加地尚武の佐倉新町電気街

「福音の少年 Good News Boy」シリーズ(徳間書店 徳間デュアル文庫)著者による電脳生活と意見。

坂道の街に住む。わたしの町のこと。

2005年04月29日 02時35分46秒 | 公園のつぶやき。
わたしの住んでいるところは、四国の田舎である。法皇山脈という御大層な名前の山々と、おだやかな瀬戸内海に挟まれた土地である。

坂道が多い。ほとんどどこからでも海が見える。すこし山に向かってのぼり、振り返ると、宙に船が浮かんでいるように見える。

夕暮れの少し前。坂道から街を見おろす。
ごくわずかな町並みの向こうに、凪いだ海が広がっている。

なんでもない光景なのだが、美しい、と思う。ここに生まれてよかった、と思う。



熾烈な競争が背景なのか。最悪の脱線事故。

2005年04月26日 07時48分36秒 | 社会時評なんちって
Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 列車脱線、速度超過が主因か…県警が強制捜査へ

ひどい事故が起こったものだ。
連絡のとれない娘の携帯に数十回も電話をかけたというひとが報道されるたびに、おなじ、娘をもつ父親としてやりきれない思いを感じた。昨日夜その娘さんの死亡が確認されたという。

私鉄王国である関西で勝ち残るために車両の軽量化・高速運行を行ってきたしわ寄せなのだろうか。

【ソフトウェア】パソコンバスター? 更新ファイルで不具合 

2005年04月24日 08時30分42秒 | パソコン・デジモノ
Yahoo!ニュース - 時事通信 - ウイルスソフト更新でトラブル=報道各社、JR東日本など被害

このささやかなブログを読んでいる方は、さいわい被害にあわなかったのだろうが、上のリンクにあるようなことが起きている。

わが家に四台あるWindowsマシンの一台だけがこの会社のウイルスソフト(っていう言い方がなにか引っかかる。お金を出してウイルスを買っているみたいで)が入っていた。あとはMacOS Xが一台、Vine Linuxが二台。こんなこともあろうかとウイルスソフトやらOSやら分散していたので、完全にネットが使えなくなるということはない。
「インストールふぇち」も、たまには役に立つ時があるのだなあ、と(被害にあった方には気の毒だが)のんきなことを考えている。

動作テストをしないまま更新ファイルを配信したという、お粗末な「人災」である。
思わず十年前に流行った「マーフィーの法則」を思い出した。

起きる可能性のあることはかならず起こる。

【DVDこれだけは】愛と尊敬のあいだ。「ラウンドミッドナイト」

2005年04月22日 12時36分23秒 | 音楽・映画のこと
人間の感情には境界線というものがあるのだろうか?
好意、嫌悪、愛情、憎悪、偏愛、博愛、羨望、嫉妬。言葉は単語として独立しているけれど、心の中にあるとき、それらの感情と感情の間には、たとえば白いチョークで引かれたような線が、存在するのだろうか?

わたしは、高校生から大学生にかけて、ジャズという音楽を聴きまくっていた。
毎日、大学の近くにあった「52番街」というジャズ喫茶で、何時間も過ごした。月末まで三千円しかないというときに、二千円のジャズのレコードを買ってしまい、一週間近く食パンだけで生活したことがあったほどだった。

そんなジャズファンが、偉大なジャズマンに対して抱く感情。これはちょっと言葉にしがたい。尊敬と愛情の間の、なんとも言い難い特別な感情である。
今日紹介する映画、「ラウンド・ミッドナイト」という映画に出会ったとき、学生の時に抱いたその特別な感情を代弁してくれる映画だと思った。

まるで、即興演奏のようにルーズで自由な感じのする映画である。ストーリーは単純なのだが、時間順に語られるのではなく、印象的なフレーズをつなぎあわせるように、過去と未来が交錯していく。
本物のジャズの巨人、デクスター・ゴードンが演じる「デイル・ターナー」というテナーサックス奏者が、アメリカにいられなくなって、パリに流れてくる。そして、フランス人のフランシスという主人公が、献身的にそのアルコール中毒のジャズマンの世話をするという設定からして、たまらない。

そして、どうしても言及しておかなければならないのは、本物のテナー奏者であるデクスター・ゴードンの「演技」である。もちろん本業の俳優ではない。ところが、それはすばらしく胸を打つ名演なのだ。「デイル・ターナー」という架空のジャズ・ジャイアントの、圧倒的な存在感。長い人生を背負っているという感じ。いくら言葉を重ねても表現しつくことができない。「奇跡的演技」と評され、映画初出演のデクスター・ゴードンは、なんと「アカデミー助演男優賞」にノミネートされたほどである。

