アートセラピストのイギリス便り

アートセラピスト間美栄子のシュタイナー的イギリス生活のあれこれを綴った友人知人宛のメール通信です。

第九十九話 浪曲で育った私

2011-11-03 20:24:27 | バイオグラフィー

 

      

              

 (フットパスに落ちている小さなクラブアップル。コロボックルになったつもりの一枚) 

 

 

*なずなが3ヶ月ぶりに家に泊まりにきたのですが、ロンドンでは勉強も交友も忙しく、毎週末にはクラビング、とくれば、風邪を引かないわけがない。親の家は休養にくるところというわけです。ともあれ、大学の寮生活にすぐに慣れたようで、日曜日にはみんなに呼びかけてお金を出し合い「サンデーロースト」を料理して12人で食べたとか。プディングはチーズケーキを作ったとのこと。料理上手はどこでも生き残れるなあ。

 

九十九話 浪曲で育った私

 

私は実は関西弁が好きで、スコットランドの大学で働く、関西弁でTWITTERしている脳科学者のポストを楽しみにしていたりします。

何年も前にストラウドで出会った大阪出身のYASUKIさんは、グリーンムーブメントの事務所でボランティアをしていて、知り合ったのですが、彼もやっぱりストーリーテラーでした。大阪でサラリーマンをしていたころの話を面白おかしくしてくれて、笑い転げたのを覚えています。

 

YASUKIさんはその後冷凍庫の中で働きながら英語の勉強をして、お金をため、ドイツの大学に留学し環境教育を学び、努力の甲斐あって、競争率の高い採用試験の中、白川郷自然学校に就職され、夢がかなったのでした。

 

そのYASUKIさんから、「日本語に接していないのに、すてきな文章を書きますね」とお褒めの言葉をいただいたので、ふと、わたしの日本語はどこからきているのだろうと読書歴などふりかえってみました。

 

いろりで大やけどをした野口英世、ナインチンゲール、シュバイツァー、といった伝記、を読んでいた小学校二年生。バイオグラフィー好きはこのころからすでにはじまっていたかと思われます。「あか色の童話集」「紫色の童話集」とさまざまな色の名前がついていた童話集を図書館で借りて読んでいたのもイマジネーション好きに影響を及ぼしたでしょう。

 

幼いときには昔の日本らしく、両親と同じ部屋で寝ていたものですが、眠りに着く前にいつも、父がクラッシック名曲全集のレコードをかけてくれて、「禿山の一夜」のあらしを想像をして怖がったり、「白鳥の湖」の悲しくうつくしい調べにうっとりしては、いつしか夢の世界へと落ちていったものでした。

また、クラッシックとは正反対の、純和風、浪曲のレコードも聴きながら眠っていたので、「旅行けばー駿河の国に茶の香りー」やら、「瞼の母」のお話の、「おっかさん!」と涙に咽ぶ浪曲師の声の声質や調子を今でも覚えていたりします。

私にとっては、文章を書くことは言葉が鼻歌のように自然と流れ出て来るもので、リズムが大事だったりするので、これは浪曲を聴いて育ったからなのかもしれないですね。

 

小学校6年生の時には、当時担任だった若い先生が、子供たちに卒業研究をさせたので、わたしは壺井栄の本をたくさん読んで感想文を書き、壺井栄研究をしたのですが、「石臼の歌」などの、反戦文学をいまでも覚えています。「プロレタリア文学」という言葉を、巻末の解説を読んで始めて知ったのはこのときでした。「二十四の瞳」で「小豆島のような小さな島の小学校の先生になりたい」とすっかり小さな将来の夢を抱いていたのは、実は結びつきの強い共同体の関係性に惹かれたいたのだと今にして思います。

 

夏目漱石を読破していたティーンのころ。人生は複雑で重いものだと感じ始めていたのでしょう。詩も好きで、高村光太郎をよく読んでいましたが、17歳の冬、親にも内緒ではじめての一人旅、阿多々良山をみてみたくて、智恵子さんの生まれた二本松に汽車で旅をし、醸造所だった実家の辺りを歩いたりしたことがありました。

 

大人になってからは、松下竜一さんのノンフィクションを読みまくりました。特に好きだったのは「ルイズ父にもらいし名は」大杉栄と伊藤野枝の娘、伊藤ルイさんのお話です。のちに伊藤ルイさん本人にお会いして、そのやさしさに感じいりました。

 

ほんとの話、不器用な私は、英語から日本語に頭を切り替えることがあまり得意でなく(なずなとも英語で話すので)、日本語のメールの返事もままならない今日このごろなのです。わたしからの返事がなかったらそういうことで勘弁してくださいね。

 

(間美栄子 2011年 111  http://blog.goo.ne.jp/nefnefnef

 



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