きょう8/1より、アフリカの建国記念日ラッシュが続く。このことは明日の記事で詳述したい。
で、きょうはベナンの53回目の独立記念日だ。
(ベナン・コトヌの市場。活気に圧倒される。)
ベナンといえば日本では、あのゾマホンさんやアドゴニーさんなど、アフリカ人タレントでおなじみの国だ。先日は「ゾマホンさんの十二の教え」を、このブログの記事でもアップさせていただいた。
またアドゴニーさんは、2月に日本に立ち寄られたときに、お会いした。今は生活の本拠が中国にあるが、今でも日本のことを愛し、また日本の役に立ちたい、また日本とアフリカ、中国の関係を取り持ちたい、とお話しされていた。
(アドゴニーさんと。2013年2月に、東京にて。)
さてそのベナン。悠久の歴史を重ねた国だ。前史より主にフォン族(Fon)を始め、複数の部族が暮らしていた地域。また宗教的にはきわめて独特な世界観をもつブードゥー教をベースにもつ。
やがて、この地にポルトガルがやってくる。現在ベナンの政治・経済の中心はコトヌで、国際空港もコトヌにあるが、首都はポルト・ノボ(Porte Novo)。これはポルトガル語で新しい港、の意味だ。この地名にポルトガル渡来の足跡が残る。
(ポルトノボの風景。歴史あるコロニアル調の街並みが続く。)
その後17世紀に成立したダホメ王朝(Royaume de Dahomey)が、ヨーロッパとの間で奴隷や武器などの交易を通じ繁栄する。この王朝は14代に渡って栄えた。
(私が先にベナンで買い求めた王朝エンブレム・キルト。かわいすぎる紋章(笑)。しかしなぜかHangbè女王(1708-1711年)、 Adandozan王(1797-1818年)が抜けている。)
奴隷の積出の地となったのが、コトヌの西、約40kmに位置するウィダ(Ouidah)。「帰らざる門」(La porte du non-retour)のモニュメントが歴史を語り継ぐ。ここから積み出された奴隷の一部が新大陸に仕向けられた。中米に浮かぶハイチはこのダホメが主な源流といわれ、今日でも両国の関係にはただならぬ深いものがある。2010年、東京で開かれたベナン独立50周年の晩餐会で、来賓代表の祝辞を送ったのは在京ハイチ臨時代理大使だった。
(宿泊したホテルで目にしたアート。奴隷の歴史が痛々しい。)
その後フランスがこの地に勢力を伸ばし、1890年から2度に渡る戦争(第一次、第二次フランス・ダホメ戦争)を経て、1904年にフランスの植民地、すなわち仏領西アフリカ(Afrique-Occidentale française : AOF)に組み込まれ、「仏領ダホメ」となった。フランスとの戦争では宗主国軍にも黒人が多く動員され、歴史に傷跡を残す。
1919年には、第一次世界大戦でドイツが敗戦し、西に位置する独領トーゴランドの東半分が仏領となる。これが現在のトーゴである(→「祝・トーゴ独立記念日」参照)。この辺りの国は、いずれも縦に長い国土を有しているが、当時、領地を分断、調整する際には、海岸線を分け合ったことの名残である。
その後、二度の大戦を経て、アフリカ独立の気運が盛り上がる中、ダホメも1960年のこの日、8月1日に独立を果たす。しかしその後、様々な要因から政権は安定せず、独立後十余年の間に5回のクーデターを繰り返す。そして1972年にはマシュー・ケレク少尉による政変で政権を奪取し、大統領の地位に就いた。1974年にはマルクス・レーニン主義を標榜。75年には「ベナン人民共和国」と国名を改称する。その後、ケレク大統領の独裁が続く。
1980年代に二つの変化が生じる。一つは経済危機。経済政策の失敗で財政が破綻状態となり、国際通貨基金(IMF)から構造調整を迫られる。もう一つは冷戦構造の崩壊。1990年には複数政党制を基礎とした憲法が公布され、国名を「ベナン共和国」に改称した。そして初の民主的選挙を挙行し、91年にN.ソグロ大統領を選出した。ベナンはこの後、国民和解会議を進め、国民統合に尽力。この過程はアフリカ現代史において興味深い、と研究対象にする専門家も見られる。
その後、1996年にケレク大統領(民主的選挙で再び大統領の地位に返り咲いた)、2006年にはボニ・ヤイ大統領、さらに 2011年にはヤイ大統領が再選。いずれも選挙で国家元首を選出している。その間、政治的基盤が必ずしも盤石であった訳ではないが、それでも相対的には、西アフリカにおける民主主義の先進国だ。
現在は人口1千万人に迫ろうというところ。増加率が3%超と、急速に人口、そして若年層が増えている。綿花を主体とした農業が主要産業。コトヌの港は、内陸国のブルキナファソ、ニジェールや西部ナイジェリアへの補給拠点であり、国際港としての開発ポテンシャルを有している。さらにベナンは別名「アフリカのカルチェ・ラタン」といわれるほど、才能ある人材を供給する地である、との話をしばしば耳にする。
いろいろ歴史エピソードが多いベナン。53回目の独立記念日を、お得意のご当地ビール、'La beninoise'(→詳しくはこちらを!)でお祝いしたい。
(主食・イニャンピレにビール'La beninoise'。至福のとき。ポルト・ノボにて。)
※追伸: ご照会をいただきましたので。ンボテが取り扱うテーマは、「ちょっと補足の自己紹介」でも述べているとおり、主に、中部・西部の仏語圏アフリカ(一部、他言語圏を含むが)です。東アフリカ、南部アフリカ、英語圏、マグレブなど他の地域の話題は、その道の識者の方に委ねたいと思います。
(おわり)
◆マリ大統領選挙の展望~NHK国際放送ラジオ、ンボテ飯村出演!
