アフリカにおけるジハード勢力、三大震源地(épicentre)は、ソマリアのシェバブ、マリのマグレブのアルカイダなどの武装勢力、そしてナイジェリア北部のボコハラムである。
(ボコハラム兵士、aljazeera.comより)
なかでも一般市民を巻き込んだ被害をまき散らし続けているのがボコハラムだ。2009年以降27,000人が命を落とし、180万人が避難民となっている。掃討作戦は続くが、対ゲリラ戦になかなか終わりはこない。底なし沼のモグラ叩きが続く。
(Esri Terrorists Attack Map Jan-Nov 2018より、ボコハラムのテロ件数は世界有数規模)
11月29日、チャドのンジャメナでナイジェリアのムハンマド・ブハリ大統領、ニジェールのアハマドゥ・イスフ大統領、ホスト国チャドのイドリス・デビ・イトゥノ大統領、そしてカメルーンのフィレモン・ヤン首相が会し、ミニ首脳会談が開催された。チャド湖盆地委員会(Commission du Bassin du Lac Tchad:CBLT)を構成するこの4カ国、議題はもちろん対ボコハラム掃討作戦、特に再び急激に悪化しつつあるチャド湖周辺地域の治安情勢についてだ。
ボコハラムのルーツは諸説あるが、2002年にナイジェリア北東部のマイドゥグリで生まれたとされるのが一般的だ。創設者は預言者、モハメッド・ユスフ。サラフィー系イスラムセクトとして誕生、シャーリア(イスラム法典)に基づくカリフ(ムハンマドの後継者)支配を主義とした。正式な名称を「宣教及び聖戦のためのスンニー派ムスリム集団」といい、「ボコハラム」そのものの直訳的意味としては「西欧的非イスラーム教育の罪」となる。
テロが本格化したのは2009年頃からだ。ナイジェリア北東部から北部を中心に、武装襲撃テロを展開。そして首謀者モハメッド・ユスフが殺害されているのが発見されるに至る。以降、ボコハラムを率いるのはアブバカル・シェカウである。
思い起こせば当時、ンボテはサヘル地域に出入りを繰り返していた。時折しも、マグレブのアルカイダ(AQMI)の活動活発化が観察されていた頃であった。しかし現地の仏、米などの軍事関係者はすでに「ボコハラムの方が直接的脅威となるリスクが高い」と予期していた。
テロが繰り返される2014年、北東部ボルノ州で女子生徒240人を拉致、世界的に注目され流に至る。同年、米国、続いて国連安保理は、ボコハラムをテロ組織として指定した。
そのボコハラム、活動の活発化とともにAQMIとの接近が噂されるようになるが、イスラームウォッチャーからは明確な根拠はないものとして、その仮説は慎重に取り扱われていた。今から考えると、その洞察は正しかったことになる。シェカウはむしろ、イスラーム国(Etat islamique: EI)に傾倒、2015年3月7日に忠誠を誓い、5日後に承諾されたと報じられた。そして「宣教及び聖戦のためのスンニー派ムスリム集団」の正式名称は、「イスラーム国西アフリカ州」に改称された。
ンボテが当時委員を務めていた国際問題研究所の「サヘル地域におけるイスラーム過激派研究会」では、「これはおかしな話だ」とされていた。そもそも教義上、イスラーム原理思想によれば、運命を共有する同胞によって形成される共同体(ウンマ)が社会を構成するのであり、「国家概念」とは相容れない。むしろ近代国家を否定する立場にあるのだ。ボコハラムも、ユスフ創始者によるカリフ支配の理想が、いつしか「国家ごっこ」に世俗化していったと捉えられる。
ジハード戦士とツイッター~編集後記「サハラ地域におけるイスラーム急進派の活動と資源紛争の研究」(1)
