ぶらぶら★アフリック

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きょうはコンゴ民主共和国独立記念日!

2013-06-30 07:30:50 | アフリカ情勢
◆Le 30 juin 1960
今日6月30日はコンゴ民主共和国の53回目の独立記念日だ。この国のあまりに不幸な過去と現在に照らすと、お祝いという言葉にはあまりに遠い現状がある。昨年、コンゴ人友人とこの日にメシをくったが、「独立記念日ではあるが、祝うほどおめでたくはない」と言っていた。この国の歴史を少し振り返ってみたい。

(写真:50周年に沸くコンゴ、2010年6月、コンゴ民主共和国にて)


◆コンゴ前史
かつてはギニア湾岸にコンゴ王国、内陸にも伝統社会やピグミーの文化があった。しかし深いジャングルが西欧の歴史とこの地を遮断。暗黒大陸と評された。

その後19世紀、この地に強い関心を持ったレオポルト二世がスタンレー、リビングストンなどの探検家を派遣、自領としていった。1884-1885年のベルリン植民地再分割会議で、アフリカの領有権が画定されるが、この地はなんと、レオポルト二世の「私領」となる。

コンゴ自由国(Congo Independant)と称したこの地域、どこが自由だったのか。支配の非人道性と残忍さで世界の批判を浴びた。レオポルト二世はその広大な「お庭」の手入れと統治に手を焼くと、1908年にベルギーに、この領土を「売り渡す」。

◆二つの対戦と独立
1919年に第一次大戦でドイツが敗戦。ルワンダ、ブルンジがベルギーの国際連盟信託統治領となる。この時代に、(仏語圏のレバノン人、英語圏のインド人同様)ツチの支配的階層としての役割が大湖地方において固定化された。

第二次世界大戦をへて、アフリカ側の要請は参政権から自治、そして独立へと変わっていく。そういった中、仏、英はアフリカ諸国の独立を容認し、1960年の独立の年につながって行く。

◆ベルギー統治領の不幸
英仏はその統治の中で植民地の文明化(civilisation)を進めた。アフリカの中でもエリート階層を育て、教育を与え、本国における参政権を認めてきた。

それに対し、ベルギーは植民地の文明化や参政権、教育の機会を与えずに搾取と隷属を繰り返したといわれる。独立年に大学レベルの教育を受けたコンゴ人は21人しかいなかったという記録が残っている。

ベルギー領コンゴの総督府がおかれたのはレオポルト・ヴィル(現キンシャサ)。川を挟んだすぐそこは仏領スーダン、ブラザヴィルが位置している。1944年、フランスのド・ゴール総統はこのブラザヴィルで演説し、アフリカの独立を約束。アフリカに希望をもたらした。

対岸のベルギー領コンゴとて独立への希望は同様であった。そしてその希望は要求に変わり、激しさを増す。ベルギーも1960年のコンゴの独立を認めざるを得なくなる。すでに前夜の1959年になってのことだった。

そもそもベルギー統治領三カ国、コンゴ、ルワンダ、ブルンジ。いずれの国も独立以降、大きな不幸の歴史を背負ってきた。旧宗主国の責任は重い、と言わざるを得ない。

(写真: 向かって右の建物が在コンゴ民主共和国ベルギー大使館。)


(つづく)

◆ンボテ★飯村出演情報
JICAホームページ【ひと模様】ンボテ★アフリカ、トポ・ナ・コンゴ!
Japan Times TICAD V Special
ニコ生「藤岡みなみのI don't know Africa~発見アフリカ54の国~」(全編おまとめログ)


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