※視聴は8/3までです!
◆独立記念日・ナショナルデーシリーズ
フランス
・'Le 14 juillet'にみるアフリカとフランス
・14 juilletにみるサヘル情勢(前編)
・14 juilletにみるサヘル情勢(後編)
コンゴ民主共和国
・第一話
・第二話
・第三話
トーゴ
カメルーン
で、きょうはベナンの53回目の独立記念日だ。
(ベナン・コトヌの市場。活気に圧倒される。)
ベナンといえば日本では、あのゾマホンさんやアドゴニーさんなど、アフリカ人タレントでおなじみの国だ。先日は「ゾマホンさんの十二の教え」を、このブログの記事でもアップさせていただいた。
またアドゴニーさんは、2月に日本に立ち寄られたときに、お会いした。今は生活の本拠が中国にあるが、今でも日本のことを愛し、また日本の役に立ちたい、また日本とアフリカ、中国の関係を取り持ちたい、とお話しされていた。
(アドゴニーさんと。2013年2月に、東京にて。)
さてそのベナン。悠久の歴史を重ねた国だ。前史より主にフォン族(Fon)を始め、複数の部族が暮らしていた地域。また宗教的にはきわめて独特な世界観をもつブードゥー教をベースにもつ。
やがて、この地にポルトガルがやってくる。現在ベナンの政治・経済の中心はコトヌで、国際空港もコトヌにあるが、首都はポルト・ノボ(Porte Novo)。これはポルトガル語で新しい港、の意味だ。この地名にポルトガル渡来の足跡が残る。
(ポルトノボの風景。歴史あるコロニアル調の街並みが続く。)
その後17世紀に成立したダホメ王朝(Royaume de Dahomey)が、ヨーロッパとの間で奴隷や武器などの交易を通じ繁栄する。この王朝は14代に渡って栄えた。
(私が先にベナンで買い求めた王朝エンブレム・キルト。かわいすぎる紋章(笑)。しかしなぜかHangbè女王(1708-1711年)、 Adandozan王(1797-1818年)が抜けている。)
奴隷の積出の地となったのが、コトヌの西、約40kmに位置するウィダ(Ouidah)。「帰らざる門」(La porte du non-retour)のモニュメントが歴史を語り継ぐ。ここから積み出された奴隷の一部が新大陸に仕向けられた。中米に浮かぶハイチはこのダホメが主な源流といわれ、今日でも両国の関係にはただならぬ深いものがある。2010年、東京で開かれたベナン独立50周年の晩餐会で、来賓代表の祝辞を送ったのは在京ハイチ臨時代理大使だった。
(宿泊したホテルで目にしたアート。奴隷の歴史が痛々しい。)
その後フランスがこの地に勢力を伸ばし、1890年から2度に渡る戦争(第一次、第二次フランス・ダホメ戦争)を経て、1904年にフランスの植民地、すなわち仏領西アフリカ(Afrique-Occidentale française : AOF)に組み込まれ、「仏領ダホメ」となった。フランスとの戦争では宗主国軍にも黒人が多く動員され、歴史に傷跡を残す。
1919年には、第一次世界大戦でドイツが敗戦し、西に位置する独領トーゴランドの東半分が仏領となる。これが現在のトーゴである(→「祝・トーゴ独立記念日」参照)。この辺りの国は、いずれも縦に長い国土を有しているが、当時、領地を分断、調整する際には、海岸線を分け合ったことの名残である。
その後、二度の大戦を経て、アフリカ独立の気運が盛り上がる中、ダホメも1960年のこの日、8月1日に独立を果たす。しかしその後、様々な要因から政権は安定せず、独立後十余年の間に5回のクーデターを繰り返す。そして1972年にはマシュー・ケレク少尉による政変で政権を奪取し、大統領の地位に就いた。1974年にはマルクス・レーニン主義を標榜。75年には「ベナン人民共和国」と国名を改称する。その後、ケレク大統領の独裁が続く。
1980年代に二つの変化が生じる。一つは経済危機。経済政策の失敗で財政が破綻状態となり、国際通貨基金(IMF)から構造調整を迫られる。もう一つは冷戦構造の崩壊。1990年には複数政党制を基礎とした憲法が公布され、国名を「ベナン共和国」に改称した。そして初の民主的選挙を挙行し、91年にN.ソグロ大統領を選出した。ベナンはこの後、国民和解会議を進め、国民統合に尽力。この過程はアフリカ現代史において興味深い、と研究対象にする専門家も見られる。
