。それでも先生は吐き止めの注射と、胃酸調整や胃の働きをよくする薬を出してくれました。
病院の後は、店にいても事務所の片隅でうずくまるだけのテンちゃんを連れて帰った。それからは猫の終活や死期に関する情報を読み漁っています。その前日までは腎不全とF.L.U.T.D.(下部尿路疾患)の情報漁り。めまぐるしく変わる事態に気持ちの整理が追いつかない。それにこの情報集めこそが、保護者にとってはテンちゃんの最後を観念して受け入れるための儀式、のようにも思えてくるのです。
わが家ではもう仲間として迎えられています
我々老夫婦には話し合わなければならないことがあった。ひとつには、テンちゃんが輸液を苦痛に感じ始めていること。病院で輸液を受けたとき先生が驚いていた。テンちゃんの背中の皮膚が硬くなっていると言うのです。それは自分にも心当たりがあった。針が入らず、無理に入れるとテンちゃんが痛がる。テンちゃんの輸液に失敗が多い理由です。しかも既に皮と骨ばかりのテンちゃんがさらに痩せたら・・。こんな状態で毎日輸液を続ければテンちゃんの背中がボロボロになってしまいかねない。一応先生からは現時点で最適の場所を伝授されたけど、やはり不安は拭えません。
自然主義派の妻が、こんなにテンちゃんを苦しめるのならむしろそっとして・・と言い出すのは目に見えている。自分でも、テンちゃんが動けなくなって何も楽しめなくなったら、さすがに無理な延命は控えるべきだと考えていました。でも実際にその段階になると、そんなに簡単に切り替えられるものだろうか。そもそもテンちゃんの不調は、腎不全由来じゃなくて一時的なものかもしれないのです。それに輸液の中断は、果たして自然死と言えるのかそれとも安楽死なのか・・。
テンちゃんは昨日も、保護部屋にある寝床の中でじっとして動かなかった。今日でもうまる4日何も食べていません。強制給餌はもちろん断固拒否。ということで病院でもらった薬も与えることができないでいます。
保護部屋の自分の寝床で1日過ごしたテンちゃん
一方この老保護者の頭の中には、前回食べないニャーのときと同じ考えが駆け巡っています。死期が近付いた猫の行動は? そもそも猫に死という概念や喜怒哀楽があるのか? 獣医師や動物学者など専門家の見解では、人間が猫の行動に自分の感情を映し出しているだけといったものが多い。本当にそうだろうか。愛猫と以心伝心の保護者ならわかる。猫は何かを伝えようとしているんじゃないのか。
食欲なくてもお膳の上に興味が・・家猫らしくなってきた
お店のスタッフも、テンちゃんの命の話には神妙です。人は死に直面した様子に接したとき、なぜか厳かで素直な気持ちになると言う。きっと、死という抗うことのできない絶対無比の力がそうさせるのだろう。何かに追われるように忙しい日々を送る現代人にとって、それは自分自身を見つめ直し、生きることの意味を実感できる、かけがいのない時間と言えるのではないでしょうか。
あのジブリの映画以来、猫の恩返しという言葉が言われるようになりました。猫の恩返しはあるのだろうかと、ネット上でも様々な意見が飛び交っています。保護者からあり余る愛情を注がれた猫は、その分だけ深い信頼と絆を寄せて、この上ない癒しを保護者に与えてくれる。そんな猫という動物の特性が、まるで「恩返し」のように思えるのかもしれません。
テンちゃんは今、まさにその命を使って我々に特別な時間を提供し、この2年間の一宿一飯の恩義に報いようとしているのかな、などと思えてしまうのです。
今日はとても暖かな日、病院帰りは店で過ごしました
この記事を書いている横で眠るテンちゃん
こんな光景、いつまで見ていられるのだろうか
テンちゃんのことです。末期的な慢性腎不全で「生きているのが不思議」と診断されたのに、その後の輸液で元気復活、今月5日の前回記事では余生を謳歌していると書いたばかり。そう言えば2年前に満身創痍のテンちゃんを保護したときも、別の先生に同じことを言われた。でも、それから奇跡の復活を遂げたのでした。やっぱりテンちゃんには、あの怪獣声でわめきながら店内を見回る姿がよく似合う。
昨秋まだ元気な頃、出荷待ちの花苗をバックにくつろぐテンちゃん(再掲)
