6月30日、コンゴ民主共和国独立記念日に思う、第二回。独立の舞台裏からスタート。
◆ブリュッセル円卓会議
対岸のフランス植民地が1958-1959年と、独立へ向けた動きを着実に進めて行く中、コンゴでも独立の要求が激しくなっていた。そして、1960年1月。ブリュッセルでコンゴの統治に関する円卓会議が開催される。
この場には初代大統領となるジョセフ・カサブブ(アバコ党)とともに、その後アフリカの英雄となるパトリス・ルムンバ(MNC)、その政敵のモイズ・チョンべ(コナカ党)らも居合わせた。コンゴ側の足並みの乱れから、ベルギーは懐柔策を示して、交渉を有利に進めようとしていた。しかし予想に反してコンゴ側が結束。要求通り、半年後の1960年6月30日の独立を余儀なくされる。
この会合に強引にも入り込もうとする青年従軍報道官がいた。ルムンバは寛容にも彼の参加を容認したが、その男とは、ジョセフ・モブツ、すなわち、のちの独裁者、モブツ・セセ・セコである。この男が、ルムンバ自身の惨殺の主犯の一人となろうとは、その時点では知る由もなかった。
◆独立
新しいコンゴの憲法では、大統領は統治権を発動するが、閣僚の連署がなければ権限が及ばないという制度、すなわち宗主国のベルギーにおける国王と首相の関係を模したものとなった。限定的ながら行われた選挙により、初代大統領にジョセフ・カサブブが、首相にはパトリス・ルムンバが選出された。
そして1960年6月30日、ベルギー国王ボドワン二世を迎え、独立の日を迎える。来賓による祝辞でベルギー国王への賛辞が並ぶ中、ルムンバはプログラムに予定されていなかった演説を強行。植民地の屈辱と宗主国への憎悪、ベルギー国王の侮辱、真のアフリカの独立、コンゴ人のためのコンゴ、ベルギー人の排斥。彼が並べた過激な主張は、満場のアフリカ人みならず、コンゴ人、そしてアフリカ大陸かしこからの喝采を浴びた。
独立の喜びは、ジョセフ・カバセレのどこまでも甘くユルいコンゴ・ルンバ、'Independence Cha-cha'に歌われた。しかしその夢のひとときは、5日とつづくことはなかった。
(♪ジョセフ・カバセレ'Independene Cha Cha')
◆コンゴ動乱
そもそもカサブブとルムンバの建国思想は異なっていた。カサブブは、コンゴ王国の時代から、自負と独立性の強いバコンゴ州出身。ベルギーの保護を受けながら、地域の自主性を重んじた連邦型国家を目指した。
これに対しルムンバは統一コンゴ、真のコンゴ人のためのコンゴを目指し、中央集権的、非同盟路線での国家建設を目指した。
さらに政敵チョンべはカタンガ州知事となり、表舞台に立つ機会を伺っていた。ここに政府不機能の原因が芽生えていた。
独立後も何一つ変わらない現実。砕かれる理想。国は早くもそぞろだって混乱を迎える。特に軍部の騒乱は決定的だった。新コンゴ国軍の将校、士官はすべてベルギー人のまま。ジャンセン司令官は、コンゴ人兵士を前に、「コンゴ軍は何も変わらない、'Avant=Apres'('Before=After')」と黒板に書いて述べたことがきっかけとなり、コンゴ人兵士の処遇、地位をめぐり騒乱となる。
混乱は一気に拡大、独立ほどないコンゴは無秩序となる。外国人は略奪、暴動の対象となり、国を逃れた。
混乱の気に乗じたベルギーは、自国民保護を理由に、コッパーベルトのカタンガ州にベルギー軍を投入する。そして前出のカタンガ州知事、チョンべを立て、カタンガを独立させる(→カタンガ州については過去記事「コンゴ・カタンガ州(前編)」を参照)。ここにはベルギー資本の巨大鉱山会社「ユニオン・ミニエール」があった。チョンべの野望、ベルギーの利権が一致した。
国連はベルギーの行動を非難。ハマショルド事務総長は国連平和維持軍(ONUC)の展開にむけ調整を進め、7月末にはレオポルトヴィルに展開した。他方、カタンガには州政府、ベルギーの抵抗から国連軍が展開できない状態となった。
(コンゴ・カタンガ州の銅山、カンボベ鉱区)
◆ルムンバの失脚、惨殺、そして反乱
時折しも冷戦が進行する中、コンゴもこの構造に組み込まれて行く。ルムンバはベルギー支配からの脱却には大国との関係づくりが重要として、アメリカに期待を寄せるが、申し入れは不調に終わる。そして次第にソ連に傾倒して行く。
親ベルギーを標榜してきたカサブブは、欧米路線を明確にしていた。そういった中、西側列強はルムンバが「赤」だとして、レッドパージ(共産主義者の排斥)のレッテルを貼る。
そして建国からわずか3ヶ月の9月5日。カサブブ大統領はルムンバ首相を罷免。対抗したルムンバはカサブブを解任するという混乱に陥る。
(つづく)
◆コンゴ独立物語
JICAホームページ【ひと模様】ンボテ★アフリカ、トポ・ナ・コンゴ!