そして、ラスト。
わたしは生まれてはじめて、映画を観て、声をあげて泣いた。泣きじゃくった。エンドクレジットが終わったあとも、五分ほど泣き続けた。
だめだ。思い出しただけで、泣きそうになる。

万人にすすめられる映画かどうかはわからない。ジャズファンで映画好きの人はとっくに観ているだろうから、薦める必要もないだろう。
どんなジャンルの音楽でもいい。「お気に入りのアーティスト」「尊敬している奏者/歌い手」という存在がいる音楽ファンならば、この映画の主人公に共感できるのではないだろうか。
すべての音楽好きにおすすめする。

ラウンド・ミッドナイト

ワーナー・ホーム・ビデオ

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天界の音楽、あるいは衛星軌道について

2005年04月19日 12時39分22秒 | 公園のつぶやき。
あなたは地平線にむかって石ころを投げる。
そんなもん投げたくないなんて言わずに、投げてみたと想像してみてほしいのだ。話がはじまらない。

地上で物を投げると文字どおり「放物線」を描いて落ちていく。投げた速度と角度によってその線の頂点と落下位置は変わってくるだろう。
あなたの投げた石ころは地面に向かって落ちていく。ところが地球は丸いのだ。じゅうぶんな速度と角度によって投げられた石ころは、落ちるべき地面が世界の果てにむかって湾曲しているので、地面に届かない。
すると、どうなるか。石ころは丸い地球にそって永遠に落ち続ける。これが人工衛星の原理である。
人工衛星は飛んでいるのではない。落ち続けているのだ。

今日みたいな、晴れた春の宵のことだった。
わたしは中学生だった。
その日、いちばん仲のいい友達と近所の製材所で遊んでいた。山の迫った四国の田舎のことである。わたしが中学生だったころは林業がまだまだ盛んで、近くに製材所がいくつもあったのだ。
わたしと親友はふたりで組まれた丸太の上に座って、空を見上げていた。

そのとき、見たのだ。
暗くなっていく宵の空の星々の間を、動いている星があった。またたきではない。その小さな星は、すーっと空を横切っているのだ。
田舎の中学生には、それこそ天地がひっくり返るような驚きだった。わたしは、その親友と大騒ぎをした。暗くなり家に帰っても興奮していた。その夜はどきどきしてなかなか寝付かれなかったほどである。

いまでも、そのとき感じた驚きと高揚感を、こうやって思い出すことができる。
あれは人工衛星だったのだ。
そう結論づけたのは、笑わないでほしい、高校生のころだった。それまで、あの小さな動く星の正体を考えたことがなかったのだ。不思議な体験を不思議な体験のままにしておきかったのかもしれない。

もし、わたしが「福音の少年」シリーズ以外の本を出せるとしたら、その本に、天文用語にちなんだ言葉をつけたいと思っている。予定もなにもない。わたしの夢である。
「皆既日食」、「近日点」、「太陽面通過」、「衛星軌道」、「公転周期」、「自由落下」といったぐあいに。
SFではない。恋愛小説が書きたいのだ。天空をかける儚い星が落ちてくることを地上でずっと待ち続ける男の想い。太陽のような女性のまわりをまわり続ける惑星のような男たちの話。そんな、いろんな恋愛模様を天体現象になぞらえた小説である。

繰り返すが、夢である。それにまだ「構想」と呼べるところまで行っていない。だけど、いつか書き上げて出版社に売り込んででも世に出したいと願っている。

【CD】しばらく「タン塩」はやめようか。「ミート・イズ・マーダー」

2005年04月17日 18時53分13秒 | 音楽・映画のこと
そういえば「菜食主義」とは言っても「肉食主義」とは言わないな。

こんな場合、人間本来の性向により近い方は「主義」とはならない。イデオロギー化するのは人間の自然なありように反する主張のほうである。人間は嗜好物の中毒になるものだ→「禁煙主義」といったぐあいに。

人間はベジタリアンとして進化してきたのではない。サバンナに住んでいたわれわれのご先祖はおそらくハイエナのご先祖と肉食獣の食べ残した腐肉の奪い合いをしてきたにちがいないし、ふだん木の実を食べていても部族をあげての「儀式的な狩り」を定期的に行うという習慣は、それこそ一部の類人猿も持つことが確認されている、言わば本源的なものである。