しかし2016年、ボコハラムは二派に分裂。シェカウはイスラーム国より「過激思想」として排除され、アブ・マサブ・アル・バルナウィが新たな指導者に据えられた。シェカウは離脱し、再び「宣教及び聖戦のためのスンニー派ムスリム集団」を名乗り、別派を率いることとなる。教義的には、シェカウは「正しい(?)」原理主義思想に回帰したと捉えられる。
ボコハラムの歩みは、またナイジェリア政府の戦いの経緯でもあった。当初この問題に対応することとなったウマル・ヤラドゥア大統領、また同氏逝去後、2010年にあとをついだグッドラック・ジョナサン大統領のもとでは有効な手を打てず、被害は拡大した。しかしその後、2015年のブハリ大統領就任後、国際社会からの支援を背景に掃討作戦の強化が図られ、一時はボコハラムの勢力は衰弱するかに見えた。しかし、さにあらず。ここへきて勢力を拡大し、テロを活発化させる。最近では、チャド湖周辺での襲撃やテロ、特にナイジェリア領、カメルーン領での掃討作戦に当たるナイジェリア軍に対する襲撃やテロ攻撃が増加している。
11月中旬、チャド湖周辺、ナイジェリア側国境域で集中的なテロ攻撃が仕掛けられ、合計118人の兵士が犠牲となった。イスラム国に忠誠を誓ったとされる一派が犯行を声明した。また別の駐屯地も急襲に逢い、3名が死亡した。同じくチャド湖周辺、カメルーン国境側の極北州でも襲撃や自爆テロなどが続いている。脅威はニジェール側、チャド側でも拡大傾向。チャド湖周辺域の治安が急激に悪化している。
周辺4カ国のサミットでは、共同作戦の方向性や各国の応分の義務、またまかないきれない資金などについて議論されているものと思われる。テロとの戦いは底なし沼のように先行き見とおしがない。それこそがテロ勢力の作戦目的でもある。
そんな中、行く末の見えないボコハラム。彼らのほうは、いったいどこに向かっているのか。いや、彼ら自身も行く末はわからないのかもしれない。かくしてテロは続き、テロとの戦いも終わらない。
(おわり)
(ボコハラム兵士、aljazeera.comより)
なかでも一般市民を巻き込んだ被害をまき散らし続けているのがボコハラムだ。2009年以降27,000人が命を落とし、180万人が避難民となっている。掃討作戦は続くが、対ゲリラ戦になかなか終わりはこない。底なし沼のモグラ叩きが続く。
(Esri Terrorists Attack Map Jan-Nov 2018より、ボコハラムのテロ件数は世界有数規模)
11月29日、チャドのンジャメナでナイジェリアのムハンマド・ブハリ大統領、ニジェールのアハマドゥ・イスフ大統領、ホスト国チャドのイドリス・デビ・イトゥノ大統領、そしてカメルーンのフィレモン・ヤン首相が会し、ミニ首脳会談が開催された。チャド湖盆地委員会(Commission du Bassin du Lac Tchad:CBLT)を構成するこの4カ国、議題はもちろん対ボコハラム掃討作戦、特に再び急激に悪化しつつあるチャド湖周辺地域の治安情勢についてだ。
ボコハラムのルーツは諸説あるが、2002年にナイジェリア北東部のマイドゥグリで生まれたとされるのが一般的だ。創設者は預言者、モハメッド・ユスフ。サラフィー系イスラムセクトとして誕生、シャーリア(イスラム法典)に基づくカリフ(ムハンマドの後継者)支配を主義とした。正式な名称を「宣教及び聖戦のためのスンニー派ムスリム集団」といい、「ボコハラム」そのものの直訳的意味としては「西欧的非イスラーム教育の罪」となる。
テロが本格化したのは2009年頃からだ。ナイジェリア北東部から北部を中心に、武装襲撃テロを展開。そして首謀者モハメッド・ユスフが殺害されているのが発見されるに至る。以降、ボコハラムを率いるのはアブバカル・シェカウである。