ニャーの輸液事故が続いてあたふたしていた頃、テンちゃんにもやはり輸液ができなかった。しかしオシッコ詰まり騒動で緊急を要するニャーを優先させ、テンちゃんの輸液は3日ほど空いてしまった。そのことが関係したのか、テンちゃんの様子がおかしくなった。何も食べなくなって動くことすら億劫がるようになったのです。翌日には何とか在宅輸液を行ったけど状態はさらに悪化して、食べるどころか水を飲むだけで吐き続けた。
あまりにも急な変調振りに慢性腎不全以外の原因を予想し、さらに翌日、昨日になって病院に行きました。しかし先生は診察もせずに「想定内」と頷くばかり。高額の血液検査は自分の方から見合わせた。過去2回の検査でCREもBUNも測定限界を超えている。改善を期待できない限り、測定しても意味がないのです。それに、どんな結果であろうと結論は輸液を続けるしかない。それでも先生は吐き止めの注射と、胃酸調整や胃の働きをよくする薬を出してくれました。
病院の後は、店にいても事務所の片隅でうずくまるだけのテンちゃんを連れて帰った。それからは猫の終活や死期に関する情報を読み漁っています。その前日までは腎不全とF.L.U.T.D.(下部尿路疾患)の情報漁り。めまぐるしく変わる事態に気持ちの整理が追いつかない。それにこの情報集めこそが、保護者にとってはテンちゃんの最後を観念して受け入れるための儀式、のようにも思えてくるのです。
わが家ではもう仲間として迎えられています
我々老夫婦には話し合わなければならないことがあった。ひとつには、テンちゃんが輸液を苦痛に感じ始めていること。病院で輸液を受けたとき先生が驚いていた。テンちゃんの背中の皮膚が硬くなっていると言うのです。それは自分にも心当たりがあった。針が入らず、無理に入れるとテンちゃんが痛がる。テンちゃんの輸液に失敗が多い理由です。しかも既に皮と骨ばかりのテンちゃんがさらに痩せたら・・。こんな状態で毎日輸液を続ければテンちゃんの背中がボロボロになってしまいかねない。一応先生からは現時点で最適の場所を伝授されたけど、やはり不安は拭えません。
自然主義派の妻が、こんなにテンちゃんを苦しめるのならむしろそっとして・・と言い出すのは目に見えている。自分でも、テンちゃんが動けなくなって何も楽しめなくなったら、さすがに無理な延命は控えるべきだと考えていました。でも実際にその段階になると、そんなに簡単に切り替えられるものだろうか。そもそもテンちゃんの不調は、腎不全由来じゃなくて一時的なものかもしれないのです。それに輸液の中断は、果たして自然死と言えるのかそれとも安楽死なのか・・。
テンちゃんは昨日も、保護部屋にある寝床の中でじっとして動かなかった。今日でもうまる4日何も食べていません。強制給餌はもちろん断固拒否。ということで病院でもらった薬も与えることができないでいます。
保護部屋の自分の寝床で1日過ごしたテンちゃん
一方この老保護者の頭の中には、前回食べないニャーのときと同じ考えが駆け巡っています。死期が近付いた猫の行動は? そもそも猫に死という概念や喜怒哀楽があるのか? 獣医師や動物学者など専門家の見解では、人間が猫の行動に自分の感情を映し出しているだけといったものが多い。本当にそうだろうか。愛猫と以心伝心の保護者ならわかる。猫は何かを伝えようとしているんじゃないのか。
食欲なくてもお膳の上に興味が・・家猫らしくなってきた
お店のスタッフも、テンちゃんの命の話には神妙です。人は死に直面した様子に接したとき、なぜか厳かで素直な気持ちになると言う。きっと、死という抗うことのできない絶対無比の力がそうさせるのだろう。何かに追われるように忙しい日々を送る現代人にとって、それは自分自身を見つめ直し、生きることの意味を実感できる、かけがいのない時間と言えるのではないでしょうか。
あのジブリの映画以来、猫の恩返しという言葉が言われるようになりました。猫の恩返しはあるのだろうかと、ネット上でも様々な意見が飛び交っています。保護者からあり余る愛情を注がれた猫は、その分だけ深い信頼と絆を寄せて、この上ない癒しを保護者に与えてくれる。そんな猫という動物の特性が、まるで「恩返し」のように思えるのかもしれません。
テンちゃんは今、まさにその命を使って我々に特別な時間を提供し、この2年間の一宿一飯の恩義に報いようとしているのかな、などと思えてしまうのです。
今日はとても暖かな日、病院帰りは店で過ごしました
この記事を書いている横で眠るテンちゃん
こんな光景、いつまで見ていられるのだろうか