「本能だから○○主義なんて意味がない」と言いたいわけではない。そんなことを言っていたら文明を石器時代に戻さなければならない。

そもそも、そんなに難しいことを息抜きのブログに書くほどのパワーはわたしには無い。単にあるCDを紹介したいだけなのだ。

とうに解散したロックグループ「スミス」の、「ミート・イズ・マーダー」というCDを紹介したいのである。
この表題曲「ミート・イズ・マーダー」、まるで肉食をする人々へのイヤミとしか思えない曲である。のっけから牛がモーモーいい、豚がブーブーいい、羊がメエと啼く(実際にSEとして入っている)。暗いメロディに、死んでいった動物たちの呪詛のように繰り返される「ミート・イズ・マーダー」というリフ。曲の終わりには、我々に殺されるだろう無数の動物たちのざわめき。

この曲を平然と聴き通せるのは生粋のベジタリアンだけなのではないかと思われるほどに、肉食をする(おまけに大好きな)わたしには不快に思える曲である。もちろん、それはモリッシー(ボーカル/作詞)の思うつぼなのだろうが。

大変こまったことに、この曲は美しいのだ。だから、アルバムを聴き通すとき、この曲をスキップできない。
ほかの曲もすばらしい。ザ・スミスのアルバムとしては「クィーン・イズ・デッド」に並ぶ代表作だと言っていい。もし「ザ・スミス」を聴いたことがないのなら、ライブ盤の「ランク」か、このCDから入ることをすすめたい。傑作である。

だからわたしは何度も聴く。そして、そのたび不快になったり当惑したりするのだから、われながら単純な人間だと思う。

好物の「ねぎタン塩」を、しばらく控えようか。

ミート・イズ・マーダー
スミス
ワーナーミュージック・ジャパン

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【本】作家志望でなくても必読の書「レトリック認識」

2005年04月16日 07時59分12秒 | 本のこと。
「いい本を書きたいといつも思っている」
切り出してみるとなんでもない言葉なのだが、敬愛するグレアム・グリーンのこの言葉をエッセイ集で目にしたとき、わたしは胸を突かれた。
なにをいまさら、と言われそうだが、これほどの作家でも「いい本を書きたい」と自分に言い聞かせるように書くことがあるのだ、と認識を新たにしたのだ。
「情事の終わり」や「ブライトンロック」を読んだとき、これほどの小説が書けたら死んでもいいと思った。いや、死んだら元も子もないのだが、このイギリスの作家はわたしにとってそれほどまでに大きな存在なのだ。

いい本が書きたい。

いわゆる「文章読本」は、ほとんど読んだ。谷崎のもの、三島のもの、里見や井上ひさし、丸谷才一のもの。どれがためになったなどというおこがましいことは書けないが、丸谷才一のものがもっとも肌にあった。身に付いたという意味ではない。引用されている文章がいちいち適切で名文ぞろいなのだ。

今日おすすめするのは、丸谷の「文章読本」に匹敵するほど「引用」と「分析」に優れた本である。そして丸谷才一の多くの著作と同じく、達意の文章で書かれた本である。
記号論の佐藤信夫の「レトリック認識」である。

この本は、レトリック感覚のいわば続編にあたるのだが、「修辞学」という言葉につきまとう退屈さが全くないという点で、「レトリック認識」の方がおもしろかった。

そう、おもしろいのだ。書かれていることじたいは、ひとことで言って難しい。「レトリック」という言葉に惑わされてはいけない。この本に書かれていることは記号論であり、哲学である。言葉(ロゴス)というものが人間の新たな認識を創出するというエキサイティングな理論を提示した本である。
心配することはない。文章のうまさ、明快さ、ときおり織り交ぜられるユーモアなどによって、すらすらと読めてしまう。

実用本のように「効用」があるかどうかはわからないが、濃密で楽しい時間を過ごせるであろうことはかなりの自信をもって保証できる。

いい本が書きたい、などとブログに改行して書いてしまう素朴な駆け出しのマイナー作家あるいは作家志望者だけではなく、知的な冒険に飢えているすべての本好きにすすめたい。

レトリック認識

講談社

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【CD】男が女を愛するとき 「ストリート・リーガル」

2005年04月12日 12時20分39秒 | 音楽・映画のこと
女を愛したとたん、メロメロになる男がいる。
四六時中その女性のことを考えるのは当たり前、甘える、すねる、会えないときは酒におぼれ、別れ話になりそうなときは恥も外聞もなく泣いてすがる。
年齢なんぞ関係がない。そういう男はいくつになってもそういう男だ。

