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バグボ元大統領釈放!〜コートジボワール危機と国際刑事裁判所(1)

2019-01-16 08:50:00 | アフリカ情勢
2019年1月15日は、コートジボワールの歴史上極めて重要な意味を持つ日となった。

十余年にわたるコートジボワール危機、最終段階で迎えたいわゆる「選挙後危機」(2010年〜2011年)。ここで生じた「戦争に対する罪」、「人道に対する罪」の咎で国際刑事裁判所(CPI)で公判を受ける身にあったローラン・バグボ元大統領と、シャルル・ブレ・グデ青年大臣が、罪状・証拠不十分により、釈放される決定がなされたのだ。

(フランス国際ラジオ放送(RFI)ウェブサイトより)


バグボ大統領の釈放は、あまりに大きな、そして多様な意義を有している。

コートジボワール国内では、ことさらバグボ釈放への歓喜が各方面から報じられた。特にバグボ派の政党、コートジボワール人民戦線(FPI)の支持基盤であるアビジャンのヨプゴン・コミューンや、バグボ大統領の出身、ベテ族が多く、FPI支持者を多く擁する同国南西部、ダロア、イシア、ヴァブアなどは歓喜に沸いた。他方、現政権の支持層が多いアビジャンのアボボコミューンや、同国北部などでは沈黙をもって受け止められている。他方、8,000人の構成員を有する選挙後危機の犠牲者団体は、この決定を失望を持って受け止めている。

(Abidjanet.comウェブサイトより)


この裁判、上記のとおり、そもそもはコートジボワール危機の最終段階、「選挙後危機」で生じた蛮行が咎となっている。2010年の大統領選挙決選投票の結果をめぐり、二人の候補者が正当な大統領であることを主張。両陣営が、国の南北、そしてアビジャンの橋頭堡の間でにらみ合い、最後は激しい戦闘に発展したものだ。ここには国連PKO、仏軍など「国際社会」も、一方に肩入れする形で明確な介入をおこなった経緯がある。コートジボワール危機は、和平プロセスによって解決したのではなく、軍事的に収束したのだった。

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そして勝者は政権に就き、敗者は囚われの身になった。選挙後危機の「戦犯」は、勝者の論理によるに対する裁きを受けることなった。・・・というのが、本件裁判に対する、南部地域における多くのコートジボワール人の理解といっていいだろう。

コートジボワール危機と選挙後危機において、暴力と蛮行が横行した歴史は否定し得ない。しかしハーグに移送されたのはバグボ大統領と、彼を支えたブレ・グデ元大臣。特にグデ青年大臣は、あたかもナチスの親衛隊長、はたまたゲッペルスの役割を果たしたと、「A級戦犯」のレッテルを貼られた。

しかしこのように、「選挙後危機」における敗者だけが裁かれるという非対称性については、コートジボワール人の中からも、幾多の問題が呈されてきた。なぜバグボ側だけが裁かれるのか。当時、現政権側の方がよっぽどひどい蛮行を働いたではないか。なぜ選挙後危機だけが問われるのか。なぜ国際刑事裁判所にしょっぴかれるれて裁かれるのか。そもそもこのような、勝者の論理による裁判は妥当なのか。このような不公正な裁きがあるから国民和解も社会統合も進まないのだ・・・、と。

その上、さらに「戦犯」扱いでいえばシモン・バグボ大統領夫人はコートジボワール国内で訴追を受ける身となった。そして2018年8月、ワタラ大統領の「特赦」により、釈放されている。時折しも、6月に、コンゴのジャン・ピエール・ベンバ元副大統領も、同じく国際刑事裁判所から釈放された、その直後でもあった。

今回の釈放は、まだまだここには書ききれない、コートジボワール危機、そして危機をめぐる国際刑事裁判所との関係に関する「タブー」に切り込む、風穴をあけることになった。罪状不十分の釈放、7年間の拘留はなんだったのか。その償いはあるのか。そしてアフリカ諸国が持つ、CPIに対する根本的な問いについても、ついにパンドラの箱を開けることになるだろう。当地はそのような論調にある。

まだまだここに書ききれない本当に多数の論点を投げかける一件。その論点については、この点は次回以降、さらに詳しく述べていきたい。

(つづく)


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