自宅と道志の日々

タイトルを「自宅と道志の日々」にしました。日記のようにつぶやいています

地域も私も歳月の流れを感じる

2022年10月10日 | なかま道志ベース

私が小さい頃は、オヤジと屋根に登って多摩川の花火が見えました。当時は豪華でなく単発の花火でした。今では眺望できるような状況ではありません。

お月さんも雲に隠れたり変化しています。

中央線の最寄りの駅も南口は無く、駅前は何かの工場跡地でした。オヤジも自転車で駅まで行き、そこから省線(当時は鉄道省)で品川の会社まで通いっていました。その後は国鉄からJRになりましたが、通勤にもかなり時間を要したかと思います。

当時は茶色の電車でドアー付近には金属の支柱がありました。また木製の床に油?を塗っていて座席にはタバコの吸いがら受けもついていました。ごみは座席の下に投げ込みます。そんな時代でした。

以前、先代は日本橋から中野へ、そして当時別荘だった今の場所に疎開?のために引っ越したと聞いています。

この地域は戦中でしたので中島飛行機の工場があり(今ではICUやスバル工場、都立公園)、周辺には関連する下請け企業(工場)もありました。また、従業員の宿舎として長屋住宅も点在していました。西野住宅や東野住宅もその一つです。たしか2軒長屋だったと思います。

小さな地域でしたが、何でもそろっていました。風呂が各家庭に無い時代でしたので、東野住宅には2軒あり、魚屋・肉屋・八百屋・駄菓子屋・床屋2軒?・すし屋3軒・そろばん塾・・・・。などもです。

一昨日、床屋に行ったついでに付近を歩き回りました。

先ずは行き付けの床屋さんです。木造が鉄筋?になり、3代目も手伝っていました。私は80歳過ぎのオヤジさんにお願いしています。

ここには東野製パンと言う美味しい店もありました。今ではどうなっているのか分かりません。

床屋の隣には小さな八百屋があります。あと2軒くらいあったかと思います。

寿司屋も2軒ありますが、一軒はシャッターが下りていました。

地域の中央に公園があります。そろばん塾に通う生徒の待ち時間場所にもなっていました。公園の向こう側には風呂屋もありましたね。盆踊りや祭りはここで行われていました。

当時は誰でもそろばん塾には通うのは当たりまえでした。誰が経営しているか分かりませんが、大先生は遠の昔に他界しています。

あの木造の長屋も、残っている家はありません。それぞれ分けて建替えたのでしょう。

ラーメンが美味しい店がここにありました。特にオロチョンラーメンが好きでした。

八百屋さんは店も大きくしています。この店と並んで魚屋もありました(今はありません)

むかし味の蕎麦屋さんです。その隣は豆腐屋さんです。

今でもおばちゃん(おばあちゃん?)が頑張っています。また、隣には肉屋さんもありましたが、今はありません。その隣には酒屋さんがあり、風呂屋さんや小さなマーケットもありました。クジラのベーコンや角煮が安く並んでいましたがすべて建替えられています。

米屋さんも2軒ありましたが、1軒は閉じていました。

わが家近くは農家や植木畑が多かったのですが、すべて住宅になっています。

大きな近所のお屋敷です。もう、孫の代に入れ替わりました。この辺の地主はお隣の調布市から原野だったところを開墾して、農地改革でその部分が自分の土地になったそうです。氏神さまにその縁起が記されていました。よって、大きな農家は○○家一族とか○○一家と同じような名が何軒かあります。成功した方もいれば、いわゆる泡銭(あぶくぜに)ですべて騙されて取られた?方もいます。道志で言えば、佐藤さんや杉本さん、出羽さんも同じ苗字がたくさんあります。

これもバブル期の時でした。一応は我が家はその影響もなくなんとか保持し続けています。

お隣の幼稚園も古いですね。以前はフラ〇スベットの作業場でした。今で農業専業で食べている方は少ないのでしょう。マンションやアパート、駐車場などの経営で政経を立てているかと思います。

むかし話をしてもしょうがないのですが、この70年で時代と地域は大きく変わったのも事実です。

大型スーパーに行きましたら、もう来年のカレンダーがありました。歳を取るのも早いものです。

昼時でした。美味しそうなものが並んでいます。ある方にゴーヤの醤油漬けを送ろうと思ってビンを買い求めに行ったのですが、帰宅すると何故か適当なビンがテーブルの上にありました。女房が探してくれたのかな?と思ったのですが、知らないと言っています。

えっ!じゃ~買い物に行く必要は無かったと・・・。ついにその日(ボケ)が近づいて来たのを実感した私です。やはり70年の歳月は地域の環境だけでなく、自分自身にも変化が出てきたのでしょう。

 

Hiro