ボブ・ディランが私生活でもそんな男かどうかは知らない。
だが、彼の書いたいくつものすばらしいラブソングを聴いていると、そんな情けない男の人間像が浮かんでくるのだ。
プロテストソングばかり集めた初期の傑作「時代は変わる」からして、離れていく恋人に、欲しくもないスペイン皮のブーツをねだる男の、せつなくもどこかおかしい歌が入っている。実生活において留学して別れた彼女をことをうたっただとか、秋元康によって男女を入れ替えられ翻案されて「木綿のハンカチーフ」という歌詞になったとか、そんなことはどうでもいい。そこにはある種の、普遍的な人間像がある。

でもって、この「ストリート・リーガル」というアルバムである。
その4曲目。「ベイビー・ストップ・クライング」。もうメロメロである。
自分を捨てて悪い男に奔り、泣きながら戻ってきた女に、声をかける男。冷たくするなんてとんでもない。ただ当惑しつつ「泣くのをやめなよ」と声をかける。

「見はり塔からずっと」や「廃墟の街」の象徴詩人としてのボブ・ディランはすばらしい。
だが、わたしは、情けない男の愛の歌を歌い続けてきたディランが、好きでたまらない。


ストリート・リーガル
ボブ・ディラン
ソニーミュージックエンタテインメント

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寝る前の独り言。

2005年04月11日 00時44分31秒 | 公園のつぶやき。
午前1時。
土曜の夜から、起きている時間のほとんどを執筆に費やした。外出したのは息子と市立図書館に行ったときだけ。
わたしのささやかな本を待ってくれているひとたちを、これ以上待たせたくはない。だが、今日も書き上げることができなかった。

おもに音楽専用になったiBookにつないだUSBスピーカーからは、レディオヘッドの歴代のアルバムが順にかかっている。
ああ、いま、大好きな「フェイク・プラスティック・ツリーズ」が始まった。美しいボーカルだ。

今日、いや、もう昨日だな。
春一番が吹いて、雨になった。
桜はみな散ってしまったのだろう。

時間が流れていく。
乳房から引き離された幼児が泣くように、嘆いてみてもはじまらない。
それはわかっている。

わたしは、自作の小説の登場人物に「少年よ、荒野に独り立つことを恐れるな」と言わせたことがある。
作者のわたしが、荒野に独り立つことをいちばん怖がっているからだ。

The Bends


桜の満開の下で、妙な言葉を思いついた。

2005年04月10日 00時23分56秒 | 公園のつぶやき。
   ねがはくは花の下にて春死なん
             その如月の望月のころ


 如月はもちろん陰暦で。望月とは満月。だが、わたしは西行法師ほどには桜という花を愛してはいない。放浪の果てに独り静かに息を引き取るよりは、ほんとうに気のゆるせるひとに見守られて、ベッドの上で大往生というものをしてみたい。つくづく俗人である。

「花見」というが、花のほうから息をとめて見つめられているような気がする。
「おまえはこの一日を漫然と過ごしていないか?」と詰問されているようで、なんとなく落ち着かない。

 時は残酷に過ぎ去ってゆく。明日には葉桜だろう。写真に撮った桜の花は、なにも映っていないのと同じ。こころのなかに、かすかなぬくもりがのこっているのならば、それで、じゅうぶんではないか。
 これからの荷物は軽いほうがいい。いつか満開の桜の下に消えていくときまで、両手にはなにも持たずに歩いていこう。

【CD】学生気分になって。「ダスター」

2005年04月09日 00時53分11秒 | 音楽・映画のこと
わたしは、年より若く見られることが多い。べつに自慢じゃない。必要以上に若く見られるというのは欠点だと思っている。

先日(といっても二月のことなんだが)、久しぶりに京都に行き、母校の今出川キャンパスを歩いたが、さすがに学生に間違えられることはなかった。上賀茂神社を左手に、出町柳まで歩く。ユリカモメたちが集まっている。
出町柳はあんまり印象が変わらない。名曲喫茶「柳月堂」も、わたしがコーヒー一杯でレポートを書いていたころと変わらずにあった。

ふいに、ゲイリー・バートンの「ダスター」が頭の中で鳴りだした。
学生の頃に購入し、いまに至るまで全然飽きずに聴いている。きっと名盤なんだろう。
ジャズといえばジャズなんだが、曲や、演奏からなにから若々しい。もちろん、高度な演奏だ。稚拙なのとは違う。だから「みずみずしい」と言い換えてもいい。「ジャズ」という言葉のオッサンくささ、あるいは「あやしげな関西弁のオバサンくささ」とは別の、先鋭的な若さのある音楽である。

ここまで書いて、思わず学生時代の不器用な恋愛のことを思い出した。恥ずかしくてたまらないのに。そう言えば、その国文学科の娘のことを考えながら、下宿でこのレコードを聴いていたことを思い出す。