思い起こせば当時、ンボテはサヘル地域に出入りを繰り返していた。時折しも、マグレブのアルカイダ(AQMI)の活動活発化が観察されていた頃であった。しかし現地の仏、米などの軍事関係者はすでに「ボコハラムの方が直接的脅威となるリスクが高い」と予期していた。
テロが繰り返される2014年、北東部ボルノ州で女子生徒240人を拉致、世界的に注目され流に至る。同年、米国、続いて国連安保理は、ボコハラムをテロ組織として指定した。
そのボコハラム、活動の活発化とともにAQMIとの接近が噂されるようになるが、イスラームウォッチャーからは明確な根拠はないものとして、その仮説は慎重に取り扱われていた。今から考えると、その洞察は正しかったことになる。シェカウはむしろ、イスラーム国(Etat islamique: EI)に傾倒、2015年3月7日に忠誠を誓い、5日後に承諾されたと報じられた。そして「宣教及び聖戦のためのスンニー派ムスリム集団」の正式名称は、「イスラーム国西アフリカ州」に改称された。
ンボテが当時委員を務めていた国際問題研究所の「サヘル地域におけるイスラーム過激派研究会」では、「これはおかしな話だ」とされていた。そもそも教義上、イスラーム原理思想によれば、運命を共有する同胞によって形成される共同体(ウンマ)が社会を構成するのであり、「国家概念」とは相容れない。むしろ近代国家を否定する立場にあるのだ。ボコハラムも、ユスフ創始者によるカリフ支配の理想が、いつしか「国家ごっこ」に世俗化していったと捉えられる。
ジハード戦士とツイッター~編集後記「サハラ地域におけるイスラーム急進派の活動と資源紛争の研究」(1)
しかし2016年、ボコハラムは二派に分裂。シェカウはイスラーム国より「過激思想」として排除され、アブ・マサブ・アル・バルナウィが新たな指導者に据えられた。シェカウは離脱し、再び「宣教及び聖戦のためのスンニー派ムスリム集団」を名乗り、別派を率いることとなる。教義的には、シェカウは「正しい(?)」原理主義思想に回帰したと捉えられる。
ボコハラムの歩みは、またナイジェリア政府の戦いの経緯でもあった。当初この問題に対応することとなったウマル・ヤラドゥア大統領、また同氏逝去後、2010年にあとをついだグッドラック・ジョナサン大統領のもとでは有効な手を打てず、被害は拡大した。しかしその後、2015年のブハリ大統領就任後、国際社会からの支援を背景に掃討作戦の強化が図られ、一時はボコハラムの勢力は衰弱するかに見えた。しかし、さにあらず。ここへきて勢力を拡大し、テロを活発化させる。最近では、チャド湖周辺での襲撃やテロ、特にナイジェリア領、カメルーン領での掃討作戦に当たるナイジェリア軍に対する襲撃やテロ攻撃が増加している。
11月中旬、チャド湖周辺、ナイジェリア側国境域で集中的なテロ攻撃が仕掛けられ、合計118人の兵士が犠牲となった。イスラム国に忠誠を誓ったとされる一派が犯行を声明した。また別の駐屯地も急襲に逢い、3名が死亡した。同じくチャド湖周辺、カメルーン国境側の極北州でも襲撃や自爆テロなどが続いている。脅威はニジェール側、チャド側でも拡大傾向。チャド湖周辺域の治安が急激に悪化している。
周辺4カ国のサミットでは、共同作戦の方向性や各国の応分の義務、またまかないきれない資金などについて議論されているものと思われる。テロとの戦いは底なし沼のように先行き見とおしがない。それこそがテロ勢力の作戦目的でもある。
そんな中、行く末の見えないボコハラム。彼らのほうは、いったいどこに向かっているのか。いや、彼ら自身も行く末はわからないのかもしれない。かくしてテロは続き、テロとの戦いも終わらない。
(おわり)