その後、1996年にケレク大統領(民主的選挙で再び大統領の地位に返り咲いた)、2006年にはボニ・ヤイ大統領、さらに 2011年にはヤイ大統領が再選。いずれも選挙で国家元首を選出している。その間、政治的基盤が必ずしも盤石であった訳ではないが、それでも相対的には、西アフリカにおける民主主義の先進国だ。
現在は人口1千万人に迫ろうというところ。増加率が3%超と、急速に人口、そして若年層が増えている。綿花を主体とした農業が主要産業。コトヌの港は、内陸国のブルキナファソ、ニジェールや西部ナイジェリアへの補給拠点であり、国際港としての開発ポテンシャルを有している。さらにベナンは別名「アフリカのカルチェ・ラタン」といわれるほど、才能ある人材を供給する地である、との話をしばしば耳にする。
いろいろ歴史エピソードが多いベナン。53回目の独立記念日を、お得意のご当地ビール、'La beninoise'(→詳しくはこちらを!)でお祝いしたい。
(主食・イニャンピレにビール'La beninoise'。至福のとき。ポルト・ノボにて。)
※追伸: ご照会をいただきましたので。ンボテが取り扱うテーマは、「ちょっと補足の自己紹介」でも述べているとおり、主に、中部・西部の仏語圏アフリカ(一部、他言語圏を含むが)です。東アフリカ、南部アフリカ、英語圏、マグレブなど他の地域の話題は、その道の識者の方に委ねたいと思います。
(おわり)
◆マリ大統領選挙の展望~NHK国際放送ラジオ、ンボテ飯村出演!
※視聴は8/3までです!
◆独立記念日・ナショナルデーシリーズ
フランス
・'Le 14 juillet'にみるアフリカとフランス
・14 juilletにみるサヘル情勢(前編)
・14 juilletにみるサヘル情勢(後編)
コンゴ民主共和国
・第一話
・第二話
・第三話
トーゴ
カメルーン
そうでした。私は出来事を断片的にしか捉えておらず、重要な流れをすっ飛ばしていました。
昨年のタロン事件も氷山の一角で、その後も水面下で未遂事件が多発していることが推測できます。他国を例にしても、何が発端で政変が起こるか・・・油断はできません。
もっと視野を広げて勉強しないと、アフリカの神髄は語れませんね。今回は素直に反省します!
ベナンは2012年度、5%超え成長。経済界では高く評価されました。パチパチ、8888。
他方で基盤となる安定性はというと、このMercredi Rougeをはじめとする野党・市民の反発、頻発するスト・デモ、「タロン・ゲート」事件と毒殺未遂・・・と、不穏なネタはつきません。
憲法改正問題はベナンだけの問題ではなく、これまでも枚挙に暇がありませんでした。例えばニジェールのタンジャ政権の話はご存知のとおりです。
中でも最大の衝撃はコートジボワールの大統領選挙でした。遠くカメルーンやコンゴにも影響は飛び火しました。また2012年のセネガル大統領選挙でも危惧されました。
そして今注目は、ブルキナファソ。憲法改正は通称「37条問題」といわれ、コンパオレ政権、はたまたブルキナファソの明日を揺るがしかねない事態に発展しかねません。
選挙問題は奥深く、またアフリカの政治の問題の本質が詰まっています。これは改めてまとめて書きたいと思います。
・・・と、アチェケ娘にまじめな返事をしてしまった。でへへ。。。
これからのベナンの発展に期待★
最近、ベナンではMercredi Rouge(憲法改正反対運動)が熱いです!
毎週木曜日には、Tシャツに限らず、靴、ネクタイ、アクセサリー等にさりげなく赤を使用している人(反対派)を見かけます。
中には、ピンクや赤のストライプを来ている人もいて、「あなたは、どっちなのよ?」と聞くと「まだ決めかねている(迷ってる)」とのこと。この見える意思表示が興味深くて面白いです。
今日会った人を思い返すと赤派は45%で、先週よりも確実に増えています。
ラマダン明けのVendredi Blancも要チェックです!
http://www.jeuneafrique.com/oeil-de-glez-ARTJAWEB20130807123409.html