いや、もう、忘れたっていいのではないか。思い出なんか。この名盤CDと違って不滅であることはない。

ダスター
ゲイリー・バートン
BMGファンハウス

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【CD】だれが聴いても名盤「ロンドン・コーリング」

2005年04月09日 00時26分50秒 | 音楽・映画のこと
世の中には、すり切れるほど聴いても飽きのこない、スルメ以上の名盤というものが存在する。
セックスピストルズにならぶパンク・ムーブメントの中心的なバンドだったザ・クラッシュの「ロンドン・コーリング」もその一枚だと思う。

ポップで、だれにでもわかりやすく、人間的で、暖かく、驚くほど豊かで、楽しいロックアルバムである。CD入れ(あるいは棚)の中にこのCDがあると無いとでは、「人生」の意味が違うんじゃないだろうか、と思えるほどの名盤である。

ちなみにこれに並ぶほど好きな加地版超スルメ級名盤を挙げてみる。

「ジャイアント・ステップス」 ジョン・コルトレーン
「ラウンド・ミッドナイト」 マイルス・デイビス
「ダスター」 ゲイリー・バートン
「アビーロード」 ビートルズ
「ジョシュア・ツリー」 U2
「ストーン・ローゼズ」 ストーン・ローゼス
「ブロンド・オン・ブロンド」 ボブ・ディラン
「モーニング・グローリー」 オアシス

こんな感じである。新旧のロックとジャズが入り乱れているが、そんなこたー、どーでもいいのである。

ロンドン・コーリング
ザ・クラッシュ
ソニーミュージックエンタテインメント

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【ソフトウェア】わたしの趣味はOSのインストールです。

2005年04月06日 21時25分08秒 | パソコン・デジモノ
わたしはつまらない男である。

仕事以外、あまり趣味らしい趣味がない。以前は創作が趣味だったが、それが仕事のひとつになってしまってからは、ほとんどなくなった。ゆいいつワンコインフィギュアを集めるのが最近の趣味だと思っているが、家人によるとわたしの程度では趣味とは言わないらしい。

音楽を聴いたり本を読んだりというのは、自分としては呼吸することくらいあたりまえなので、趣味という気がしない。「深呼吸が趣味です」とは言いづらいように、「趣味は読書です」とは言いづらいのだ。

その前はパソコンを自作するのが趣味だった。だが、恥ずかしながら最近、近くがかすんで見えてくるので、やめることにした。

唯一残ったのが、OSのインストールである。実は、書斎には執筆用とはべつに自由になるマシンが三台あり、それにいろんなOSを入れてみるのが趣味なのかもしれない。
もちろん、「メイン執筆環境のバックアップ」という建前があり、いちおうモノを書いたり、ネットを見たりと言った最低限のことはできる環境を構築しておいて、放っておく。

前置きが長くなったが、下のSUSE LINUX Professional 9.3日本語版が気になっている。前のバージョンが二万円という値段にちょっと手が出なかったのだが、12000円に値下げになった。
ひょっとしたらサブ機、もしかしてメイン機に使えるかもしれない。

だが、いつものくせでインストールしたあと放っておいてしまったら、どうしよう。

ノベル、大幅に値下げした「SUSE LINUX Professional 9.3日本語版」

【風邪をひいたときに聴いてはいけないCD】生と死の幻想

2005年04月03日 21時56分38秒 | 音楽・映画のこと
また風邪をひいて寝込んでしまった。土日のほとんどをベッドの中で過ごした。
やばいなんてもんじゃない、執筆がほとんど進んでいない。週末しか仕事ができないのに、これはつらい。

iPod shuffleのイヤホンを耳につっこんだまま横になっていると、キース・ジャレットの下の曲がかかった。ひどい気分だ。まるで自分で自分を埋葬しているような気分になった。

キース・ジャレットというと「スタンダーズ」の華麗なトリオ演奏か、「ケルン・コンサート」に代表されるピアノ・ソロ、叙情的なヨーロピアンカルテットあたりが人気があるだろうが、わたしはデューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンといった「アメリカン・カルテット」が好きだ。
「70年代のジョン・コルトレーンカルテット」と評したひとがいるが、まったく同感である。とくにこのアルバムは、コルトレーンカルテットにおける至上の愛に匹敵する作品だと思っている。

 ただし、風邪をひいて寝ているときには決して聴くな。

生と死の幻想
キース・ジャレット, デューイ・レッドマン, チャーリー・ヘイデン, ポール・モチアン, ギレルミ・フランコ
ユニバーサルクラシック

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