このブログでなぜかダントツの人気を誇る「好評につき終了シリーズ」(パート1)(パート2)にあやかって、日本語のことを書いてみたい。
以前、徳間書店さんで本を出したときに、ぼくは小説の本文に「○○○は論を待たない」と書いてしまった。そして、案の定、編集さんからチェックが入った。
「論をまたない」の「またない」は「俟たない」ですよ、と。
へ?
「待たない」じゃないの、とぼくは思った。あの優秀な徳間書店文芸部の編集さんが間違えたのか、などと失礼なことを考えた。
そうです。ぼくは「論を俟たない」という正しい表記を知らなかったのです。
ほんと、お恥ずかしい。
「そんなんでプロの作家ぶるな、ヴォケ」
はい。すみません。
オンライン漢和辞典で漢字そのものの意味を見てみよう。
待 (1)まつ。まちうける。人、機会などが来るのをまつ。
(2)まつ。もてなす。あしらう。準備をして人をもてなす。
俟 (1)待つ。
(2)たよりにする。
(3)立ち止まる。
よくあるブログの論拠は「待(1)」と「俟(2)」で明確に意味が違うので漢字を使い分けなければいけません、ということである。それは、そのとおり。話はここからである。「俟(2)」の「たよりにする」とはなんであろうか?
「俟」の字が使われた慣用句・ことわざに、
百年河清を俟つ
というのがあって、これは「濁った黄河の水が清くなるのを百年(期待を持って)待つ」という意味。転じていつまで経っても実現しないことを指すたとえだそうな。これは、わかる。「俟」という字を使うのにふさわしいのではないか、と思う。叶いそうもない夢にすがってしまうんですよね、人間て。
で、「論を俟たない」だけど、なんで「俟たない」のかがピンとこない。論ずるまでもないのなら、待つでもええやん。文法上の主語はたいてい「ある事柄」であって、人間じゃないのに。ひょっとして、論に頼る必要がない=自ずと明らかな事項。自明の理、だから俟つという漢字じゃないといけないのかなと思ったりした。"wait for"と"depend on”の違い、というか。
調べると、やっぱりもともとは中国語の慣用表現だった。
固不俟論
と書く。読み下すと、「固(もと)より論を俟たず」となる。日本でもそうだが中国でも文語、つまり論文などで使われる決まり文句のようだ。
「他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず」
とは、かの福沢諭吉先生の言葉。昨年「忖度」という言葉が流行った時にさかんに引用されたらしい。「人のこころがわからんのはもとより言うまでもないことじゃ」だそうだ。福沢先生をはじめ明治時代の知識人は当たり前のように漢文が読めた。だから中国語の「固不俟論」を普通に使う。
だから、なぜ「俟たず」なのかは、中国のひとに聞かないとわからないのだろうか。
さっき文法上の主語と書いたが、この慣用句はおもに論文に使われる文語である。つまり、個々の文の背後にいる論者は、その主張するところをすべてその文章内で証明し、読者を納得させなければならない(少なくともそんな心構えが必要だ)。「あとで誰かがきっと論じてくれますからね〜」ではいけない。だから不俟論なのか。
ああ、むずかしい。「論を俟たない」って言ってんのに論じてるよねー。
「いや、そもそもその慣用句を間違って使って指摘されたのお前だろ」
いや、それはそのとおり。こんなわたしでも、小説の本を出してます。「ロレンソの物語」といいます。
大勢の人が読んでくださるのを俟っています。河清を俟つに等しいかもしれませぬが。