・Japan Times TICAD V Special
・ニコ生「藤岡みなみのI don't know Africa~発見アフリカ54の国~」(全編おまとめログ)
◆ブリュッセル円卓会議
対岸のフランス植民地が1958-1959年と、独立へ向けた動きを着実に進めて行く中、コンゴでも独立の要求が激しくなっていた。そして、1960年1月。ブリュッセルでコンゴの統治に関する円卓会議が開催される。
この場には初代大統領となるジョセフ・カサブブ(アバコ党)とともに、その後アフリカの英雄となるパトリス・ルムンバ(MNC)、その政敵のモイズ・チョンべ(コナカ党)らも居合わせた。コンゴ側の足並みの乱れから、ベルギーは懐柔策を示して、交渉を有利に進めようとしていた。しかし予想に反してコンゴ側が結束。要求通り、半年後の1960年6月30日の独立を余儀なくされる。
この会合に強引にも入り込もうとする青年従軍報道官がいた。ルムンバは寛容にも彼の参加を容認したが、その男とは、ジョセフ・モブツ、すなわち、のちの独裁者、モブツ・セセ・セコである。この男が、ルムンバ自身の惨殺の主犯の一人となろうとは、その時点では知る由もなかった。
◆独立
新しいコンゴの憲法では、大統領は統治権を発動するが、閣僚の連署がなければ権限が及ばないという制度、すなわち宗主国のベルギーにおける国王と首相の関係を模したものとなった。限定的ながら行われた選挙により、初代大統領にジョセフ・カサブブが、首相にはパトリス・ルムンバが選出された。
そして1960年6月30日、ベルギー国王ボドワン二世を迎え、独立の日を迎える。来賓による祝辞でベルギー国王への賛辞が並ぶ中、ルムンバはプログラムに予定されていなかった演説を強行。植民地の屈辱と宗主国への憎悪、ベルギー国王の侮辱、真のアフリカの独立、コンゴ人のためのコンゴ、ベルギー人の排斥。彼が並べた過激な主張は、満場のアフリカ人みならず、コンゴ人、そしてアフリカ大陸かしこからの喝采を浴びた。
独立の喜びは、ジョセフ・カバセレのどこまでも甘くユルいコンゴ・ルンバ、'Independence Cha-cha'に歌われた。しかしその夢のひとときは、5日とつづくことはなかった。
(♪ジョセフ・カバセレ'Independene Cha Cha')
◆コンゴ動乱
そもそもカサブブとルムンバの建国思想は異なっていた。カサブブは、コンゴ王国の時代から、自負と独立性の強いバコンゴ州出身。ベルギーの保護を受けながら、地域の自主性を重んじた連邦型国家を目指した。
これに対しルムンバは統一コンゴ、真のコンゴ人のためのコンゴを目指し、中央集権的、非同盟路線での国家建設を目指した。
さらに政敵チョンべはカタンガ州知事となり、表舞台に立つ機会を伺っていた。ここに政府不機能の原因が芽生えていた。
独立後も何一つ変わらない現実。砕かれる理想。国は早くもそぞろだって混乱を迎える。特に軍部の騒乱は決定的だった。新コンゴ国軍の将校、士官はすべてベルギー人のまま。ジャンセン司令官は、コンゴ人兵士を前に、「コンゴ軍は何も変わらない、'Avant=Apres'('Before=After')」と黒板に書いて述べたことがきっかけとなり、コンゴ人兵士の処遇、地位をめぐり騒乱となる。
混乱は一気に拡大、独立ほどないコンゴは無秩序となる。外国人は略奪、暴動の対象となり、国を逃れた。
混乱の気に乗じたベルギーは、自国民保護を理由に、コッパーベルトのカタンガ州にベルギー軍を投入する。そして前出のカタンガ州知事、チョンべを立て、カタンガを独立させる(→カタンガ州については過去記事「コンゴ・カタンガ州(前編)」を参照)。ここにはベルギー資本の巨大鉱山会社「ユニオン・ミニエール」があった。チョンべの野望、ベルギーの利権が一致した。
国連はベルギーの行動を非難。ハマショルド事務総長は国連平和維持軍(ONUC)の展開にむけ調整を進め、7月末にはレオポルトヴィルに展開した。他方、カタンガには州政府、ベルギーの抵抗から国連軍が展開できない状態となった。
(コンゴ・カタンガ州の銅山、カンボベ鉱区)
◆ルムンバの失脚、惨殺、そして反乱
時折しも冷戦が進行する中、コンゴもこの構造に組み込まれて行く。ルムンバはベルギー支配からの脱却には大国との関係づくりが重要として、アメリカに期待を寄せるが、申し入れは不調に終わる。そして次第にソ連に傾倒して行く。
親ベルギーを標榜してきたカサブブは、欧米路線を明確にしていた。そういった中、西側列強はルムンバが「赤」だとして、レッドパージ(共産主義者の排斥)のレッテルを貼る。
そして建国からわずか3ヶ月の9月5日。カサブブ大統領はルムンバ首相を罷免。対抗したルムンバはカサブブを解任するという混乱に陥る。
(つづく)
◆コンゴ独立物語
JICAホームページ【ひと模様】ンボテ★アフリカ、トポ・ナ・コンゴ!
・Japan Times TICAD V Special
・ニコ生「藤岡みなみのI don't know Africa~発見アフリカ54の国~」(全編おまとめログ)